続き〜完結まで

「さあ皆さん、ご注目ください! 本日の主役、アメリス様の登場ですよ!」

ルネの高らかな宣言と共に、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。 私はというと、まるで市場で競りにかけられる家畜のような気分で、ルネに背中をグイグイと押されながらリビングへと足を踏み入れた。

そこには、これからの作戦会議のために待機していたヨーデル、ロストス、そしてアルドの三人がいた。彼らはテーブルに地図を広げて深刻な顔で話し込んでいたが、ルネの声に驚き、一斉にこちらを振り返った。

そして、時が止まった。

三人は石像のように固まり、ポカンと口を開けて私を見つめている。 沈黙が痛い。やっぱり似合っていないのだろうか。胸をサラシできつく締め上げられ、慣れないパンツスタイルに、首元が詰まったタキシード。鏡で見たときは「あら、意外と悪くないかも」なんて自惚れてしまったけれど、やはり男性陣から見れば滑稽な道化に見えるに違いない。

羞恥心で顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい、いや、このまま地下道まで走って逃げ帰りたい。

「……ぷっ」

最初に沈黙を破ったのは、ロストスだった。彼は手で口元を覆い、肩を震わせている。

「やっぱり笑うのね! わかっていたわよ、どうせ似合わないって……」 「いや、違いますよアメリスさん。そうじゃなくて……驚いたな」

ロストスは真面目な顔に戻ろうと努力しながら、私の目の前まで歩いてきた。そして、まじまじと私の顔を覗き込む。

「完璧だ。正直、部屋に入ってきた瞬間、知らない美青年が迷い込んできたのかと思いましたよ。ルネの腕が良いのもあるでしょうが、素材が良すぎる」 「へ?」

予想外の褒め言葉に、私は間の抜けた声を出す。

「アメリス様……なのですか?」

ヨーデルがおずおずと尋ねてきた。彼は信じられないものを見るような目で私を凝視している。

「ええそうよ。ルネに無理やり着せられたの。変でしょう?」 「変……? いえ、その、悔しいですが……俺よりも男らしいというか、いや、貴族のぼっちゃんに見えるというか……」

ヨーデルは頭をかきながら、なぜか私の顔を直視しようとしない。耳が少し赤くなっている気がする。

「素晴らしい変装です、アメリス様!」

アルドが立ち上がり、興奮気味に声を上げた。

「これならば、アサス様の目を欺くことも不可能ではありません。元々アメリス様は背がお高いですし、凛とした立ち振る舞いは騎士顔負けです。ただ……」 「ただ?」 「中身がアメリス様のまま、というのが最大の懸念点ですね」

アルドは真顔で失礼なことを言った。

「ちょっと、それどういう意味よ!」 「そのままの意味ですよ。アメリス様、口を開けばいつもの調子が出てしまいます。作戦中は極力無口でいるか、あるいは……」

ロストスが指をパチンと鳴らした。

「設定を作り込みましょう。あなたは遠方、そうだな……東方の小国から来た若き富豪『アメル・クリスティ』。無口でクール、しかし商才に長けた謎の貴公子。これで行きましょう」 「アメル……安直すぎない?」 「わかりやすくていいじゃないですか。それに、今のマスタールとロナデシアの情勢を考えれば、第三国の資産家というのはアサスさんにとって喉から手が出るほど欲しい存在のはずです」

ロストスの目は、すでに商談モードに入っていた。彼の計画はこうだ。 現在、アサスお姉様はマスタール州との交易が途絶えたことで、新たな資金源と販路を求めて焦っているはずだ。そこへ、正体不明だが羽振りの良い投資家「アメル」として接近する。 お姉様が食いついてきたところで二人きりの場を設け、そこで正体を明かして説得を試みる、というものだ。

「場所はどうするの? お姉様の屋敷に乗り込むわけにはいかないでしょう?」 「それなら好都合な情報があります」

ロストスがテーブルの上の地図の一点を指差した。それはロナデシア領とマスタール州の境界付近にある中立都市『ベルン』だった。

「三日後、この街で大規模な商業ギルドのパーティーが開かれます。表向きは各国の商人の親睦会ですが、実質は裏取引や新たな契約を結ぶための狩り場です。情報筋によれば、今回アサスさんが極秘で参加するそうです」 「お姉様が……自ら?」 「ええ。それだけロナデシアの財政が切羽詰まっているという証拠でしょう。ここが勝負所です、アメリスさん」

三日後。人生初の男装で社交界へ潜入することになったのである。

会場となるベルンの迎賓館は、煌びやかなシャンデリアと着飾った人々で溢れかえっていた。 音楽隊が奏でる優雅なワルツ、グラスが触れ合う軽やかな音、そして欲望と計算が入り混じったむせ返るような香水の匂い。

私はロストスにエスコートされ……ではなく、ロストスを従者のように従えて、会場へと足を踏み入れた。 今日のロストスは私の「秘書」という設定だ。彼が招待状を受付に提示し、私たちは何事もなくホールへと入ることができた。

「いいですかアメリスさん、背筋を伸ばして。アゴを少し引いて、視線は流し目で。誰かと目が合ってもニコニコしないでくださいね、不敵に口角を上げるだけにするんです」

ロストスが小声で指示を出してくる。私は言われた通りに表情筋を固めた。 緊張で胃が痛い。もしここで転んだりしたら、「東方の貴公子」どころか「東方のドジっ子」として伝説になってしまう。慎重に、慎重に歩かなければ。

カツ、カツ、とヒールの低い革靴が床を叩く音が心地よい。 ふと、周囲の空気が変わったのを感じた。

「あら、あの方はどなた?」 「見たことない顔ね。でも、なんて凛々しいのかしら……」 「あの憂いを帯びた瞳、素敵だわ」

ざわめきが波紋のように広がっていく。どうやら変装はバレていないらしい。それどころか、すれ違う女性たちが皆、熱っぽい視線を送ってくるのだ。扇子で口元を隠しながら上目遣いで見てくる令嬢、大胆にウインクをしてくる貴婦人。

(な、なんなのこれ……?)

今までパーティーに出ても「壁の花」か「お母様の操り人形」扱いだった私には、この反応は未知の体験だった。 ふと、あの地下道で男が言った言葉が脳裏をよぎる。

『人間であり人間でなく、淫魔であり淫魔でない』

まさか、この異様なモテっぷりはそのせいなの? 私が無自覚に何か怪しいフェロモンでも出しているというの? いやいや、そんなはずはない。これはルネのメイク技術と、ロストスの演出のおかげだ。そう自分に言い聞かせる。

「すごい人気ですね、アメル様」 「からかわないでよ、ロストス。それより、お姉様は?」 「焦らないでください。獲物は向こうからやってきますよ」

ロストスが目配せした先、ホールの奥にあるVIP席に、見慣れた人影があった。 冷ややかな銀髪を完璧に結い上げ、鋭い眼光で周囲を値踏みしている女性。アサスお姉様だ。 彼女の周りには下心ありげな商人たちが群がっているが、お姉様はまるで汚いものを見るような目で彼らをあしらっている。

「相変わらずね、お姉様」 「ええ。ですが、あの中で本当に彼女の眼鏡にかなう人間はいないようです。そろそろ行きましょうか」

ロストスが合図を送り、私たちは人混みをかき分けてアサスお姉様の方へと向かった。

「……ですから、そのような低品質な綿花になど興味はありませんの。出直してらっしゃい」

近づくと、お姉様の氷のような声が聞こえてきた。言われた商人は顔を真っ赤にしてすごすごと退散していく。 チャンスだ。私は深呼吸をして、心を「アメル」に切り替える。

「手厳しいですね。品質よりもコストパフォーマンスを重視する今の市況において、彼の提案も一考の余地はあったのでは?」

私はなるべく声を低くし、尊大に振る舞いながらお姉様に話しかけた。 お姉様がゆっくりとこちらを向く。その鋭い瞳が、私を射抜くように捉えた。心臓が跳ね上がる。バレるか?




「……あら? 存じ上げないお顔ですわね。どちら様かしら?」

バレていない! 私は内心でガッツポーズをしつつ、表面上はクールな笑みを浮かべた。

「お初にお目にかかります、美しきロナデシアの才媛。私はアメル・クリスティ。東方より、新たな投資先を探してこの地へ参りました」 「アメル……? 聞かない名ですわね」

お姉様は疑り深い目で私を上から下まで眺め回した。値踏みされている。まるで商品棚の壺でも見るような目だ。 しかし、私のタキシードの襟元、ルネが選んでくれた最高級のシルクのネクタイに目が留まると、彼女の眉がピクリと動いた。

「ですが、そのお召し物は悪くないわ。マスタールでも手に入らない一級品ね」 「お目が高い。これは我が国独自のルートで仕入れたものです。……ロナデシア領は現在、流通の停滞にお悩みだと小耳に挟みましたが?」

私が核心を突くと、お姉様の表情が一瞬強張った。

「どこでそのような噂を? 我が領の経営は盤石ですわ」 「隠しても無駄です。数字は嘘をつかない。あなたの瞳にある焦りもね」

私は一歩踏み出し、お姉様の手を取った。本来なら無礼討ちになってもおかしくない距離だ。しかし、私は賭けに出た。あの男が言った「淫魔」の力が本当にあるなら、今こそ役に立ってもらわなければ困る。

私はお姉様の手の甲に、うやうやしく口づけを落とした。

「私なら、あなたの悩みを解決できるかもしれない。……少し、静かな場所でお話ししませんか?」

顔を上げ、至近距離でお姉様の目を見つめる。 その瞬間、いつも鉄仮面のようだったお姉様の頬が、朱に染まったのを見逃さなかった。 彼女の目が潤み、呼吸がわずかに乱れる。

「……よ、よろしくてよ。特別に時間を割いて差し上げますわ」

やった! 私は背後のロストスにこっそりとVサインを送った。ロストスも驚いたように目を見開いている。 お姉様は従者たちを手で制し、私を別室の応接室へと案内した。

重厚な扉が閉まり、部屋には私とお姉様の二人きりになった。 遮音性の高い部屋だ。ここなら何を話しても外には漏れない。

お姉様はソファに座ると、扇子でパタパタと顔を扇いだ。まだ頬の赤みが引いていないようだ。

「さて、アメル殿。具体的な提案をお聞きしましょうか。我が領にどのような利益をもたらしてくれるのかしら?」

お姉様はすぐにビジネスモードに戻ろうとした。さすがだ。 私は対面のソファには座らず、お姉様の前に立ったまま、ゆっくりとネクタイを緩めた。

「あら? いきなり何を……」

お姉様が狼狽える。私は構わず、カツラを留めていたピンを外し、タキシードの上着を脱ぎ捨てた。 ふわり、と結い上げていた長い髪が解け、肩に落ちる。

「……え?」

お姉様の目が点になった。 私は普段の、アメリスとしての声に戻して言った。

「久しぶりね、アサスお姉様。少しは私の顔、思い出してくれた?」



お姉様の口がパクパクと動く。扇子を取り落とし、床に乾いた音が響いた。

「ア、アメリス……!? な、なぜあなたがここに……しかも、その格好は……!」 「驚かせてごめんなさい。でも、こうでもしないとお姉様、私と会ってくれないでしょう?」

私はソファに座り、真っ直ぐにお姉様を見た。

「衛兵を呼ぶなら呼んでもいいわ。でも、その前に私の話を聞いて。これはロナデシアの、ううん、お姉様自身の損得に関わる大事な話よ」

「損得」という言葉に、お姉様は反応した。彼女は震える手で眼鏡の位置を直し、大きく深呼吸をした。

「……追放された分際で、随分と大胆な真似をするようになったものね。いいでしょう、聞きなさい。ただし、私の興味を引けなければ即座に突き出しますわよ」

態度は相変わらず冷徹だが、話を聞く姿勢は見せてくれた。第一関門突破だ。 私は単刀直入に切り出した。

「お父様とお母様の方針に従っていたら、ロナデシアはジリ貧よ。マスタールとマルストラスが手を組んだ今、ロナデシアが孤立するのは時間の問題。……お姉様も、それに気づいているんでしょう?」

図星だったようだ。お姉様は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「……父様も母様も、感情論で動きすぎですわ。特に母様はマスタールへの対抗心で目が曇っている。このままでは私の計算した黒字計画が全て水泡に帰してしまう」 「なら、私と手を組みましょう」

私は身を乗り出した。

「私は今、マスタール州知事と協力関係にあるわ。そしてマルストラスともパイプを作れる可能性がある。私が間に入れば、ロナデシアを孤立から救い、かつての交易ルートを復活させることができる」

「あなたが? 無能な次女のあなたが、何を根拠に?」

お姉様は鼻で笑った。

「根拠ならあるわ。私が『アメリス』だからよ。マスタールは私を保護するという名目で、ロナデシアを攻撃する口実を持っている。でも、もし私が『お姉様と和解した』となれば、彼らは攻撃する大義名分を失う。……これは、戦争を回避するための唯一の策よ」

これはロストスとアルドの受け売りだが、自信満々に言い放った。 お姉様はしばらく沈黙し、頭の中で高速でそろばんを弾いているようだった。彼女の瞳が、計算高い光を帯びていく。

やがて、お姉様はふぅ、と息を吐いた。

「……確かに、計算は合いますわね。あなたが戻れば、少なくとも外交上の最悪のシナリオは回避できる。それに、あなたを私の管理下に置けば、母様への言い訳も立ちます」

お姉様は冷ややかな笑みを浮かべた。

「でも、タダで協力するとは思えませんわね。条件は?」 「三つあるわ」

私は指を立てた。

「一つ、タート村およびヨース村への干渉を一切やめること。彼らの自治を認め、不当な重税を課さないこと」 「……些末なことね。いいでしょう、あの痩せた土地など興味ありませんわ」

「二つ、前線に送られたアルドたち兵士の名誉回復と、彼らの帰還を認めること」 「……有能な兵士を遊ばせておくのは損失ですが、まあ、あなたの護衛という名目なら経費で落ちますわね」

「そして三つ目」

私は一度言葉を切り、お姉様の目を強く見つめた。




「お父様とお母様が隠している『秘密』について、お姉様が知っていることを全て教えてほしいの」



「秘密……?」

お姉様は怪訝な顔をした。演技ではないようだ。

「何の事ですの?」 「私が追放された本当の理由よ。ただの厄介払いじゃない。あの男……謎の術師が言っていたわ。私は『人間であり人間でない』と。お姉様なら、家の記録や帳簿から何か気づいているんじゃないかと思って」

お姉様の表情が凍りついた。 それは「知らない」顔ではない。「触れてはいけないものに触れた」顔だ。

「……アメリス。あなた、その話を誰から……」 「答えて。私は何者なの?」

お姉様は唇を噛み、視線を床に落とした。その手は微かに震えている。

「……帳簿には、奇妙な出費の記録がありましたわ。あなたが生まれた直後から、毎年莫大な金額が『研究費』として計上されていたの。宛先は不明。ただ、備考欄に一度だけ記述があったわ」

お姉様は声を潜め、私に耳打ちするように言った。

「『器(うつわ)の維持費』と」

背筋に冷たいものが走った。器? 私が?

「それ以上のことは知りませんわ。知ろうとすれば、母様に消されると本能が告げていましたから。……でも、あなたがそれに気づいたというなら、事情は変わりますわね」

お姉様は立ち上がり、私を見下ろした。

「いいでしょう、アメリス。あなたの提案に乗りましょう。ただし、勘違いしないでちょうだい。私はあくまで『ロナデシアの利益』のために動くだけです。あなたのためではありませんわ」 「ええ、わかっているわ。お姉様らしいわね」

私は手を差し出した。お姉様は一瞬躊躇ったが、その手を取った。 冷たい手だったが、強く握り返してきた。

「交渉成立ね。……それとアメリス、一つ忠告しておきますわ」 「何?」 「その男装、やめておきなさい。……見ていて、調子が狂いますわ」

お姉様は顔を背け、赤くなった耳を隠すように早足で部屋を出て行った。 扉が閉まる音と共に、私はソファに崩れ落ちた。

「はぁ〜〜〜〜! 死ぬかと思った……!」

どっと疲れが出た。でも、成功だ。 これでようやく、反撃の狼煙を上げることができる。

待っていて、ヨーデル、アルド、ロストス、ルネ、そしてローナ。 そして覚悟して、お父様、お母様、そしてあの男。

私の物語は、ここからが本当の始まりなのだから!

私は再びタキシードの上着を羽織ると、颯爽と部屋を後にした。 その足取りは、来る時よりもずっと軽く、力強いものになっていた。






ベルンでの秘密会談から数時間が経ち、私はマスタール州知事の屋敷に戻っていた。 ルネの手によって、締め付けられていたサラシが解かれると、肺いっぱいに空気が入り込んでくる。

「ぷはぁ……! 生き返ったわ……」

私はドレッサーの前で大きく伸びをした。鏡の中に映る自分は、もう「東方の貴公子アメル」ではない。少し疲れた顔をした、いつものアメリスだ。 けれど、その目は以前よりも少しだけ強く光っている気がした。

「お疲れ様でした、アメリス様。完璧な演技でしたよ」 「ありがとうルネ。でも、もう二度と御免だわ。男性って毎日あんな窮屈な格好をしているのね」

着替えを済ませ、皆が待つサロンへと向かう。 扉を開けると、そこにはヨーデル、ロストス、アルド、そしてすっかり元気になったローナが待ち構えていた。

「アメリス様!」 「おかえりなさい、無事だったかい?」

皆の安堵した表情を見て、私の胸が温かくなる。私はソファに深く腰掛け、アサスお姉様との会談の内容を全て報告した。 タート村への不可侵、兵士たちの復帰、そして……私が「器」であるという衝撃の事実についても。

話を聞き終えたサロンは、重苦しい沈黙に包まれた。

「器……維持費……だと?」

最初に口を開いたのはヨーデルだった。彼は膝の上で拳を握りしめ、ギリギリと歯を食いしばっている。

「ふざけるな……! アメリス様はモノじゃない! 人間だ! 親が子にかける金を『維持費』だなんて……そんなことがあってたまるか!」

普段温厚なヨーデルの激昂に、私は驚きつつも、その怒りが私のためのものであることに救われる思いがした。

「落ち着いてくれ、農民くん。怒りたい気持ちは僕も同じだ」

ロストスが眼鏡の位置を直しながら、冷徹な声で言った。だが、その目は全く笑っていない。

「しかし、これで辻褄が合いましたね。あの黒い男が言っていた『人間であり人間でない』という言葉。そして、アメリスさんに魔法や催眠が効かない特異体質。……バルトさんとテレースさんは、何か恐ろしい実験、あるいは儀式のためにアメリスさんを育てていた可能性があります」

「それが失敗したから、あるいは用済みになったから追放した……ということか?」

アルドが悔しそうに呻く。

「でも、変だわ」

私は顎に手を当てて考え込んだ。

「もし私が用済みなら、どうして『維持費』を払い続けていたの? お姉様は『生まれた直後から』と言っていたわ。追放されたのはつい最近よ。それに、あの黒い男は私を見て『面白い』と言って見逃した。……まだ、何かが終わっていない気がするの」

「同感です」

ロストスが地図の上に駒を置いた。

「アサスさんを抱き込んだことで、ロナデシアの財政と外交は一時的にこちら側に傾きました。バルトさんたちは焦るはずです。次に彼らが切ってくるカードは何か……」

その時、サロンの扉がノックもなしに開いた。 入ってきたのは、情報収集に出ていたペイギ州知事の部下だった。彼は息を切らしながら、一枚の羊皮紙をロストスに手渡した。

「緊急報告です! ロナデシア領から一台の馬車が極秘裏に出発しました。向かっている先は……マルストラス領との国境付近にある『別荘地』です!」

「別荘地?」

「誰が乗っているんだ?」

ロストスが尋ねると、部下は声を潜めて答えた。

「……ロナデシア家三女、マリス様です」

マリス。 その名前を聞いた瞬間、私の背筋に嫌な汗が流れた。 愛らしい顔をして、平気で毒を吐く妹。男を虜にし、操ることを遊びのように楽しむ彼女。アサスお姉様とはまた違う意味で、私にとって苦手な存在だった。

「マリスが動いた……? お母様の命令かしら?」 「恐らくは。アサスさんが裏切った……いや、独自の動きを見せ始めたことに気づき、別の手を使ってマルストラス領を取り込もうとしているのかもしれません」

ロストスが険しい顔をする。

「マリス様は『人脈』作りの天才です。特に異性に対する影響力は凄まじい。もし彼女がマルストラス領主、あるいはその息子たちを籠絡(ろうらく)すれば、マスタールとマルストラスの同盟に亀裂が入る」

「そんなこと、させるわけにはいかないわ!」

私は立ち上がった。

「私がマリスを止める。あの子のことは、姉の私が一番よく知っているもの」 「アメリス様、危険です! マリス様はアサス様のように話が通じる相手ではありません!」

アルドが制止しようとするが、私は首を横に振った。

「ううん、逆よアルド。マリスは感情で動く子だわ。だからこそ、計算高いお姉様よりも隙があるはず。それに……」

私は自分の胸に手を当てた。

「私が『器』だというなら、同じ血を引くマリスにも何か秘密があるかもしれない。それを確かめたいの」

私の決意が固いことを悟ったのか、ヨーデルがため息をついて立ち上がった。

「わかりましたよ。その代わり、今度こそ俺もついて行きますからね。絶対に離れませんよ」 「私も行きます!」

ローナも手を挙げた。

「あの黒い男の手がかりがあるかもしれないし、何よりアメリス一人じゃまたドジ踏んで崖から落ちそうだし!」 「ちょっと、一言余計よローナ!」

こうして私たちは、休む間もなく次の戦場――マリスの待つ別荘地へと向かうことになった。

ロナデシア領とマルストラス領の境にあるその別荘地は、深い森の中にひっそりと佇んでいた。 表向きは領主一族の保養地だが、実際には貴族たちが人目を忍んで密会を行う場所として使われているという噂があった。

私たちは夜陰に乗じて森を進んでいた。今回のメンバーは私、ヨーデル、アルド、そしてローナの四人だ。ロストスとルネはマスタールでアサスお姉様との連携調整に残った。

「……静かすぎるな」

アルドが警戒心を露わにして呟く。 確かに、森には鳥の声ひとつしない。風の音だけが木々を揺らしている。

「ねえ、アメリス。マリスってどんな子なの?」

ローナが小声で聞いてきた。私は枝を避けながら答える。

「お人形みたいに可愛いのよ。金髪で、目が大きくて、誰にでも愛想が良くて……でも、私と二人きりになると急に冷たくなるの。『お姉様みたいな出来損ないと同じ空気吸いたくない』って」 「うわぁ、性格悪っ」

ローナが顔をしかめたその時だった。

「きゃあああああっ!」

私の足元の土が崩れた。 またか! と思う間もなく、私は斜面を滑り落ちていく。

「アメリス様!」

ヨーデルが咄嗟に手を伸ばしてくれたが、私の重みで彼まで一緒に滑落してしまった。 二人で落ち葉の積もった斜面を転がり落ち、ようやく止まったのは大きな茂みの中だった。

「いっ……たぁ……。ご、ごめんなさいヨーデル、またやっちゃった」 「……いえ、アメリス様が無事なら、それで……」

ヨーデルが私を庇うように下敷きになってくれていた。至近距離で目が合い、心臓が跳ねる。 だが、甘い雰囲気になりかけたその時、茂みの向こうから話し声が聞こえてきた。

「――それで? 本当に上手くいくのしょうね?」

その声に、私は息を飲んだ。マリスだ。 ヨーデルが私の口を指で塞ぎ、「静かに」と合図する。私たちは茂みの隙間から様子を伺った。

そこは別荘の裏庭だった。月明かりの下、豪奢なドレスを纏った少女が立っている。マリスだ。相変わらず天使のような美貌だが、その表情は苛立ちに歪んでいる。

そして、彼女の向かいに立っている人物を見て、私は全身の血が凍りつく思いがした。

黒いコート。コウモリのような佇まい。 あの地下道で会った、謎の男だ。

「ええ、間違いありませんよ、マリスお嬢様」

男は飄々とした態度で言った。

「あのアメリスという『失敗作』とは違い、貴女には才能がある。貴女のその『魅力』は、単なる美貌ではない。魔力による精神干渉……すなわち『魅了(チャーム)』の才能だ」

「当たり前じゃない。私は特別なのとにかく、早くちょうだい。それがあれば、マルストラスの堅物息子なんてイチコロなんでしょう?」

マリスが手を差し出す。男は懐から、紫色の液体が入った小瓶を取り出した。

「これを飲ませれば、どんな男も貴女の虜です。ただし……代償として、少しばかり貴女の『精気』をいただきますがね」 「ふん、減るもんじゃなし、好きになさい。私はただ、お母様に認められたいの。アサスお姉様よりも、そしてあのアメリスなんかよりも、私が一番優秀だって証明したいのよ!」

マリスが小瓶をひったくる。 その会話を聞いて、私は震えが止まらなかった。 マリスは、自分が何に手を出そうとしているのかわかっていない。あの男は危険だ。ヨース村の人々をおかしくした元凶かもしれないのに。

「……行かなきゃ」

私はヨーデルの手を振り払い、茂みを飛び出した。

「待ちなさい、マリス!」

私の叫び声に、マリスと男が同時にこちらを向いた。 マリスは目を丸くし、それから見る見るうちに顔を憎悪で歪めた。

「アメリス……!? どうしてあんたがここにいるのよ! 追放された野良犬が、どの面下げて戻ってきたの!?」 「あなたを止めに来たのよ! その男から離れて! そいつは危険人物よ!」

私はマリスと男の間に割って入ろうと駆け寄った。 だが、男は私を見ると、ニヤリと笑った。

「おや、再会だね。『器』のお嬢さん。……感動の姉妹再会といきたいところだが、今は邪魔をされたくないな」

男が指をパチンと鳴らす。 瞬間、地面から黒い影が湧き上がり、私の足首を掴んだ。

「きゃっ!?」 「アメリス様!」

遅れて飛び出してきたヨーデルとアルドが駆け寄ろうとするが、彼らの前にも影の壁が立ちはだかる。

「アメリス、あんたまた私の邪魔をするのね!」

マリスがヒステリックに叫んだ。

「昔からそう! あんたばっかり! 何もできないくせに、勉強も運動もできないくせに、お父様もお母様も、裏ではあんたのことばっかり気にしてた! 『器』の調子はどうだ、適合率はどうだって……!」

マリスの目から涙が溢れ出していた。

「私は!? 私はこんなに努力して、こんなに綺麗で、こんなに成果を出しているのに! どうしてあんたなんかが特別扱いされるのよ!」

それは、私が知らなかったマリスの本音だった。 彼女はずっと、私に嫉妬していたのだ。私が「出来損ない」として扱われながらも、両親の関心が(たとえ実験材料としてであれ)私に向いていたことに。

「違うわマリス、私は……!」 「うるさい! 消えなさいよ! その薬でマルストラスを支配して、私がこの家の跡取りになるの! あんたはそこで泥にまみれて見てなさい!」

マリスは小瓶を握りしめ、別荘の中へと走っていった。 男は「くくく」と笑いながら、私を見下ろした。

「姉妹喧嘩は見応えがあるが、そろそろ時間だ。……お前にはまだ利用価値があるが、今は妹君の『覚醒』を見届けさせてもらおうか」

男の姿が霧のように消える。同時に、私の足を掴んでいた影も消滅した。

「アメリス様、大丈夫ですか!?」

ヨーデルが私を抱き起こす。

「ええ、なんとか……。でも、マリスが!」

彼女があの薬を使えば、取り返しのつかないことになるかもしれない。それに、「精気をいただく」という男の言葉も気になる。

「追いましょう、アメリス様。別荘の中にはマルストラスの使者が来ている可能性があります」

アルドが剣を抜いた。 私たちは別荘へと突入した。

中は静まり返っていたが、奥の広間から微かに人の話し声が聞こえる。 扉を蹴破るようにして中に入ると、そこにはすでにマルストラス領の使者と思われる若い男性と、彼にワインを注ごうとしているマリスの姿があった。 ワイングラスの中には、うっすらと紫色の液体が混ざっている。

「ダメぇぇぇっ!!」

私はなりふり構わず飛び込み、マリスの持っていたグラスを弾き飛ばした。 グラスが床に落ちて砕け散り、紫色の液体がカーペットに染みを作る。

「なっ……何するのよアメリス!」

マリスが悲鳴を上げる。 使者の男性は呆気にとられていたが、私の背後に完全武装のアルドと、大柄なヨーデルがいるのを見て、慌てて腰を浮かせた。

「な、何事だ! ロナデシアの歓迎とはこういうことか!」 「申し訳ありません! ですが、そのワインには毒……いえ、危険な薬が入っていたのです!」

私が叫ぶと、マリスは顔を真っ赤にして私に掴みかかってきた。

「デタラメ言わないでよ! これは愛の薬よ! あんた、私が幸せになるのがそんなに許せないの!?」 「違うわバカ! あの男に騙されてるのよ! それを使ったら、あなたがあなたじゃなくなるかもしれないのよ!」

私はマリスの肩を掴んで揺さぶった。

「目を覚ましてマリス! お母様たちに認められたい気持ちはわかるわ。でも、こんな卑怯な手を使って、自分を傷つけてまで手に入れた評価に何の意味があるの!?」 「うるさい、うるさい! あんたに何がわかるのよ!」

マリスは私を突き飛ばした。その力は、か弱い令嬢のものとは思えないほど強かった。私はよろけて、テーブルに腰をぶつける。

「私はね、知ってるのよ……! お母様たちが何をしようとしているか!」

マリスは肩で息をしながら、狂気を孕んだ瞳で私を睨みつけた。

「『大いなる器』の完成……。魔界の門を開き、莫大な魔力を手に入れる計画。そのためにあんたは作られた。でも、あんたは『心が強すぎた』のよ! 失敗作なの!」

マリスの口から語られる真実は、私の想像を遥かに超えていた。

「だからお母様は焦った。代わりの器を探そうとした。でも見つからなかった。だから……あんたを一度『絶望』させて、心を壊して、空っぽの器にしようとしたのよ! 追放も、虐待も、全部あんたの自我を壊すためのプロセスだったの!」

広間に雷が落ちたような衝撃が走った。 私が受けてきた仕打ち。冷遇。追放。 それら全てが、私を「不幸な被害者」にするためではなく、私という人間を「壊す」ための計画的なものだったなんて。

「……そ、そんな……」

膝から力が抜ける。 そんな残酷な理由で、私は家族に捨てられたのか。

「アメリス様!」

ヨーデルが私を支える。彼の温かい手が、冷え切った私の心を辛うじて繋ぎ止める。

「聞かないでください。そんな戯言、信じる必要はありません!」 「戯言じゃないわ! 私は見たのよ、お父様の日記を!」

マリスは叫ぶ。

「悔しい……悔しいのよ! 壊れることさえ期待されているあんたが! 私なんて、最初から予備ですらなかった! ただの人形! 愛嬌を振り撒くだけの道化!」

マリスはその場に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくった。 彼女もまた、歪んだ家族の被害者だったのだ。誰よりも愛されたがっていた末っ子は、誰よりも孤独だったのかもしれない。

私はヨーデルの手を借りて立ち上がり、泣いているマリスの元へ歩み寄った。

「寄らないで! 同情なんてしないで!」 「同情じゃないわ」

私はマリスの隣に座り込み、そっと彼女の背中に手を回した。彼女の体は小さく震えていた。

「私も、あなたも、同じだったのね。……ねえマリス、私たち、一度ちゃんと家族ごっこをやめて、ただの姉妹に戻ってみない?」 「……はぁ?」

マリスが涙で濡れた顔を上げる。

「何言ってんの、バカじゃない?」 「ええ、バカよ。バカでドジで、失敗作のアメリスよ。でも、今の私は一人じゃない。仲間がいるわ。……あなたも、その仲間に入らない?」

私は手を差し出した。 かつてヨース村でローナにそうしたように。 アサスお姉様にそうしたように。

「私たちが手を組めば、お父様とお母様の計画なんてぶっ壊せると思わない? 予備でも、失敗作でもない、私たちの人生を取り戻しましょうよ」

マリスは呆れたように私を見て、それから鼻をすすった。

「……本当に、あんたってムカつくくらいお人好しね」

彼女は私の手を払いのけたが、そのまま私の肩に頭を預けてきた。

「……覚えといてよ。私はあんたの味方になるわけじゃないわ。ただ、お母様たちに一泡吹かせてやりたいだけなんだから」

ツンとした物言いだが、その声には以前のような刺々しさはなかった。 こうして、私は最も厄介で、最も愛すべき二人の姉妹を、(一応)味方につけることに成功したのだった。

だが、安堵したのも束の間。 窓の外から、不気味な地響きが聞こえてきた。

「なんだ!?」

アルドが窓に駆け寄る。 森の奥、ロナデシア領の本邸がある方角から、天を突くような黒い光の柱が立ち昇っていた。

「……始まったわ」

マリスが震える声で呟く。

「お母様たちが……強行手段に出たのよ。あんたが壊れないから、不完全なまま儀式を始めたんだわ」 「儀式……?」 「魔界の門を開く儀式よ! でも、器がない状態でそんなことをしたら……この国ごと吹き飛ぶわよ!」

事態は、もはや姉妹喧嘩のレベルを超えていた。 マハス公国、いや、この世界そのものの危機が、すぐそこまで迫っていた。

「行くわよ、みんな!」

私はドレスの裾を破り捨て(これで何着目だろう)、立ち上がった。

「お父様とお母様の暴走を止める! これが、私の……アメリス=ロナデシアの最後の仕事よ!」

「はい、アメリス様!」

ヨーデル、アルド、ローナ、そして涙を拭ったマリス。 私たちは黒い光の柱を目指して、夜の森を駆け出した。

最終決戦の幕が、今上がろうとしていた。




「……これは、ひどい」

私たちがロナデシア本邸の正門に辿り着いた時、目の前に広がっていたのは地獄の光景だった。 屋敷を中心として渦巻く黒い奔流が、周囲の空間ごと捻じ曲げている。美しい庭園は枯れ果て、空は紫色の亀裂が走り、そこから名状しがたい異形の影――下級の魔物たちが這い出し始めていた。

「ひるむな! 陣形を組め!」

アルドの号令と共に、彼に従う兵士たちが剣を抜き、影の群れに立ち向かう。 ヨーデルもクワ(どこから持ってきたの?)を構え、私を守るように前に立った。

「アメリス様、離れないでください! この黒い霧に触れると、生気を吸い取られます!」 「ええ、わかっているわ! でも、屋敷までどうやって近づけば……」

屋敷は黒いドーム状の結界に覆われており、近づくことすらままならない。 魔物の数は増える一方だ。マリスが自身の魔力(魅了の応用らしい)で数体を同士討ちさせているが、多勢に無勢だ。

「くっ……このままじゃ、ジリ貧よ!」 「道を開けます!」

アルドが気合の咆哮と共に斬り込むが、影は切っても切っても再生する。 万事休すかと思われた、その時だった。

『――全軍、放てッ!!』

ズドドドドーン!! と大地を揺るがす轟音が響き渡り、屋敷を取り囲む影の群れが一瞬にして吹き飛んだ。 硝煙の向こうから現れたのは、整列した数百名の重装歩兵と、巨大な魔導砲を牽引した馬車部隊。 そして、その中央で優雅に指揮棒(という名の扇子)を振るう人物。

「アサスお姉様!?」

銀髪をなびかせ、眼鏡を光らせた長姉、アサス=ロナデシアその人だった。

「遅くなりまして? 私としたことが、傭兵団との契約金交渉に手間取りましたわ」

お姉様は戦場に似つかわしくない優雅な足取りで、私の元へと歩み寄ってきた。

「アサスお姉様、どうしてここに……?」 「勘違いなさいな。これは『投資』ですわ。領地が魔界に飲み込まれては、私の資産価値がゼロになりますもの。……それに、妹二人に借りをリセットする良い機会だと思いましてね」

お姉様は私とマリスを交互に見て、ふっと口角を上げた。

「マリス、そのだらしない顔をおやめなさい。化粧が崩れてますわよ」 「う、うるさいわね! 助けてくれたことには感謝してあげるわよ!」

マリスが涙目で言い返す。三姉妹が、初めて同じ戦場に立った瞬間だった。

「さあ、魔導砲で結界に穴を開けますわ。一発あたり金貨五千枚の特注弾です。心して通りなさい!」

お姉様の合図で、魔導砲が火を噴く。金貨の輝きのような閃光が結界を穿ち、人が通れるほどの亀裂を作った。

「行くわよ!」

私はヨーデルの手を引き、亀裂へと飛び込んだ。続いてアルド、マリス、ローナが続く。 目指すは儀式の間――かつて家族団欒の場であったはずの、大広間だ。

屋敷の中は、外以上に異様な空間と化していた。 廊下は脈打つ肉壁のように変質し、壁に飾られた歴代当主の肖像画が、不気味な嘲笑を浮かべてこちらを見ている。

「気持ち悪い……これが私たちが育った家なの?」

マリスが青ざめる。 私たちは最短ルートで大広間を目指したが、大階段の前で足を止めざるを得なかった。 そこには、あの「黒いコートの男」が待ち構えていたからだ。

「やあ、歓迎するよ。まさか『失敗作』の娘たちが揃ってここまで来るとはね」

男は空中に浮遊し、手には赤黒く脈打つ心臓のような魔石を持っていた。

「ここから先は『聖域』だ。不純物は排除させてもらう」

男が手をかざすと、空間が歪み、見えない圧力が私たちを押し潰そうとする。 動けない。息ができない。これが、人智を超えた魔術師の力なのか。

「くっ……お前が、私の村を……!」

ローナが歯を食いしばり、男を睨みつける。

「ああ、あの実験場の生き残りか。良いデータが取れたよ。感謝している」 「ふざけるなッ!!」

ローナが飛び出そうとするが、重力に縛られて一歩も動けない。 男は冷酷な笑みを浮かべ、私に指先を向けた。

「まずは『器』を回収しようか。中身の魂はいらない。空っぽにしてから、魔王様をお迎えしよう」

死の予感が背筋を走る。 その時、私の前に立ちはだかる背中があった。

「させません!」

ヨーデルだった。彼は重圧に全身の骨をきしませながらも、一歩も引かずに私を庇っていた。

「どけ、農民風情が。貴様のような虫ケラに何ができる」 「虫ケラでも……土に根を張る強さはある! アメリス様は、俺たちの太陽だ! 太陽を隠そうとする雲なんて、俺が吹き飛ばしてやる!」

ヨーデルの体から、黄金色の光が溢れ出した。それは魔力ではない。彼が大地と共に生き、命を育んできた、純粋な生命の輝きだった。

「なっ……!? 魔術を弾くだと!?」

男が驚愕する。ヨーデルの作った光の領域が、男の重力魔法を中和したのだ。

「今です、アメリス様! 行ってください!」 「でも、ヨーデル!」 「俺たちはここでこいつを食い止めます! ローナ、アルドさん、力を貸してください!」

アルドが剣を構え、ローナがナイフを取り出す。

「アメリス、ここは任せて! あんたは親玉をぶっ飛ばしてきな!」 「御武運を、アメリス様!」

私は唇を噛み締め、頷いた。

「わかったわ! 絶対に、死なないでよ!」

私はマリスの手を取り、階段を駆け上がった。背後で激しい戦闘の音が始まる。 信じている。彼らなら、絶対に負けないと。

大広間の扉を蹴破ると、そこには異界への門が開かれようとしていた。 部屋の中央、魔法陣の上に浮いているのは、変わり果てた姿の両親――バルトとテレースだった。

二人の体は半ば黒い霧と同化し、虚ろな目で虚空を見つめ、ブツブツと呪文を唱え続けている。

「……完全なる器……至高の力……我らが悲願……」

「お父様! お母様!」

私の叫び声に、二人の視線がゆっくりとこちらを向いた。 その目には、かつて私に向けられた無関心も、マリスに向けられた溺愛もなかった。ただ、底なしの飢餓感だけがあった。

「おお……アメリス……我が最高傑作……」

お母様――テレースが、ひび割れた唇で笑った。

「戻ってきてくれたのね。さあ、こちらへいらっしゃい。お前がその身を捧げれば、全てが完成するのよ」 「断るわ!」

私はきっぱりと言い放った。

「私は誰かのための器じゃない! アメリス=ロナデシアという一人の人間よ! あなたたちの野望のために、この世界を、私の大切な人たちを犠牲になんてさせない!」

「愚かな……。我々には『力』が必要なのだ。他国に脅かされぬ、絶対的な力が!」

お父様――バルトが叫ぶ。その声には、弱小貴族として生き残るために心をすり減らしてきた、哀れな男の悲哀が滲んでいた。

「力なんて、そんなものに頼らなくても手に入るわ! 仲間を信じ、手を取り合う力があれば!」 「綺麗事だ! 力こそ正義! 支配こそ安寧!」

両親の叫びと共に、魔法陣が輝きを増す。 巨大な重力が私を吸い寄せようとする。これが、本命の儀式。

「きゃあああっ!」

マリスが吹き飛ばされ、柱に叩きつけられて気を失った。 私一人だけが、魔法陣の中心へと引きずり込まれていく。

「くっ……!」

必死に床に爪を立てるが、止まらない。 目の前には、漆黒の闇が口を開けている。あの中に入れば、私は消える。アメリスという存在が消滅し、魔王が降臨する。

(ダメ……引きずり込まれる……!)

意識が遠のきかけた、その時。

『――まったく、世話が焼ける子ね』

脳内に、あの声が響いた。 夢の中で出会った、もう一人の私。淫魔の衣装を着た、ドッペルゲンガー。

時間が止まったような感覚の中、彼女は私の前に現れ、呆れたようにため息をついた。

『あんた、自分が何者かまだわかってないの?』 『私は……アメリスよ』 『そうよ。でも、ただの人間じゃない。あんたは、魔界の王族の魂を宿して生まれた突然変異。両親が求めていた「器」そのものにして、すでに中身が詰まっていた「完成品」なのよ』

彼女はニヤリと笑った。

『あんたの不器用さも、ドジも、魔法が効かないのも、全部あんたの魂が強大すぎて、人間の体がついていけてないからよ。……認めなさい。自分の中の怪物を』

彼女が手を差し出してくる。

『力を貸してあげる。その代わり、約束しなさい。その力で、あんた自身の「欲望」を叶えるって』

私の欲望? 私の望みは……。

『……私は、みんなと笑って暮らしたい。ヨーデルと美味しい野菜を作って、ロストスたちと商売をして、姉妹で喧嘩して……そんな当たり前の明日が欲しい!』

『……ぷっ。相変わらず安っぽい欲望ね。でも、悪くないわ』

彼女は私の手を取った。

『いいでしょう。契約成立よ、アメリス』

カッ!!!!

私の体から、眩いごとき紅蓮の光が噴き出した。 闇を切り裂く、真紅の魔力。 私は床を踏みしめ、魔法陣の引力に抗って立ち上がった。

「な、なんだその光は!? あり得ない、器が覚醒しただと!?」

両親が狼狽える。 私はドレスの裾を翻し、二人を見据えた。

「お父様、お母様。あなたたちの教育方針には、以前から不満がありました」

一歩、前へ。

「子供を道具扱いすること。姉妹を比較して傷つけること。そして何より……」

もう一歩、前へ。 溢れ出す魔力が、私の拳に収束していく。

「私の大切な人たちを巻き込んだこと!! お説教の時間ですッ!!!」

私は跳躍した。 ヒールが壊れ、裸足になっても止まらない。 魔力を込めた右ストレートが、空間ごと魔法陣の核を打ち抜く。

「これが! 私の! 全力だぁぁぁぁぁぁッ!!!」

パァァァァァァァァンッ!!!!

世界が白く染まった。 魔法陣がガラスのように砕け散り、黒い奔流が霧散していく。 両親の絶叫と共に、異界への門が強制的に閉じられていく。

「……ん……」

気がつくと、私は瓦礫の上で寝転がっていた。 空には、美しい朝焼けが広がっている。黒い霧は晴れ、澄んだ空気が満ちていた。

「アメリス様!」 「アメリス!」

駆け寄ってくる足音。 ボロボロになりながらも生き残ったヨーデル、アルド、ローナ。 そして、マリスと、後から追いついてきたアサスお姉様、ロストス、ルネ。

みんな、無事だった。

「よかった……みんな、無事で……」

安堵と共に、力が抜けていく。 ヨーデルが私を抱き起こし、力強く抱きしめてくれた。泥と汗の匂いがする、安心する匂いだ。

「終わったんですね、アメリス様」 「ええ……終わったわ」

少し離れた場所には、魔力を失い、ただの抜け殻のようになった両親が倒れていた。 二人はもう、二度と目覚めることはないかもしれない。あるいは、目覚めたとしても、全ての記憶を失っているかもしれない。 その処遇は、これから私たちが決めなければならない。

「……これから、忙しくなりますわよ」

アサスお姉様が、眼鏡を直しながら言った。

「屋敷の修繕費、兵士への補償、マスタールへの賠償……計算しただけで頭痛がしますわ」 「ふん、手伝ってあげるわよ。私の人脈を使えば、寄付金くらいすぐ集まるわ」

マリスが強がりを言いながら、お姉様の隣に立つ。

「僕たちも協力しますよ。アメリスさんには、大きな借りができましたからね」

ロストスがウィンクをする。

私はみんなの顔を見渡し、満面の笑みを浮かべた。

「ええ、やりましょう! 私たちの、新しい国作りを!」

立ち上がろうとした、その時。 ぐぅ〜〜〜〜。 盛大な音が、私のお腹から鳴り響いた。

一瞬の静寂の後、全員が吹き出した。

「あはははは! やっぱりアメリス様だ!」 「最後の最後で締まらないなぁ!」 「もう、恥ずかしい……!」

私は真っ赤になって顔を覆った。 でも、その隙間から見える世界は、今まで見たどんな景色よりも、輝いて見えた。

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使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます 腕押のれん @urbcgde

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