第24話

「莉静はすぐに助け上げられましたが、何日も意識が戻りませんでした」

 浩宇は、そこで言葉を切った。辛そうに唇を震わせ、微かに息を吐く。言葉も出ない志乃をしばらく見詰めた後、両手の指を組み合わせ、その上に額を乗せた。

「悪いことは続けてやって来るものなのか、その後、莉香の容態が急変しました。そして懸命な治療の甲斐なく、莉静が目を覚ます前に、莉香は帰らぬ人となりました」

 組み合わせた指が震えている様に見えた。言葉を絞り出すように、浩宇は続けた。

「何日も死線をさまよった莉静がようやく病院のベッドで目を覚ました時、母から掛けられた言葉は『兇手シォンシュ』でした。人殺し、という意味です。『ごめんなさいドゥイブチー』、そう言った莉静の顔を、私は忘れることが出来ない」

 浩宇ハオユーの喉が震え、微かな声がれた。それをみ殺し、感情を押さえつけるように、浩宇は肩を上下させた。

「母も後悔していました。けれど一度口にしてしまった言葉は取り消せない。覆水難収、もう、どうしようもなかった」

 苦しそうな声が途切れ、浩宇は再び顔を上げた。

溺水できすいによる低酸素のせいなのか、莉静は少しおかしくなってね。自分を莉香だと思っている。そして莉静は、今でも深い海の底にいるんだ。あの部屋の青い色は医師の指示で、莉静を落ち着かせるためのものです。あそこにいる限り、あの子はリーシャンとして人格を保っていられる」

 何も言えなかった。解離性かいりせい障害。心的外傷への自己防衛として自己同一性を失う神経症だ。強いショックから心が壊れてしまうのを防ぐ為に自分の精神を分断する。莉静は自分の心と記憶を海に沈めた。あの部屋は海の底、莉静を閉じ込める深海の牢獄ろうごくなのだ。そして、莉静は莉香になった。愛されたかったから。

「父が海外へ拠点きょてんを移すことになった時、私は莉静と此処に残ることにしました。あの子が不憫ふびんで仕方がなかった。何とかしてやりたかった。二年ほど前、ふと思いついて、あの子にテルミンを弾かせてみました。才能は消えていなかった。私は彼の演奏をユーチューブに流すことにしました」

 浩宇は少し落ち着いた口調になり、志乃ゆきのに向かって小さく微笑みかけた。

「君が見たユーチューブは初期のものです。ホラーな噂が立ったことは予想外でしたが、そのお陰で登録者が少しずつ増えていきました。それに今年の夏、君に出会ってから大きく変化が見られたんです。感性がより豊かになり、音の幅が広がりました。登録者はけた違いに増え、先日ついに、CDデビューの話が舞い込みました」

 浩宇は先程の沈鬱ちんうつな表情とは打って変わった優しい眼差しで、また遠くを見た。

「あの子が元に戻ることは、もう無いのかも知れない。一生あの部屋から出ることは出来ないのかもしれない。けれど、それでもリーシャンが幸せを感じる瞬間があるのなら、一時でも笑顔でいられるのなら、私はそれで良いと思っています」

 真摯しんしな眼差しが志乃を射る。

「あの子を、支えてやってはくれませんか」

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