第5話 アメリス、逃げる

「えっと、その……」


 想定外にも程がある出来事に頭が真っ白になってしまう。何を話していいか分からず思考が止まる。


「どうしてマハス公国の令嬢がこんなところにいるんですか⁉︎ しかも普通の町娘みたいな格好をして。どうしたんですか?」


 しかし思考が止まっても時間は止まってくれない。ロストスは次々と質問を投げかけてくる。


「靴だってすごく汚れてるじゃないですか。一体何があったんです?」


 ロストスは立ち上がって、夢中になっていた食事などそっちのけで私に詰め寄ってきた。彼は私よりも少し小柄であり、私のことを下から見上げるような形になる。彼の目はしっかりと私のことを捉えていた。まるでヘビに睨まれたカエルみたい。


「ひ、人違いですっ!」


 私は言葉に詰まってしまい短くそう言うと、ロストスからすり足で少し離れてから、彼に背を向けて店の入り口付近で待っているヨーデルの元へ一気に駆け出した。


「待ってください、人違いならどうして逃げるんですか!」


 後ろからロストスが声を張り上げて私に叫ぶのが聞こえた。他のテーブルで食事をとっている客の視線が集まっているような気がする。


「ヨーデル、このお店から出るわよ。私を知っている人に見つかった!」


 私は店の中を走りながらヨーデルに向かって呼びかける。彼は状況が掴めていないのか、ポカンとしてドレスの残骸の入った袋を抱えていたが、私の言葉を聞いて「だから言ったじゃないですか!」と言いつつ大通りの群衆の中へと走り出した。右手でくいくいと手招きをしているのでどうやら俺についてこいということらしい。


 ヨーデルの進む方向に従って私は全力で走った。


「落ち着いて話しましょう、アメリスさん!」


 群衆の中に入っても私を呼ぶ声は後ろから聞こえてくる。まずい、このままではいずれ追い付かれてしまう。


「アメリス様、こっちです!」


 するとひたすら人の群れの中をまっすぐ走っていたヨーデルが方向転換をして大通りからそれた横道に入った。私もそれに追随する。


 しばらく横道を走っていると、先ほどの薬屋に向かう道と同様にどんどん人通りは少なくなり、薄暗くなっていく。


「ヨーデル、こっちで大丈夫なの? 闇雲に走るのはかえって危険じゃない?」


 私は前を走るヨーデルに問いかける。


「マスタールのこの商業地区なら何度も来てますし、多少の裏道も知ってます。安心して俺についてきてください」


 袋を抱えたまま走るヨーデルはこちらを振り返らずに言った。守るべき領民だと思っていた彼の背中が妙に逞しく見える。


 細い道を何度も曲がり、二股に分かれている道を三回ほど右に進んだところで行き止まりに来てしまった。だがロストスの姿はいつの間にかなくなっていた。どうやら撒くことに成功したらしい。


「ここまで来れば大丈夫じゃないですか。全くアメリス様はとんでもないことをやらかすんだから……」


 ロストスが追いかけてこなくなったことで少し気が緩んだのか、ヨーデルはしゃがみ込むとふぅと息をついた。


 その姿を見て、私もずっと走っていた疲れが急に襲ってきて地べたにお尻をつけて座り込んでしまう。


「私が悪いんじゃなくて本当に運が悪かったのよ。だってあんな偶然ありえる? たまたま声をかけた相手が知り合いだなんて」


 本当にまいっちゃう、こんなに走ったのいつぶりだろう。


「わかりましたよ。それで、あの人は一体誰なんです?」


 ヨーデルは「はぁ」とため息をついたあと、私に問いかけてきた。


「彼はロストス。マスタールの若い実業家よ。貧民街から成り上がった手腕を買われてパーティーに出席していたの。その時知り合ったのよ」


 ふーん、俺とはだいぶ身分が違うみたいですね。ヨーデルが少し口角を下げて言った。だがその時であった。


「そうだね。見たところ君はただの農民のようだし持っている財産に天と地ほどの差があるだろう。そんな君がアメリスさんを連れているなんてどういう風の吹き回しだい?」


背中から会話に参加する声が聞こえた。私と向かい合う姿勢で座っているヨーデルの顔が急に強張る。


私も恐る恐る後ろを見た。そこにはあり得ない光景が広がっていた。


「うそ、どうして……!」


「アメリスさん、確かに俺は貧民街からの成り上がりですが一言忘れてますよ。マスタールの地下貧民街の出身なんです。マスタールの地下に広がる地下道を駆使すればあなたたちにバレないよう追跡するなんて朝飯前です。さあ話してもらいますよ、なにがあったかを」


 そこには撒いたはずのロストスがいた。ここは行き止まりだ、逃げ場はない。


 ロストスが少しずつ近づいてくる。その動作はゆったりとしていたが、一歩一歩と私たちを追い詰めていく。


せっかくここまでなんとかなっていたのに……。


 緊張で体が動かない。だがヨーデルは違った。ロストスと私の距離が二歩分ほどになった時、ヨーデルは素早く立ち上がり私に背を向けて手を広げた。


「アメリス様には手出しはさせない!」


ヨーデルの声が響き渡り、道を塞ぐようにしてロストスの前に立ちはだかる。空気は張り詰め、まさに一触即発である。


先に動いたのはロストスであった。ヨーデルも身構え、体がこわばっているのが背中越しにわかる。


 だがロストスは殴ったりするわけでなく半歩ほど前に出ると、


「なにか勘違いしてませんか? 僕は別にアメリスさんをとって食おうってわけじゃないんですよ? ただ事情があるならその手助けをしたいだけです」


 と言った。想定外の言葉に驚いて少し横にずれてロストスを見ると、やれやれといった表情で手をひらひらとさせていた。


「「え?」」


 私とヨーデル、二人して間抜けな声を出してしまう。


「だってそうでしょう。捕まえてロナデシア家につきだすとでもいいましたか? 僕はただ事情が知りたいだけです。そうしたらあなたが急に逃げたんですよ」


 そうだ、よく考えてみれば知り合いに会ったからといって必ずしもその人物が私にとっと都合の悪い人物とは限らない。


「それじゃあ、逃走したのはアメリス様の早とちりってことですか?」


通せんぼの体勢のままでヨーデルは座り込む私を見た。


「……そうみたい」


 少し目を逸らして私は言った。じっとりとしたヨーデルの視線が痛い。でもあなただって私の正体がバレたら大変だって心配してたじゃない、私だけが失敗したみたいに言わないでよ。


「で、でもロストスがこんなに親身になってくれるなんて思わなかったのよ。さっきも言ったけど私とロストスは一回パーティで会っただけの関係よ? しかも誘われた食事会はお母様が勝手にキャンセルしたし。逃げるのが無難じゃない?」


 ロストスと私はそれだけの関係だ。特別親しいわけでもない。言い訳がましい口調になるが、事実なのだ。


「それは本当ですか?」


「ええ、正直ね。あなたが私の手助けをするって言うなんて思わなかったもの」


 私がそう答えると、ロストスは「いえ、そっちじゃなくて」と前置きしてから、


「食事会の方です。僕のことが嫌になってキャンセルになったとテレースさんから聞いたのですが」


 と言ってきた。


 テレース、お母様の名前だ。思い返してみるが、そんなことを言った覚えは一切ない。完全なる彼女の捏造である。


「私はそんなこと少しも思ってないわよ」


 と返したところ、ロストスは突然笑みを浮かべ、くくっと声にならない声をあげた。


 どうしたのかしら、私そんなに面白いこと言った?


 ロストスが急に笑い出したので不思議に思っていると、彼は言った。


「アメリスさん、僕があなたに手助けしたいと言った理由を教えましょうか?」


 ロストスはヨーデルの横を通り私の前まで来てひざまずき、依然として座っている私と目線を合わせてから、


「それは僕があなたに惚れているからですよ、アメリスさん」


 と告げた。やはり彼の目は私をまっすぐ捉えていた。


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