第3話

 インターホンが見当たらない為ドアをノックすると、少しの間があって鍵が開く音がした。ドアが開く気配はない。

「お待たせしました。ウーバーイーツです」

 そっと玄関の扉を開けて中を伺うと、狭い沓脱くつぬぎの先にフローリングの床が見えた。そこに、スウェットの裾からのぞく細いくるぶしがあった。裸足の足の甲に青い血管が透けて見える。

「誰?」

 怯えたような声を耳にして顔を上げた志乃は、視線を動かせなくなった。戸惑い顔をして佇む少年……少女だろうか。肩までの髪とはかなげな面立ち。背が高いから、やはり男だろうか。志乃より幾つか年下だろう、綺麗な子だ。

「ウーバーイーツです。ご注文の品をお届けに上がりました」

 志乃がそう言って紙袋を差し出しても、少年は突っ立ったまま志乃の顔を見ていた。軽い斜視しゃしがあるのだろうか、今一つ視線が定まらない感じがするのが不思議な印象を与えた。

「ウーバー?」

 受け取った紙袋の中を覗いて小さく首を傾げる。

「ごはん?」

「はい」

 何となく嫌な予感がした。もしかして、部屋を間違えたのだろうか。でもここは最上階。駐車場のプレートに表示されていた8451室はワンフロアで一室だった筈だ。

「ありがとう」

 やっと聞いた言葉にほっとして、志乃はスマホを取り出し配達済みボタンを押した。完了だ。

「入って、ウーバー」

 いきなり手を引っ張られて志乃は焦った。急いで靴を脱ぎ、とりあえず転ぶのだけは避けた。

「一緒に食べよう」

 少年は志乃の手を掴んだまま奥に入る。仕方なく付いて行った志乃を、ひんやりした空気が包んだ。

 よろめきながら足を踏み入れたそこは、青い部屋だった。広いリビングダイニング、高い天井とアールのある壁。壁も床もカーテンもファブリックも、すべて濃い青で統一されており、シンプルだけれど上質な調度品がしつらえてあるのが見て取れた。入口の反対側には大きな窓が並んでいるが、高い位置から始まる窓からは空しか見えない。紫外線除けだろうか、ステンドグラスのような青い窓のせいで、空気までもが青く見えた。海の底にいるようだ。

「いえ、私は」

 言いかけた言葉を無視して、豪華な洗面所に連れて行かれる。

「手を洗って。ちゃんと洗わないとハオユーに叱られるよ」

 何を言っているのだろう。訳が分からないまま二人で手を洗って、促されるままテーブルに着いた。

「綺麗だね」

 とても自然な感じで、少年は料理をテーブルに並べた。アルバイト以外では入る事がないだろう高級料亭の弁当は、確かにとても綺麗だった。

「あの」

 途方に暮れてしまった志乃の後ろで、玄関が開く音がした。

「何してるんだ」

 男性の声に振り向いた志乃は、急いで椅子から立ち上がった。助かったという思いと、益々追い込まれたような気持が入り混じり、とにかく頭を下げる。

「配達に伺ったんですけれど。あの、8451室のりん様」

 溜息が聞こえた。顔を上げると、長い髪を風で乱した男性が苦虫を嚙みつぶしたような表情で立っていた。

「8451は一階下です」

 それだけ言って、料理が広げられたテーブルを見る。

「まあいい。ご苦労様」

 溜息交じりに言われて、志乃は泣きたくなった。

「申し訳ございませんでした。失礼いたします」

 料理は置いたまま急いで玄関に向かう。店と客には後で謝ろう。とにかく一刻も早く立ち去りたかった。

 入口に置いてあった鞄を肩に掛け直した時、後ろから腕をつかまれた。柔らかなコロンの香りがする。振り向くとすぐ側に少年の顔があった。

「ウーバー、明日も来る?」

 素直な眼差しで問いかけられて、志乃は言葉に詰まった。

「いい加減にしなさい」

 男性がドアを開ける。少年は諦めたように顔を伏せた。

「帰り道は分かりますか?」

 志乃と一緒に外に出た男性が尋ねた。

「はい。あの、階段で」

 つい正直に言ってしまった志乃の顔を見て、男性は「ああ」と納得したような声を出した。志乃を先導するように一旦非常階段に入り、一階下の扉を開ける。出たところをすぐ左に折れて少し歩いた先に、よく見ないと分からないエレベーターの扉があった。

「では、これで」

 短くそう言って立ち去ろうとする背中に、志乃は再度頭を下げた。

「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 数歩進んでから男性は足を止め、志乃に向き直った。

「あれを注文したのは私ですから、どうぞ気にしないでください」

 その後何か言いかけて言葉を切り、男性はかすかに息を吐いた。

「失礼します」

 くるりと踵を返し、非常階段へと戻って行く。ボタンを押すのを忘れたまま、志乃は来もしないエレベーターを待ち続けた。

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