日々是好日、待てば海路の日和あり

橘 紀里

Advent 2022

1. 山茶花(凪)

 図書館のバイトから帰宅すると、やけに家の中が静かだった。今日はジムに行く日でもないから在宅しているはずなのに。首を傾げながら靴を脱いで上がると、ぷん、といつもより煙草の匂いが強く鼻についた。

 手洗いうがいをしてから居間を覗くと、いつもは開いている千秋さんの仕事部屋のふすまが閉まっていた。そういう時は基本的にさわらぬ神に祟りなし、だ。千秋さんはプロの作家だし、ちゃんと自己管理できる大人だ。だから、よほどのことがなければ僕が口を出す必要もない。

 千秋さんと出会って一年と少し。自分の指に嵌っている銀色が目に入って、ひとつ息を吐く。

 一年前の僕なら、多分そのまま隣の和室に転がって昼寝でもしていただろう。その頃の僕にとっては、ここが唯一ゆっくり眠れる——安心できる場所だった。当時はそんなことさえ気づいていなかったけれど。


 古びた台所の隅に置かれた最新式のコーヒーマシンの水を入れ替えて、千秋さんのマグカップを乗せる。先日動物園に行った時に買ってきた、虎の絵が書いてあるやつ。ジョークのつもりだったけど、本人は案外気に入ったらしくて、常用してくれている。そんなふうに、僕にまつわるものが増えていることにも、今さらのように気づいて何だかおもはゆい。


 自分のカップにはミルクを注いでレンジで温める。そこにエスプレッソを注いで簡易カフェオレの出来上がり。千秋さんはブラックで。


 両手にそれぞれカップを一つずつ持って、千秋さんの仕事場の襖の前に立つ。そういえば両手が塞がっているから開けられない。声を掛けるより先に向こうから開いた。案の定、いつもより険しい顔と、三倍増しくらいの煙草の匂いが鼻をついた。

「吸いすぎですよ」

「仕方ねえだろ」

「仕方なくないです。健康第一!」

 言いながらマグカップを差し出すと、咥えていた煙草を灰皿に押し付けてから、受け取る。それから窓を開けた。冷たい風が吹き込んでくる。

「別にいいですよ。寒くなっちゃいますよ」

「そういうわけにもいかねえだろ」

「そこまで気を遣ってくれるなら、そもそも本数減らしてくれた方が僕は安心なんですけど」

 余計なお世話だとはわかっていたけれど、上目遣いにカフェオレに口をつけながらそう言った僕に、千秋さんが少しだけ目を見開いて、なぜだか視線を逸らした。何も言わずにマグカップに口をつけて、それから僕を引き寄せる。コーヒーと入り混じる煙草の匂いは、もうずいぶん馴染んだものになってしまった。

「ずいぶん苦戦してます?」

「まあ、苦手でな」

 そう言って肩を竦めた視線の先を見ると、ノート替わりに使っているらしいA4のコピー用紙にはばらばらとランダムに何かの単語が書かれていた。


「『晩秋』、『寒い』、『快晴』、『オリオン』、『こたつ』……? 連想ゲームですか?」

「エッセイのネタ探しだ」

「ああ、なるほど」


 千秋さんはミステリからホラーや時代小説まで、けっこう無節操に書くけれど、フィクションじゃないエッセイは苦手らしい。その理由は——。


「うるせえ」

「何も言ってないじゃないですか」

「顔に出てんだよ」

「なんですか表情がうるさいとかそういうやつですか」


 一年前なら、消しゴムが跳んできて眉間にヒットしているところだけれど、代わりに近づいてきたのは無精髭だらけの顔で、柔らかく触れたそれにも、当たり前のように慣れてしまっている。

「……着想インスピレーションが足りないなら、散歩にでも行きますか」

「おかげさんで足りたようだ」

「え、今ので?」

「ああ」

 千秋さんの目の先は窓の外に向いていた。つられて見ると、濃い緑の葉が茂る木に、いくつものピンク色の花が咲いている。

「玄関脇の……もうこんなに咲いてたんですねえ」

「意外と気づかないもんだな」

椿つばきですか?」

「いや、山茶花さざんかだな」

「どう違うんです?」

「花の散り方が違うな。山茶花は花弁が落ちるが、椿は花が丸ごと落ちる。だから、椿は武家では好まれなかった、なんて話もあるな」

「へえ」

 頷いていると、そのままくるりと机に向き直ってしまう。本当に何かが浮かんだらしい。けれど、僕は思い切ってその腕を引いた。千秋さんは少し驚いたように僕を見上げる。仕事の邪魔をされた不機嫌さは、そこにはなかった——想定通り。

「せっかくだから、見にいきましょう」

「何?」

「山茶花だけじゃなく、他にもたくさんあるかも。もっといいネタがあるかもしれませんよ」

 そう言った僕に千秋さんは少しだけじっと僕を見つめ、それから口の端を上げて軽く笑って立ち上がった。そんな表情も、一年前よりずっと柔らかい。


「心配性だな」

「お互い様です」


 もうほとんど日が沈んでしまった外は暗く寒い。でも、隣に立つ人のおかげで、いつだって僕は温もりを感じられるのだ。

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