第11話 おじいさんと現代医療の闇
本当にあった話だが、お別れの話なので少しだけ昔話風に記す
酒飲みのおじいさんと優しいおばあさんが2人暮らしをしていました
おばあさんは腰が痛くなり、背もぐっと縮んでしまったりしたので2人で医者に行くことにした
血液の病気だった。一種のがん
しかし、白血病の様な決定的な病気ではなく、薬で抑えられる可能性のある病気であった。
安心はできない。ほとんどのがん細胞に薬が効いても、その薬に打ち勝てるほんの少しのがん細胞が増殖した場合、薬を変える
耐性を獲得したがん細胞と新薬との戦い
この繰り返しが何回できるのか。
不安な病気だ
一緒について行ったおじいさんは、普段は酒ばっかり飲み、刺身をちょっと食べるだけという少食大酒生活をし、何年も医者に行ったことがなかった
おばあさんのついでに検査をした
その結果
医者の言うことには、おばあさんよりおじいさんの方が早急に対策しないとだめとのこと
食道がんだった
口からの内視鏡では取れない大きさ
しかし、転移もしてない様子
背中から手術をすれば大丈夫と医者は言っ
た
また、医者は特別な手術も提案した。皮膚に小さな穴を3つぐらい開けて、遠隔の内視鏡で手術をすることができると言う話であった
ところが、おじいさんは痛くも痒くもないと言って、いっさいの手術を拒否した
ちょっとボケかかってる時もあり、元々、医者をあまり信じていないこともあっての返事と家族は理解し、説得したが、無駄だった
「俺を実験台にする気なんだ」とも言っていた
手術以外の方法で医者が何とかしてくれると言う甘い考えもあったかもしれない
口からの内視鏡手術以外の食道の手術は簡単なように見えて簡単ではなかった
食道は前面にあるように見えて、肺の裏側にあり。背骨側で胃とジョイントし、胃が腹側に戻ってくるような配置だった
食道を前面から手術するには、他の臓器をどかさなければならず、背中からの手術では、肋骨にどいてもらわなければならない ( 切る?)
確かに困難な手術だ
それをうすうす感じ取っていたのか
野生の勘か
それともボケていたのか
とにかく全てを拒否した
唯一の治療法を拒否するとは、残念過ぎると親戚も説得を試みたが、ならず。それもしょうがないと理解していった
医者は、「手術を拒否するのも、その人の能力」と言ったそうだが、今ひとつぴんとこない言葉だ
何とか騙すように、ステントという網編みの短い円筒だけは、口から食道に入れてもらった。食道がふさがるのを防ぐ手立てとしては全く以て不十分だった。
食道はみるみる塞がっていった
これといって治療は無かった
医者側から、放射線治療や抗がん剤治療の提案もなかった
後から考えると不思議であるが、本人が痛くも痒くもないと言っている以上、家族側も放射線治療とか抗がん剤が思い浮かばなかった
80歳のがん患者が手術をしないとなると、何も治療が提案されない
そして、全く食べられなくなった
ブドウ糖の点滴をすることはあったが、それは栄養補給と言う意味ではなく、別の何かの意味と言うことであった。栄養を点滴で入れるには、通常の点滴ではなく、もっと太い針で体の深いところに入れなければいけない
投薬という投薬もほとんど無い
投薬をしても、治る見込みがなければ、どうにもならない。ただの時間稼ぎ
若ければ、時間稼ぎも治ることにつなげられるだろう
若ければ、胃に直接パイプをつけて栄養を直接流し込む "胃ろう" という方法もあるだろうが、高齢からか医者側からは全く提案がなかった。提案されたところで拒否しただろう
承諾するはずは無かった
家族は終末医療の病院とかも見に行った
匂いがほんとに終末で、そういったところに行かせたくはないと感じていた。
何も栄養も入れず過ごせばどうなるか、家族も論理的に考えれば、ぞっとする現実がわかるだろうが、目の前のことで精一杯で考えられなかったのが救いだった
治療らしき治療が無く、体は徐々に痩せ細り、ただ終末を待った。
質の悪い終末医療病院ではなく通常の病院だったことは、おじいさんは少しだけだが強運だった
生きると思い込んでいる人間が、ただ終末を待つ。なんとも恐ろしい社会の仕組みであり、運命だった
しかしおじいさんは、食べられずガリガリでも、動けていた
徘徊と言うほどではないが勝手に病院内に歩いてしまうので、なるべく家族が病室に来て泊まってほしいとなった。
おばあさんが度々病院に泊まった
その日、交代で初めて長男が病院に泊まることになった
長男はおじいさんが痩せている事は分かってはいたが、実際に身体を触ってみて、痩せ方がとてつもなく、身体中の骨の尖り具合が半端でない事に気が付いた。
これは長く生きられないと感じた
病院側からは、長くないとかは言われてはいなかった。この前の日だって、近緣の女性がおじいさんの足を揉むと「いい女だなぁ」と軽口をたたいていた。
おじいさんは調子が良く、軽口も得意で、みんなを笑わせるのがほんとに好きな人だった
1人で病室内のトイレに行く位の事はできていた
長男はおじいさんの体を見て、触って、もう生きられないと言うようなメッセージを感じた。その夜、全く食べられないおじいさんの口にとろける白いアイスを含ませてやった
おじいさんは「おいしい、おいしい」と言った
このアイスも、食道のある場所で止まって奥にはいけなかったのだろう
粘膜からほんの少し吸収出来て良かった
おじいさんはもう何日も何も食べていない
長男は最後の挨拶をしようと思った
ぎゅっとハグをして、今までありがとう。大学もいかせてもらってありがとう。これまでの " ありがとう " を全て感謝の言葉にした
想像だが、おそらくおじいさんはこの時に及んでも、自分が死ぬとは考えていなかったと思われる。
普段、余計な事を言わない長男に感謝の言葉を言われて、初めて自分の死を意識したと思う
そして、おじいさんは寝た
寝たと言うよりも、もしかすると意識が遠くななったのかもしれない。
胸で呼吸をしながら寝ているところを見て、長男は考えた。こんな運動をしていたら、これまで何も食べてこなかったのとエネルギーが見合わない。
もう生きられない
何とかこの夜を過ごして朝の8時ごろまで生きてくれれば、おばあさんを呼べる
おばあさんも病気なので変な時間に呼びたくない
そもそも、病院側からはおじいさんの命が危ないとは言われていない
その夜を、祈るように過ごした
しかし、朝7時前に呼吸が止まった
止まった様に見えた。
胸が動いていない
看護師にナースコールを通じてその旨言うと、「バイタルは正常ですよ」と返してきた
そんなはずはない。これでお別れだと感じた
看護師が来て状況を確認した
若い患者だったらするであろう心臓マッサージも全くせず、長男もしようとは思わなかった。燃料切れの車にセルモーターでエンジンをぐるぐる回しても意味がないからだ
亡くなった
おばあさんが臨終に間に合わなかったことだけが、おじいさんと長男の悔いとして残った
長男にしてみれば感謝は伝えられたのが救いだった
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おじいさんは頭が "きれた" が、家の都合やら何やらで中卒で働いた。頭の良さは将棋の強さにしか反映できなかった。しかし、よく働いた。
長男も大学へ行き、孫世代では昔で言う一期校や旧帝大にも入れた。
進学における自分の投影としては充分であっただろう
おばあさんはとっても良い人で控えめ、誰からも好かれて、元勤めていた会社の人が会社を辞めても寄ってくるような性格。
頑固で将棋が強いところと、軽口でみんなを楽しませるところ以外に取り柄がなかったおじいさん。良い伴侶と出会えたのもラッキーだ
幸せだっただろう
後で聞いた話だが、おばあさんが病院のベッドで、おじいさんの上の布団をめくると、体の前で両手を合わせていた事があったという
おじいさんはボケておらず、死ぬこともわかっていたのかもしれない
もうこれでお別れ、安らかに
さようなら
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