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 僕たちのつまらなくも愛すべき日常が、得体の知れない非日常へと姿を徐々に変え始めたのはいつのことだっただろう。

 今日はやけに夕陽が印象的だなと思った僕は、時計を見るまでそのことに気が付かなかった。

 周りは既にそのことに気付いていて、何やら騒がしいと思ったのは、そういうことだったらしい。

 そんな調子だったから、僕はいつもと変わらず放課後の数時間を街で過ごすことにした。

 高校は田畑に囲まれた、大人に言わせればのどかな、僕たちからすれば何もない場所に立っている。授業が終わった生徒の行動はと言えば、家に帰るか、図書室で勉強するか、僕のように街まで出かけて遊ぶかだった。

 最寄りの駅から数駅乗って、一番近くのそれなりに大きな街に出る。駅前にはロータリーがあって、何台ものタクシーが客を待っていた。その向こうには大きなビルがあって、誰もが知っている飲食チェーン店やファッションブランドが軒を連ねている。しかし目的地はそこではない。

 歩道橋を渡り、大通りから少し外れた裏道を歩く。田舎育ちの僕は、街の裏道なんてゴミだらけの、昔のパリのような光景を想像してしまうけれど、意外と清掃が行き届いているようだった。人も物も集まるところは、いろいろなものがちゃんとしているのだ。

 例えば交差点。これだけ多くの人が縦横無尽に行き交っているにも関わらず、歩みを止めることはなく、誰ともぶつかることもない。まるで訓練された軍隊のようだ。

 少し広い道に出た。両側を高い建物に挟まれた薄暗い通りだ。その更に奥、古いテナントビルの二階にそれはある。

 狭くて急な階段を上ると、その途中に乱雑な様子で置かれた看板が目に入った。

『喫茶 アナトラ』

 建て付けの悪いドアを軋ませながら開ける。その瞬間、何百年もの秘密を解き明かしたような、重厚な甘い香りが漂ってきた。

 この一瞬が、僕の一日で最も幸福な瞬間だった。

 煉瓦風の内装の薄暗い店内には、いつもほとんど客がいない。いても見覚えのある常連客だけだ。彼らもきっと、僕を見て同じことを思っているに違いない。

 未だかつて空いていなかったことのない席に、昨日と同じように、一昨日と同じように座った。そう、このテーブルの傷。去年の夏に僕がナイフでつけてしまった傷だ。どうせ僕以外に誰も座らないからと、修繕費は払わなくてもよいことになったのだった。その日から、それまでだって実質的にそうだったけれど、改めてここが僕の指定席になった。明日も同じように座るだろうと、僕は何の疑いも持っていなかった。だからそれは突然にやってきた、僕がこの店で経験する最初にして最後の想定外だった。

「ねぇ、明日は明日が来ないんだって」

 カウンターの向こうからそんな訳の分からない言葉が飛んできた。顔を上げると、マスターのアカネさんが口元にわざとらしく手を添えて、秘密を打ち明けるような声で囁いていた。

「何ですか、それ」

 僕はコートを背もたれにかけながら訊いた。

「そのままの意味。ニュース見てないの?」

「下校中なので」

「随分遠回りなのね。ええと、今日は金曜日だから……オムライスか。すぐ作るから」

 水の入ったコップを置くと、アカネさんはキッチンに戻っていった。

 明日は明日が来ない。

 なぞなぞのような言葉だ。実際になぞなぞかもしれないけれど、ニュースを見ていないのかと聞かれたのだから、ニュースで報道された何かに関係するのだろう。

 携帯を開くと、そこで僕は少し困惑した。

 第一に、夜から雪が降るということ。

 第二に、アカネさんの言った通りのヘッダーが検索結果を埋め尽くしていたこと。

 戸惑いながらいくつかまとめサイトを読んでみた限り、どうやら世界では大変なことが起こっていたらしい。それも異国の戦争や政治家の問題などではなく、僕の手の届く範囲の日常に影響を及ぼすようなものだった。

 時間が、少しずつ止まろうとしている。

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