第31話

 一年間、大学を休学した志乃は、後期カリキュラムが始まる秋になって、ようやくキャンパスに戻って来た。なじみの顔がない学食のテーブルでスマホの電源を入れた志乃は、当てもなく画面を遷移スクロールした。以前使っていたものは事故のときに紛失してしまった為、新しく買い替えたスマホの中身は、まだ真っさらに近い。同学年だった友人たちは専門課程に進級し、別の学舎に移ってから疎遠そえんになった。

 連絡先に浩宇ハオユーの名前はない。検索を掛けても、リーシャンのユーチューブも見つからなかった。あれは夢だったのか。そう思う程に、何もかもが跡形なく消え去っていた。


 時折り冷たい風が吹くようになった。午後の講義が休講になり、時間が空いた志乃は、自転車で海沿いの道を走っていた。もうすぐ琳タワーが見える。確かめようと思った。

 裏の駐車場を入り、エレベーター横のスチールの扉を開ける。見上げた螺旋らせん階段は遥か上まで続いているように見えた。

 よく登れたものだと思う。自分の脚をめてやりたい。ガクガクと笑うひざをなだめながら、志乃は屋上の扉を押した。

 強い風が吹き付けた。

 コンクリートだった筈の地面には芝生が生い茂っていた。一面の芝生に風が波を立てる。少し茶色の混じる波頭が綺麗に並んで流れていく先に、胸のあたりまでに高くなった柵が見えた。屋上には芝生の波と風の音だけ。吹きぬける風の音に、風見鶏が向きを変える軋んだ音が混じる。

 ペントハウスはなかった。リーシャンは、消えてしまった。



 志乃は大学を卒業し、社会福祉士と精神保健福祉士のダブルライセンスを取得した。けれどソーシャルワーカーの仕事には就かず、小さなメーカーに就職した。

 探してはいけないのだ。忘れなければいけないのだ。そう自分に言い聞かせて、志乃はリーシャンを胸の奥に仕舞い込んだ。傷つけないように、大切に。幾重にも、柔らかな記憶のベールに包んで。

 幼稚園で一緒だった豊川彰人あきとと再会し、平凡で穏やかな恋愛を経て、今日、二人で婚姻届けを出した。夫になる人、豊川彰人。妻になる人、高橋志乃。志乃は彰人の妻になった。記憶は造られ、書き換えられるものだ。深い眠りから覚めた時のように、大切な想い出もまた、いつかは消えてしまうのだろうか。

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