坂の上の本屋の元妻は三軒隣にいる

@ihcikuYoK

坂の上の本屋の元妻は三軒隣にいる

***


 ――やってしまった。

 今日は母がデイサービスで夕方までいない。娘たちもお友達の家に泊まりに行っている。


 柏餅(しかも5ツ入り)を買ってしまった……。


 餡子菓子は元夫の好物である。

 結婚していた頃の名残りか、鯛焼きや柏餅や餡ころ餅を見つけるとほとんど無意識に手に取りレジへ向かってしまう。離婚してもう何年も経つというのに、いまだにその癖が抜けない。

 ひとりで5ツなんて絶対に食べられない(正確には食べること自体は可能だが、とんでもないことになるので食べられるからと食べてはいけない)。


 散々悩んだ挙げ句、スーパーの袋を下げたまま本屋へ向かうと、元夫はなぜか閉店作業をしていた。

「……。もう閉めちゃうんですか?」

まだ昼過ぎですよと続けると、元夫はしゃがんだまま、自動ドアの鍵片手に振り向いた。

「あぁ千鶴さんか、暇すぎるから今日はもういいかと思って。買うものがあるならどうぞ?」

中へと促されたが、あぁいえ……と首を振った。

 不思議そうな顔をして首を捻られた。

 それはそうだ、別れた夫のしている本屋へ、買う物もないのに寄る理由はないだろう。離婚後の関係は良好なほうだが、それでも意味もなく声を掛けられるほど厚顔な人間になったつもりはなかった。

「……あの、」

「うん?」

「柏餅を食べませんか……」

美味しそうだったので買ってしまって……と続けると、目を丸くしたのち、その人は肩を揺らし含み笑いを漏らした。

 せいぜい目尻に皺ができたくらいで、昔見た笑顔と何も変わらなかった。

「じゃ、ありがたく呼ばれようかな。閉店作業すませたらお邪魔するよ」

「はい。……じゃあ、後で」

うん、後でと手を上げた。


 ……あぁも~~やだ~~、と思う。逃げるように自宅へと向かう。

 玄関の引き戸を引くと、ガラガラと大袈裟な音が鳴った。後ろ手に戸を閉め、鍵を掛け、荷物を下ろして火照った顔を両手で仰いだ。溜め息が出た。

 あの本屋に行くと、学ランを着ていた頃のあの人を思い出してしまう。ちょっと格好悪いエプロンを付けていたあのバイト姿を思い出してしまう。あれこれと、それは楽しそうに本を勧めてくれたことを思い出してしまう。

 行くと、条件反射で心臓が波打つのだった。

 もう子供じゃないのに、いい歳したおばさんが。このくらいのことでなにを浮き足立っているのか。それもとうに離婚した夫に対して、しかも自分から離婚を切り出しておいて勝手なことだ。

 いっそ、このほてりが更年期の症状であってほしいと思う。母が元気であれば、かわれているところだ。


 買い出してきた品を冷蔵庫にしまい、玄関から和室までを流れで箒をかけていると、そう時間も立たぬうちにインターフォンが鳴った。

 慌てて座布団を整え、箒を片付けた。はーいと返事をし小走りに向かう。

 玄関を開けると、元夫が慣れた声で「お邪魔します」と言った。三和土を見て首を傾げた。

「そっか。千春と千夏はまだ学校か」

「あぁ、ごめんなさい。今日はお友達の家に泊まるらしくて、ふたりとも戻らないんです……」

そうなのか残念だな、と呟いた。

 躊躇いなく和室へ向かう背中から目を背け、台所へと向かった。ポットから急須へとお湯を注ぎながら、問うた。

「ふたりになにか用でも?」

「いや? 大したことじゃないんだ。電球が切れかけてるって言われたなって。そのくらいなら、自分たちがいなくてもいいと思ったのかもしれない」

でもそうか、いないか、と軽く息をついた。なんだ、娘たちに会いに来たのかと思った。

 ――でも電球なんて切れてたっけ? と思う。

 私は普段1階で母と過ごしているので、もしかしたら2階かもしれない。いま、2階は娘たちの場所だった。私が上がるのは日中なので、電球が切れていても気が付けないのだ。


 しかし珍しいことだ。元夫をうちに呼んでおいて、娘たちが不在にするなんていままでなかった。

 思春期にもかかわらず、娘たちは元夫のことが変わらず好きだった。変なタイミングで離婚してしまったから、余計なのかなと思う。

 お父さんお父さんと意味もなく本屋へ通い、世間話をしては満足げに帰ってくる。ほぼ毎日元夫に会いに行っているところを見るに、やはり寂しいのだろう。

 長女は聞き分けのいい子だが、不満があってもむくれるきりで自分からあれこれ口にする子ではない。次女も明るく振る舞っているが、それでもやはり寂しい思いをさせているに違いない。

 反省しきりだった。離婚を口にしたあの日、私は自分のことしか考えていなかったのだから。


 盆の上に乗ったそれを見て、元夫は目を丸くした。

「5ツ入り?」

「……。すみません……。皆がいない日だって忘れていて、お徳用パックを買っちゃって……」

確かにひとりじゃ無理だな、できるだけ協力する、と頷いてかぶりつき、幸せそうにわずかに目を細めた。

「うん。うまいな」

 その横で、ひとつ手に取り葉をめくると、柏の葉の蒼い香りがした。

 噛りつきながら、つくづく思う。どう考えてもひとつずつで充分である。中年の男女がふたりで食べるような数じゃない。

「……零次さん、無理しなくていいですからね」

「別に無理はしないよ」

あとで腹が膨れるくらいだ、と嘯きふたつ目に手を伸ばした。

 わかりにくいが、優しい人なのである。


 お茶、おかわりどうぞ、と注ぐと、ありがとうと返ってきた。

 過去には、こんな日々が日常だった。そしてこんな何でもないやり取りに、新婚当初の私は、それははしゃいだものだった。

 長年片想いをした相手と夫婦となり同じ家で毎日過ごせるなんて、私はなんて幸せなのだろう……と事あるごとに噛みしめていた。

 夫にはその頃すでに両親はおらず、母親も早くに亡くしていたので妻に求める理想像がなかったことも幸いした。ひと通りの家事は彼の生活のルーティンにすでに組み込まれており、私の拙い家事にも特になにも言わなかった。できればこうしてくれませんか、という変更も、うんわかったと頷くのだ。

 もともとこだわりのない人だったのである。


 元夫は3ツ目の柏餅の最後のひと口を、やや苦しげに飲み込んだ。私もふたつ食べた。正直なところ、とても苦しい。

 若い頃は甘い物なんていくらでも食べられると思ったものだが、年齢を重ねると甘い物や脂っこいものは途中でつっかえるような心地になり、なかなか食道を通っていかない。

 静かに茶を啜ると、元夫は口を開いた。

「……。千鶴さん」

「はい」

「お暇する前に、少しいいかな」

はい、と返事をしつつ居住まいを正すと、ごめんそんな大層な話じゃないんだ、と手を振られた。

「今日……、暇だから閉めたってのは嘘だ。ここに来ようと思ってた」

「あぁ千春たちに呼ばれたってさっき、」

それも半分嘘だ、と言った。

「電球が切れかけてチカチカしてる、近々替えに来てって言われてたのは本当だ。

 でも今日ふたりがいないのは知ってた。千春と千夏が昨日本屋に来て、友達の家に泊まりに行くって言ってたから」

「そうだったんですか……」

「千鶴さんと話がしたかった。別に、なにを話したいわけでもなかったんだけど」

と、その口から漏れた。

 その横顔は、昔よく私が仰ぎ見ていたものだった。憧れの気持ちと共に、眩しい気持ちを重ねて。


「……あの時は申し訳なかった。相談もなく会社をやめるなんて、いくらなんでも非常識だった。千鶴さんに甘えすぎてたよ」

今さら遅いけど、と丁寧に頭を下げられた。

 その頭には白髪が増えていた。お互い様か、と思う。私も、老けた。

「いえ、……いいえ、約束を破ったのは私です。

 不満は溜めずに小出しにって、溜めたぶんいつか爆発するからって最初にあれだけ言われてたのに、勝手に溜め込んで爆発して、挙げ句なじってしまって」

ごめんなさい零次さん……、と述べると首を振られた。

「千鶴さんにも千歳さんにも、学生の頃からよくお世話になった。それに、千春と千夏は俺の娘でもある。別れた手前俺には言いづらいかもしれないけど、これからも困ったことがあったら言ってほしい」

できることならなんでもするから、と言われ、助かります、ありがとうと頭を下げた。

 ありがたい話だった。

 だが少しガッカリした自分もいた。再婚の話なんて、この人の口から出るわけがないのに。なにを期待していたのだろう。


「……零次さん」

「うん?」

ひとつ訊いてもいいですか、と問うと、うん、と頷いた。

「……。私、いまでもわからないんです。どうして零次さんが私と結婚してくれたのか」

元夫は私を黙って見返した。続く言葉を待っていた。

「……学生のとき、私が告白したときに、言ってたじゃないですか。

 人を好きになったことがない、好きになる感覚がわからない、どうも俺にはそういうのがないらしいって」

覚えてますか? と問うと、覚えてるよと頷いた。

「……わりと冷たいことを言った気がするな」

よくない言い方だった気がする、と眉間に皺を寄せて言われた。どうも反省しているようだ。


 それさえ平気なら、付き合うことじたいは俺は別に大丈夫、好いてもらえてありがたいと思ってるし、千鶴さんのことは大事な人だと思ってる、と零次さんは言った。

 でも、一緒にいたら余計寂しい思いをするかもしれないよ、とも言った。

 今まで付き合った人からは、同じ気持ちが返って来ないのが虚しいと言って、別れを告げられてきたのだと。


 私はあの時、ガッカリした半面少し安心した。

 零次さんは来る者を拒まないが、来たからと好き放題手を出して回るような人じゃない。私が彼女になりさえすれば、誰に告白されたとしてもこの人は誰にも靡かず私のものでいてくれる。

 もともとずっと片想いだったから、片想いの寂しさや悲しさなんてどうでもよかった。欲を言えば、そりゃあ両想いになりたかったけれど、難しいと言われたら折り合いをつけるしかない。

 諦めるという選択肢はなかった。

 だって、それさえのめば零次さんは傍にずっといてくれるのだから。長年の片想いが報われるのだ。なんの不満があるだろうと思った。


 そして実際、私は幸せだった。

 望めば抱き返してくれるようになり、行きたい場所もしてみたいことも、言えば文句も言わず付き合ってくれた。好きだと伝えても好きだとは返って来ないが、零次さんは私のことを大切にしてくれた。

 そのままの勢いで結婚してもらい、子供もふたりできた。子供の世話も家事も一緒にしてくれたし、不満を言えば一緒に考えてくれた。

 幸せだったが、あるとき私を見て母が言った。

「……千鶴、ああしてこうしてって……。零次くんはあなたの父親じゃないのよ」

あんまりよくないわよそういうの、と続いた。

 母が私を愛称ではなく千鶴と呼ぶときは、だいたいが警告だった。

 私と母は仲がいい、喧嘩もあまりしたことがない。でもあのときは、ムッとした。お父さん扱いなんてしていない。だって零次さんが言ったのだ、俺にはわからないから言ってくれと。

 だから私は、母の警告を無視したのだ。


 年月は幸せなまま過ぎた。

 そのうち母の様子が変わってきて、病院にかかったら診断をもらってしまった。

 あの勝気で快活な母が、まさかこういった診断をもらうとは。

 少なからずショックだったが、母から離れるつもりはなかった。苦労して育ててくれたのだ、母が天寿をまっとうするまでできる限りのことをして支えたいと思った。

 夫が異論を唱えることはなかった。たくさんお世話になったし、俺もできる限りのことをすると言ってくれた。

 本当に素敵な人と結婚できたと、私は自分の幸運に感謝した。


 ……キッカケは、ほんの些細なことだったと思う。

 あるときあまりにも仕事に忙しすぎる夫に、私はそれを打ち明けるタイミングを失った。

 ひとつ言いそびれると、ひとつ、もうひとつと言いたかったことがどんどん積もっていく。積もれば積もるほど、自ら言いだすことが億劫になり難しくなった。

 ひとつひとつは些細なことで、ちょっとした愚痴だったり、ほんの少しの楽しいことだった。だからなおのこと、わざわざ伝えるようなことでもなければ、まとめて伝えるようなことでもないと思ったのだ。

 夫は変わらず優しい人で、相談だってできる相手だったが、本人が欠如していると言っていた通り察して自ら訊いてくれることはなく、積もってゆく私の不満や不安に気づいてくれることはなかった。


 そして私は爆発した。勝手に溜め込んで、勝手にイラついて、勝手に大爆発した。

 あのときのこの人の顔が忘れられない。

 驚いていたし怯えてもいた。そしてとても悲しそうな顔をした。私は彼の歴代の彼女と同じ理由で、同じ怒り方をしてしまったのだ。

 一緒にいるのに、どうしてこんなに私ばかり孤独を感じなきゃならないのか。

 どうしてあなただけ平気な顔をしているのか。どうして、同じように孤独を感じ、寄り添ってくれないのか。

 私たちは夫婦なのに、恋人だったのに。

 それは、いつかそう思い詰めてしまわないようにと、夫があらかじめ言ってくれていたことそのものだった。そんなことはすっかり頭から抜けて、私は夫をなじったのだ。


 結婚生活だって、私は幸せだったがこの人が幸せだったかはわからない。

 いま思えば、付き合わせているだけの、とても独りよがりな時間だったように思う。

 母が言おうとしていた通りだった。子供がしているごっこ遊びと同じだ。私は零次さんのことなんて考えていなかった。ずっと自分のことしか考えていなかったのだ。


 問うだけ問うて俯いてしまった私に、ポソリと言った。

「……お礼をしたいと思ったんだ」

「お礼、ですか」

「千鶴さん、俺を探しに来て抱きしめてくれたことがあっただろ」

うちの父親の葬式が終わったあと、と続き、ありありと昨日のことのように思い出された。

 覚えている。あの日、零次さんのお父さんのお葬式の日。

 私は零次さんのお父さんを初めて見た。棺の中のその人は、病気の影響かやや痩せてやつれていたが、彼の面差しとよく似ていた。零次さんにそのまま年を重ねさせた感じだった。きっと、零次さんはこういう年の取り方をしていくんだろうな、と思った(現に、いまの元夫はあの時横たわっていた人の姿にそっくりだ)。

 滞りなく葬儀が終わり人を帰し、母と後片付けを手伝っていると、気づけば零次さんがふらりといなくなっていた。トイレかな、と母と言いつつなかなか戻ってこないので、私は初めて入った二村家の中をひと部屋ひと部屋覗いて探して回った。

 零次さんは、随分前に亡くなったという母親の仏壇の前で、ひとり黙って胡坐をかいていた。写真のその人は随分若く見えた。


 見つけたものの、声を掛けるのはためらわれた。

 声も上げずポロポロと涙を溢していたからだ。拭いもせずぼんやりとした顔をして、ただ黙って落ちるに任せていた。

 私はどうしたらいいかわからず、されど目が合った後だったので見て見ぬふりをして去ってあげることもできず、堪らなくなり寄って行って彼を抱きしめた。

 ――別に、悲しいとかじゃないんだよ。

 いま言っても説得力ないんだろうけどさ、と零次さんは述べ、それきり黙った。私にはそれが余計悲しかった。この人をひとりにしたくないと思った。

 泣いているのを見たのは、あれきりだ。


「人に抱きしめてもらったのは、初めてだったから」

いや、保育園で先生にとかはあったかもしれないけど……と零次さんは遠い目をした。

「自分の親の葬式で不謹慎だけど、あのとき俺は、千鶴さんがいてくれてよかったと思ったんだ。こんな優しい人がいるんだな、とつくづく思った。

 だから、なんというか……、結局俺はあの日の礼がしたいだけなんだ。優しくしてもらったから優しくしたかった。千鶴さんが望むことはできる限りしたいし、困っていたら助けになりたい」

それだけの話だったんだよ、と言った。

 言葉もない私に、零次さんは続けた。

「でも、俺はそれで満足だったけど、結果的に却って千鶴さんを傷つけてしまった」

申し訳ない、と目を伏せた。泣いてしまいそうだった。


「……なにがいけないんですか。私は幸せでした」

彼は私を見た。私には、目を合わせる勇気がなかった。

「私は、……私も、零次さんも独りよがりだったのかもしれないけれど、私はちゃんと幸せでした。

 確かに恋愛感情は返してもらえなかったのかもしれません。でも、ちゃんと家族としての愛情はもらいました。私のことだけじゃなく、お母さんや千春や千夏のこともずっと大事にしてくれたと思ってますし、いまも大事にしてもらってると思ってます」

あんまり、一緒にいなきゃよかったみたいなことを言わないでください……、と震えた声が漏れた。

「……。そうだよな」

いいことも沢山あったのに。ごめん、とまた言った。


 私はいつも自分を棚に上げて人をなじる。自分だってそう思ったくせに。


「……柏餅とか、鯛焼きとか、見つけると買ってしまうんです。うちでは食べきれないってわかってるのに。……無意識に、言い訳を探してるんだと思います」

うん? と首を捻られた。

「……千春や千夏に言われたんです、お母さん、元気ないときいつも餡子もの買うよねって。自分じゃそんなに食べない癖にって」

そんなの買ってないで、会いたいって言えばいいのにと娘たちは言う。

 ……でも、もう言い訳もなしに連絡なんてできないもの、とつくづく思う。断られたらと思うと、立ち直れない。


 ふいにインターフォンが鳴った。慌てて向かうと、玄関扉の向こうから、あらーありがとうねお世話様です、と賑やかな声がした。戸を開けるなり、頭を下げた。

「ありがとうございました」

「千歳さん、今日も楽しく過ごされてましたよ。皆とおしゃべりをして」

楽しかったですねー、との声掛けに、そうね! と母は満面の笑みを浮かべた。

 よかった。今日はご機嫌らしい。私の視線に気づき、微笑んだ。

「ちーちゃん、ただいまー」

「おかえりお母さん」

そろそろお暇するよ、と玄関にやってきた彼を見て母は目を輝かせた。

「あらー! 零次くんじゃない久しぶり! 大学はどう? 晩御飯食べてくでしょ?」

「いえ、今日は帰りますよ。また日を改めてお邪魔します」

と述べる彼に、いつもならぶぅ垂れる母が、ぼんやりとした目で見返していた。

 また記憶が曖昧になっているのかもしれない。話している途中で、相手が誰なのか忘れてしまうことがあるのだ。

「お母さん? 入ろうか。すぐお茶入れるからね」

「手伝うよ」

 すぐさま母へと差し出された手に、今日は甘えることにした。ありがとうと礼を述べると、母が嬉しそうな顔をして差し出された手を握り、見上げた。


「……あぁよかった、優しい人で。

 うちの子をお願いします、この子はあなたのことが大好きなんです。零次くんさえよければ、一緒にいてあげてくださいね」

あっ、私が言ったってことは内緒ですよ、怒られちゃうから! と茶目っ気たっぷりに笑うと、よっこいしょと三和土を上がって自室に戻ってしまった。


 ふたりでしばらく、去って行った背の残像を見ていた。

「……敵わないなぁほんとに」

「……。恥ずかしい思いも結構しますけどね……」

なにせ、私たちの馴れ初めを娘たちに語って聞かせるのである。

 顔から火が出そうになるのだが、止めると大層不機嫌になって「お散歩行ってくる!」と徘徊を始めてしまうのでいつも止められずにいる。

 前に零次が来ているときにその話を始めてしまい、どうするのかなとコッソリ伺っていたら、耳まで赤くして俯いて聞こえないふりをしていて、ちょっと笑ってしまった。


 ――じゃあまた、と靴を履き手を上げられた。

 ――はい、また、と小さく手を振り返した。


 引き戸がカラカラと音を立て閉められ、しばらく黙って突っ立っていた。母の部屋から、大きないびきが聞こえていた。

 むちゃくちゃな衝動に駆られ、つっかけに足を突っ込むと慌てて戸を開けた。ほんの数メートル先に背中があった。

「……零次さん!」

「? うん?」

振り返ったその姿が、昔と違うとは思わない。

 年を重ね皺は増え白髪も増えたが、お互いさまだ。


「……あの、……鯛焼きや柏餅がない日でも、たまにお誘いしていいですか」

不思議そうに目を丸めて聞いていたが、笑ってくれた。

 うん、いつでも、と目を細めた。


Fin.

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