いなりのたたり

そうざ

Curse of Inari

 崖の下に浜辺を見下ろすその森は、夏を迎え、より一層燃える緑を晴天に誇らす。

 人の手が及ばぬその奥へ分け入ると、傾く鳥居がに覗け、苔生こけむ小祠しょうしが現れる。

 かつて両脇につくねんと鎮座していた筈の白い狐像は、半身が腐葉土に埋まったまま唯々ただただ虚空を見詰めている。いつだったか、俺がいたずらに蹴倒してやったからだ。耳や尾や彼方此方あちこちが欠け、煤ける一方である。

 俺はこの場所を気に入っている。小鳥のさえずりを感じながらの腹拵えは快適そのもので、この日は偶々たまたま稲荷寿司を頬張っていた。

 すると、何処からともなく少年が現れた。色白の肌に切れ長の眼を光らせている。

 この辺りに詳しい俺も見掛けた事のない顔だったが、少年は馴れ馴れしく語り始めた。

俺等おいらにも稲荷寿司をおくれ」

「やなこった」

「分けておくれよ」

「食いたい物はおのれで手に入れる。それが自然の摂理だ」

「せめて一つは祠に供えんか?」

「何故に俺がそれをせねばならぬ?」

「お狐様は土地の鎮守じゃ。汝も恩恵に与っておろう」

 有無を言わさぬ口調であったが、俺は返事の代わりとばかり最後の一つをごくりと丸飲みにした。

「ぬぅうっ……亡状ぼうじょう、許すまじっ!!」

 たちまち日和が暗転し、辺りにむくつけき臭気が立ち昇った。遠雷の気配さえ感じる。

 怒り心頭に発した少年は、総身に針の如く白毛を逆立たせると、あけの大口から犀利さいりな歯牙を剥き出し、疾風のていで飛び掛かって来た。

 俺はひょいと蜻蛉とんぼを切り、すんでわした勢いで大樹のこずえまで飛び退いた。造作もない。

「降りて来ぬかっ!!」

うぬがここまで来い」

 少年は舌打ちを一つ、それを合図に地鳴りを呼び寄せると、呪詛の言葉を轟かせた。

稲荷の怨みは百年祟るイナリノウラミハヒャクネンタタル屹度天下に極まれりキットテンガニキワマレリ!!」


 国中から油揚げが消えた。

 店頭は勿論、生産の途中から跡形もなく消失した。人々の脳裏から、製造法は元より、油揚げという概念まで失われた。もう誰も油揚げを作る事も、食べる事も、思い描く事さえ出来なくなってしまった。

 俺はそれを実地で感じていた。浜辺に集う人間共が無用心に広げたご馳走の中に稲荷寿司が見られなくなったからだ。

 憤怒のまにまに何と愚かな呪いを掛けたものか。むしろ難儀しているのは、他でもない少年あいつだろう。向こう百年、あいつの大好物は供え物の品目に上がらぬのだ。

 俺は何とでもなる。稲荷寿司がなければ、お握りを食えば良い、サンドイッチでも良い、玉子焼きもあれば、南瓜の煮物も、鮭の塩焼きも、ウインナーソーセージだってある。

 今日も今日とてピーヒョロロ、何処吹く風で輪を描き、食品えもの目掛けて急降下――である。

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