第33話

 ハープが静かに和音を奏でる。美しく響く音の中、リーシャンが顔を上げた。正面にいる志乃を見て、ふと不思議そうな表情を浮かべる。怯えたように志乃を見詰める様子は、ペントハウスで初めて会った時に似ていた。

 リーシャンは志乃を忘れてしまったのだろうか。すべてを忘れてしまうことで、あの牢獄から出られたのだろうか。

 不安げな視線は、志乃を捉えたまま動かなくなった。ぼんやりと焦点が定まらない眼差しは、志乃を通して、もっと遠くを見ているようにも思えた。伴奏のハープの音だけが流れるなか、沈黙の時間は過ぎていく。そして、微かなざわめきが起き始めた時。

 風が吹いた。

 テルミンが奏でる強い風の音が、空気を動かしたように感じた。吹きぬける風の音に、風見鶏が音を立てるキイキイという微かなきしみが混じる。そのハーモニーは物悲しくて不穏ふおんで、どこかなつかしい。

 遠くに波の音を聞いた。いだ海にさざ波を立て、風は吹き渡っていく。

密かな泣き声のように、小さく悲しい音色が響いた。愛情にえた幼い子供がすすり泣く。僕を見て。誰か、僕を愛して。弱々しく訴える声は無視され、悲しみは内へと抑え込まれる。

 突然差した光、しかし伸ばした手は突き放され、さらなる絶望へと落とされる。ごめんなさい。ごめんなさい。いくら繰り返しても、消えることのない罪。深い海の底で、彼は動きを止める。

 心の奥底へと記憶の糸を辿たどるように、テルミンは歌う。

 目の前に小さな光の粒が落ち、彼は目を覚ました。両手で包むように捕まえた、その光は優しくて暖かくて、凍り付いた心から小さな雫が落ちた。どこへも行かないで。ここで一緒に暮らそう。けれど光の粒は波にさらわれ、彼の手から滑り出た。

 上へ上へと光の粒は彼を誘う。駄目だよ。僕はここから出られない。罪を犯したから。待って。行かないで。

 荒れ狂う波が彼を海の底へと引き戻す。消えないで、愛しい光。どうか戻って来て。

 時の止まった海の底で、彼は待ち続ける。

 ある日、海は荒れた。穏やかなはずの海底にまで波は押し寄せ、彼は波にさらわれた。濃紺が黒く濁り、やがて視界が真っ暗になる。何も見えない。何も触れない。すべての望みが絶たれた。悲しみに胸が張り裂け、彼は闇に溶けようとしていた。

 そのとき目の前に、再び光の粒が現れた。光の粒は大きくなり、彼を包み込む。

 優しさと慈しみに溢れた暖かな光。互いの命が溶けあうような感覚。魂が幸せを感じた。

 心は満たされた。もう何もいらない。あるのは、ただ感謝の想いだけ。

 ありがとう、僕の大切な人。そして、さようなら。

 優しい記憶だけを胸に残して。すべては想い出の中に。

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