はじまり と おわり に

井内 照子

α 或いは β

 よく磨かれた病院の廊下のタイルを新品の青い革靴の底がコツコツと叩き、手に持つ赤く染まった花が下品な匂いをさせている。305号室。305号室。モモは一昨日からその病室に居て、情けない話足を滑らせて骨を折ったのだという。モモはすぐに出られるから来るなと電話で言っていたけど、私は入院中の人のお見舞いへ行った事がなかったからモモが入院しているうちにお見舞いへ行こうと思った。そのせいなのかモモと逢うからなのか、顔から笑いが剥がれなくて、町中でふとその事に気がついたとき、恥ずかしくなった。

 モモの居る病室へ入るとモモはベッドの上で身体を起こし窓から外を眺めていた。私は足を軽く運んで、静かにモモのベッドの前に立った。

「モモ、来ちゃった」

 気づいていた様子も無かったのに特に驚くこともなく、モモはゆっくりとこちらへ振り返って私を見た。

「ああ君か。来なくて良いって言ったのにやっぱり来たんだね。いいんだ別に。ありがとう」

 モモは歳に見合わない調子で応えた。二十代前半の若者ではなく、酷く老け込んだ風に応えた。

「これ、お土産」

 私はお下品な匂いの赤い花束を渡した。

「ありがとう。一応貰っとくよ」

 機械的な応答をして、モモは花束を受け取って、モモはまた窓の外を眺めた。秋の空を撫でるように、優しさと悲しみが混ぜこぜに成ったような水色の瞳で窓の外を眺めた。

 私はそんなモモを見ていた。モモの深い栗色をした瞳が映すものがいったい何であるのかを考えて、私の裡の不安はそれを必死に探ろうとしていたけど、結局そんな不透明な気分はモモのその何かを分からせることはなかった。

 時計の針が回っても押し黙ったままモモは窓の外を眺めつづけて、私はただ座っているだけなのにどっと疲れが肩を重くしているように感じた。

「お姉さん。疲れるでしょ。男の人にかまっていると疲れて仕方ないんだから、さあ、こっちへいらっしゃいな。貴女が来ただけで彼だってきっと嬉しいわよ。言わないだけでね。私も嬉しいわ。話し相手ができて」

 どこかの病室からおばあさんがやってきて、私を連れ出そうとした。

「ねえ、モモ。私出て来るついでに何か買って来ようか。欲しい物あったら何か言って」

「かまわないよ」

 モモは寂しそうな目をしてそう言って、それからまた窓の方を見た。この病室へ戻ったらモモがどこかへ行ってしまっていそうな気がしたから、私も少し寂しく成った。

 おばあさんが私の手を引いた。

「じゃあ、一寸行ってくるね」

 私はおばあさんのとろい歩みに合わせてその後をついて行き、エレベーターで一階に降りて売店でお茶とお菓子を買って貰った。それから屋上に昇った。屋上へ出るとおばあさんはポケットから煙草を取り出して火を点けた。煙草の白い煙が陽に紫色の陰を点けて、その煙は口と鼻から這い出て青い空にだらしなく延びていた。陽に透けた紫色の煙の陰は彼女の一生の一瞬を細切れにしてまた集めて繋げたような姿をしている気がした。風下の私には容赦なく彼女の濃い煙草の煙が襲いかかって、その煙草の匂いがモモの吸う煙草に似ていることに気がついた。

「お姉さんも吸うかい」

 私が物欲しそうな顔をしていたのか彼女はそう言いながら煙草の箱をポケットから取り出した。

「いえ、私はいいです。すみません」

 彼女は煙草をポケットに戻した。私は彼女のたわいもないおしゃべりに耳を傾けた。孫が小学校で何番目の成績だとか、娘の旦那が甲斐性なしだとか、おじいさんが亡くなってつまらないだとか、近所のおばさんが口うるさいだとか、親孝行はしないといけないだとか、そんなような話を私は聞き続け、退屈だと思った。そんなつまらない話を聞くくらいなら、モモを見ている方がずっとよかった。

「あの足折ったのは恋人かい。それなら、ヤメときな。ありゃあ早くに死んじまうよ。そのうちあんたの前から消えちまう。そう成る前に別れた方が傷は少なくて済むよ」

 下手くそな笑顔を隠して、彼女は急にそんな事を言った。彼女のその声には力があって、なぜだか分からないけど彼女の言った事はその通りだと思えた。きっと私が常々感じてた事を彼女は口にしたのだと思う。

「そうですか。でも彼が私より先に死んでしまうというのであれば、私は彼の死の間際を見ていたいです。だってあの人がどうやって死んでしまうのか気になるじゃないですか」

 私は少し緊張で強ばった小さな声でそう言った。

「あんたも変わってるねぇ。そんなんじゃあ、シワが増えて、嫁に行けなくなっちまうよ」

 彼女は何本目かの煙草の煙を深く吸い込み、それから苦しそうに咳をした。彼女は喉の下の肺のすぐ上で何かが暴れているような酷い咳をした。胸の中に咳を閉じ込めると彼女は息を切らせながら、帰ろうと言った。

「今日はもう疲れちまったよ」

 病室まで送ると彼女はそう言って、ベッドの上で横になって目を閉じた。彼女は安らかな顔をして眠った。読んだ後に詰まれて随分と時が経ち陽で焼けて黄ばんだ本のように安らかな顔だった。

 おばあさんの病室を後にして私はモモのもとへ戻った。私の持って来た花は花瓶に入れられて温かな陽を浴びながら赤い雨模様の微笑を浮かべていた。モモはまだ外を見ていた。

「帰ったよ。」

 モモはほとんど息もしていないと思えるぐらいに静かで、その静けさを殺さないように私はモモのベッドの横へそっと腰掛け、私が腰を落ち着けるとモモは此方をちらりと見た。

 私は戦利品をモモに差し出して見せ、今日の話を聞かせた。モモは何も言わずに、私の方を見る事もしなかった。おばあさんがモモは早くに死んでしまうと言った事を聞かせたら、ようやくモモは静かに穏やかに笑った。

「きっと彼女は正しいよ。そう、僕はきっと近いうちに死んでしまう。なぜだか聞きたいかい」

 モモは私の心を覗き込むように顔を私に近づけ私の瞳を覗き込むように眺めた。

「うん、まあ、いいや」

 モモは私に何かを見てそう言って話を続けた。

「僕はもう十二回死んでいるんだ。僕は今までに十一回と一回死んでいるんだよ」

 モモはいつもこんな調子で良く分かりそうにもない事を言う。

「僕は六歳の時に死んだ。それから十一回生きて、十一回死んだんだ。死ぬといつも六歳の時の目覚めの瞬間へと戻されるんだ。まるで寝て目が覚めると次の日が来ていたみたいに、僕は六歳を十二回経験した」

 私はモモの顔を見つめながら少し頷いて、またモモの話に耳を傾けた。

「君も小さな頃に戻れれば良いのに、あの頃からやり直せれば良いのにとかと思う事はあるだろう。そんな具合に、僕はもう十一回もやり直しているんだ。目覚めはいつも同じだったよ。僕が目を覚ますとぼんやりと世界が開けてきて、兄がカレーパンかカレーコロッケを目の前に差し出している。僕はお腹が空いては居るけど、そんな気分じゃあないから兄は僕にお腹空いただろ食べろって言うんだけれど、僕はいらないと応える。それからすぐに両親がやってきて、良かったとかなんとかって言うんだ。なんでも僕は交通事故にあって、頭を打ってそれで気を失っていたらしい。

 僕には六歳以前の記憶が写真の中と聞いた話にしかなくて、六歳以前の僕はその時に死んでしまった。でも僕が記憶を失っている事を知っている人は居ない。なぜなら、僕は上手くそうやって僕自身を嘘で塗固めないと存在しないようなモノだからね。まあとにかくそんな風に僕は六歳の時に産まれた」

 モモはおばあさんに買って貰ったペットボトルのお茶の蓋を空け、二度ほど喉を動かして飲み込み、何かを深く思い出すように目を瞑った。私がお菓子を食べようとお菓子の袋を空けるとまたモモは話を始めた。

「僕は初め六歳の時に死んだなんて思わなかった。それを知ったのは二回目に死んで三回目産まれてからなんだ。二回目の人生は全く順調だったよ。小学校でも中学校でも成績は良い方だったし、運動もそこそこには出来た。難なく月日は過ぎて行った。人気者ではなかったけど友達は多かったし、この顔でも女の子に愛の告白される事だってたまにはあった。

 そのあと高校は進学校に進んでそこで彼女が出来た。君には余り似ていないけど、姿勢が良くって黒くて奇麗な長い髪のお嬢様って感じの子だったかな。大学に入って一寸してからその子とは別れたけど、すぐに新しい恋をしてね、二年の時から卒業までその彼女と一緒に暮らして、仕事で離れて、やっぱり別れた。それでも順調に生きていたよ。僕は商社マンでゴムを扱う会社で働いていたんだ。ゴムを加工する会社に原料ゴムを卸したり、その加工したゴムをまた別の会社に売ったりする仕事だったよ。二十六の時にお嫁さんを貰ってね、次の年に長男が、三年後に次男が産まれて、同期の中では出世頭だったし、あまり遊びもしなかったから小金が貯まって三十五歳で一戸建ての家を買った。

 良い年月だった。安らかな暮らしだった。明るい家庭だったよ。

 五十四の時に父が亡くなってね、その二年後に母が逝った。悲しかったな。その時は悲しかった。

 七十まで働いて孫達が僕の数少ない愉しみの一つに成ると、妻が先に逝った。僕が七十三の時だったかな。彼女は僕より二歳も若くてね、歳をとってからも笑顔が奇麗な人でね、それでいて皆に愛されていた。彼女が逝ってしまうと僕も悲しく成ってね、寂しく成ってね、日に日に老け込んだ。それまでは彼女の笑顔で老け込まずに居られたんだと思う。なんでもっと大事にしてやらなかったのかとか、なんで僕より先に逝ってしまったのかとかという後悔ばかりが募ってだんだんと心も荒んで行ったよ。そうなるともう長くなくって、脳の血管がどこかで破けたらしくてね、妻が逝った半年後に居間の白い風景の中で僕は死んだ。苦しくなかった。蜂に刺されるくらいの痛みが或るくらいで、他は全然苦しくなかった。だって意識が無いうちに僕は死んでいたんだから。

 それから、またあのカレーパンに僕は出会ったんだ。兄の言葉も僕の対応も両親の眼差しも一緒だったよ。僕はその時に悟った。僕は六歳の後をまた生きるんだって。でもね死ぬ前の事を覚えているから、ずっと楽な人生に成るなんて事はなくって、苦痛だったよ。だって前の僕のやった事がほとんど無惨に壊されてしまったんだからね。それに前の人生の時のやり方が上手くその僕には伝播してなくてね、特に勉強は中学校から先はまたやり直しって具合だったよ。小学校までは天才児扱いだけどね。それから僕はまた同じ高校へ行った。莫迦だよな。ヤメとけば良いのに。前の僕の彼女には男が居た。全然知らない奴だった。前の人生を憶うと胸が苦しくて仕方なかったよ。きっとこの先も前の恋人達とまた逢う事は出来ないんだって思った。実際にそうだったよ。僕は高校二年の冬に車に敷かれて死んだんだ。ほとんど何が起きたのか分からなかったけど、信号のない処を渡るときだったからきっとそうなんだろうと思う。白い雪の日で、友達と遊びに行こうって約束したから家に帰る足を速くしてた時だっけな。あまり詳しくは覚えてないけど、きっとそうだった気がするよ。すると、またカレーパンが目の前にあったんだ」

 モモは寂しそうに目を伏せた。私は彼の仕草を追った。指の先が少し震えるくらいで、モモの身体はそれ以外ほとんど動くことはなかった。

「それで三度目のカレーパンの後はどうなったの」

 私がそう聞くとモモは私の顔を眺めて、無邪気にも優しく微笑んだ。

「君はこんな話を信じたのかい。僕の嘘かも知れないのに、こんな話をホントウにしているのかい」

「ええ、私、モモが嘘を言う人じゃないこと知っているもの。少し意地悪なときはあるけどね」

 私は大真面目に言ったつもりなのに、モモは子供あやすときの老人のように笑った。もしかしたら、モモの話で言うところの人生が何度目かだから、その年はモモの実際のそれや、私の十数倍も生きていると思えたからなのかも知れない。とにかく、そのときのモモは老人然として見えた。

「そう言えばそうだった、君はそういう人だったよ。前のときの君もそうだった。少し変わっていて真面目な顔をして、僕の大ボラを信じていたよ。それはまだ先の話だから、後にしよう。それで三度の目のカレーパンの話からだったかな」

「ええ」

「三度目のカレーパンを僕は食べてみた。産まれて初めて口にするようにカレーパンを食べたんだ。余り美味しくなかったけど、一口、二口と小さな口を使って丁寧に食べたよ。半分くらい食べると、両親が来て僕からカレーパンを取り上げてね、頬を打ったよ。イタかったな。四度目の僕は悲惨だった。勉強ができたから妬まれて、小学校ではいじめられて辛かった。一世紀近く生きているのに、小学校でいじめられるのは酷く堪えるものなんだ。二度目の時の孫達の顔が浮かんだ。でももう可愛くは思えなかった。僕の記憶はそんな風にパレットに打ち撒けた絵の具みたいな斑目上に歪んでしまってね、学校行きたくないと親に言ったよ。そうしたら無理に学校まで連れて行かれるんだ。兄弟と一緒に。でも僕は救われた。僕の四度目の人生は二年半しか無かったんだ。スズメバチが僕を刺したんだ。あのときはイタかったな。どうも僕の記憶にない一度目に僕はスズメバチに刺されていたらしくってね、それで急性のアレルギー反応を起こしたんだ。アナフィラキシーショックって言うんだけどね、一度刺されると身体で抗体を作るからまたその毒が身体に入ると抗体と毒とで戦って自家中毒を起こして、早いと三分くらいで死ぬんだって。まずそれは刺された痛みと身体中の痒みから始まって、次に息苦しさ、もっと激しい息苦しさ、いよいよ心臓が止まって、それでも意識はあるものでねあとで調べたところによると、心臓が止まっても七分くらいは意識があるんだって。それを死というのかは知らないけど。その薄れる意識はとても気持ちが良いものなんだ。走馬灯のように人生の一場面一場面が流れるなんて言うけれど、僕は三度分流れたよ。その時ばかりは始めの孫達の姿になんだか悲しくなったね。もう過ぎた世界の出来事なのにね。

 で、そんな感動的な場面のあとに、またあのカレーパンがあったよ。四度目のカレーパンさ。僕はもうパンを食べなかった。というよりも、あのカレーパンを食べたのは結局一度っきりだった。だって親に頬を打たれてイタいのはもう御免だったからね。僕は絶望した。また小学校に通う事に成る事にね。特に低学年の時なんて最悪だろ。何だって一世紀も生きていて四則計算やら、文字の練習をまたこうしてやらなくちゃ成らないのかって思うだろ。高学年なら好きに勉強しても怒られないものなんだよ。勉強が平均以上にデキさえすればね。

 まあとにかく小学校には通いたくはないから、保育園を卒業するまでの間に学んだ風に見せかけて、親を黙らせた。だいたい中学校卒業程度の知識はあったし、一世紀分の文は書けたから、それで僕は家で英才教育という聞いたことしかないモノを受ける事に成って、十歳の時に英国の大学へ入った。それから十八歳で経済学の博士に成った。ご飯は口に合わなかったけど刺激的だった。四カ国語くらい覚えてさ。皆が酒盛りをやっている横で僕は日本の秀才は真面目ですって風に勉強なんかして、僕を可愛いとか言う歳上の女の子に抱かれて、その実僕の方が経験はあるんだけどね。そんな風に英国で博士に成って日本に戻ったのに全然社会は認めてくれなかったね。だから僕は投資家に成った。個人投資ね。算数っていうのか数学っていうのか、とにかく勉強が実際に役に立つ感覚は新しかったね。楽しかった。ソレまでの人生では見た事も無い額の金が回って、気に入らない小金持の老人なんかを潰してさ。市場をかき回してやった。多少未来を知っていたから、楽だったよ。でもそのせいで僕のそれまで知っていた世界は随分と歪んだね。それでも僕は若い人達の憧れの的でさ、二十の時には日本でも百位には入る金持ちだったから会社を作ってね。僕は適当に未来の知識を漏らしてやれば良いだけだった。そのおかげで随分と科学も進んで、街は見たこともない華やかさを持っていたよ。でも人間は愚かなもので核戦争が起こった。どこの国が始めたのかどうして起こったのか分からないうちに、僕も死んでいた。きっとその後地球上には何にもなく成ったんだろうね。で、またカレーパンさ。

 僕は食べてもいないのに、そのカレーパンには飽き飽きしていたよ。今度は慎重だった。気づいてしまったからね。僕が下手踏んだら大変な事に成るって、それに僕の人生もあと何度あるかなんて分からない。なにより、同じだと思っていた人々が違っていたんだ。というよりも、同じ様に見えて違っていたんだよ。実は毎度、違っていた。外見とかそんなこともきっとそうだったけど、何かが違っていたよ。眉の形とか、黒子の位置とか、笑い方とかそんなことも実は違っていたのに、同じ様に見えていたんだ。人格とか、性格とかそんな事だったり、着ている服とかもそうだったね。その時の僕には、よく分からなかったけど、何かが違っていた。まるで神様が居て、少しずつ調整を加えているみたいに、違っていたんだ。だから、何度目かの僕というもののその見ている物事が違っているのと同じように僕が見ているものが僕には同じように見えるように調整もくわえられていた。

 そのことに気がついた僕は慎重に成らなくちゃあいけなかった。なんだって僕だけがそんな風に六歳の間を行き来しているのか分からなかったからね。他にも居るのかも知れなかった僕みたいな人が。少なからずその懸念は前の人生の時にもあったけど、その時ほど深刻に考えてはなかった。ソレまでの僕の考えでは、この人生のやり直しはボーナスか幻想みたいなものだった。でも実は毎度少しずつ違っていて、それでいてその都度やり直し方が変えなくちゃならないんだ。いややり直しじゃなくて、やり方が違っていたんだ。調度ゲームみたいな具合にルールは一緒でも、持ち札だったり進行役が違っているんだ。時にはルールだって少しは違って来るよ。勝ちのないゲームでね、だから負けもなかった。ただ上手く終わりまで進行できるかどうかが問題になっているという風なんだよ。それを誰かが調整していて、僕はその調整の為に送り込まれているのだと思った。だから慎重になるしかなかった。僕の挙動一つでも随分と違って来るからね。まあきっと多少の自由は利くけど、前にあったことを踏みながら危ない方へ向かない様に誘導しなくちゃ成らなかった。そのために僕は観察したよ。次の時があるのかは分からなかったけど、次の時は上手く調整出来る様に、世界を観察しなくちゃ成らなかった。そんな観察者の僕は目立たない様に、二回目と似た人生を送る事にした。

 で、また同じ高校へ入ったんだ。恋人は別の人だったけど、そんなことはその時の僕には問題にならなかった。大学も同じところだったけど、今度は同級生の彼女と一緒に入って、一緒に出て、それから結婚したよ。

 その時の僕は車の会社に勤めた。それで結婚したのは大学を出てすぐの二十三の時だった。そこそこに仕合せだったし、息苦しくもなかった。子供達も真面目に育ったし、それなりの家庭の問題もあったけど、それでも悪くはなかった。

 父は六十二の時に脳梗塞で倒れ、その春の彼岸の頃に風邪を拗らせて肺炎に成って死んだ。死に顔は余り見れた物じゃなかったな。母は随分と長生きをした。僕が六十八の時に九十八歳で逝ったよ。夜に赤飯を食べて、嬉しそうに寝に入って、朝起きて来ないから僕が起こしに行ったら死んでいたよ。悪くない死に顔だった。僕は七十五で死んだ。今度は妻に看取られてね」


 モモは話し疲れたという風に、こちらを見た。一世紀半強が降りてきたように疲弊していた。まだ四半世紀も生きていないのに、その瞳にはずっと奥深い陰が落ちている様に見えた。

「今日はここいら辺で畳もう。ほら、日も暮れてきた。君の家の人も心配するだろうし、僕もすこし疲れた。もし良ければまた明日おいで。続きを話すから。ああ、そうそう。曼珠沙華をありがとう。君がこれを持って来なかったら、僕は何も話さなかっただろうね。でも君はやっぱり持って来た。君の家の脇に咲いているのだろう。君はそれを見つけて僕に渡しに来た。別にもっと立派な花を買っても良かったけれど、なぜだかこの赤い花が僕に似合っている気がしたんだ。だからこの花を摘んで、束にして持って来た。この花は曼珠沙華とも言うが、彼岸花って言うんだよ。彼岸に咲いてるから、彼岸花って言うんだ。花言葉は、悲しい思い出。ほらごらん。この朱色は血の様に鮮やかだろう。根には毒もあってね死人花とも言って、縁起の良い花じゃあないんだ」

「でも、私は…」

「悪気はなかったんだろ。好きではないけど、僕に良く似合うから持ってきた。そうだろ。分かっているよ。分かっているんだ。ありがとう」

 私の言葉を遮ってモモはそう言った。不穏な言い方だった。不安を誘う笑みだった。モモは花の香りを嗅いだ。あの弱く香る下品な匂いを嗅いだ。

「うん。かすかにしか分からないけれど、上品な天上の風の香りがするよ。曼珠沙華ってのはね、サンスクリット語で天上の花って言う意味があるらしいんだ。こっちの花言葉は暢気な気分さ。まあ法典の曼珠沙華は白い花だけれどね、でもきっと彼岸も天上もどちらも僕にはとても豊かな流れに見えるんだ」

 さあ、帰ってくれ。私にはそう言っているように聞こえて、モモの病室を出た。

 新品の革靴の底が固い廊下を打ってコツコツと音を立てた。もう革靴は新しくはなかった。今朝この靴を履いたときには、まだ水色は水色だった。でも今ではその水色には灰が覆い被さってクスんでしまっていた。夕日に焼けて、気味悪く陰の付いた病院の廊下は長く感じられて、その陰が私の水色の革靴をクスませたのだと後に成って気が付いた。

 街を歩くと虚空をツマラナそうに肩で切る人達が集まっていた。集まって各々が決まった動きをしていた。焼き鳥屋の前を通ると、タレのこげる匂いがした。いつも足を止めるタレの匂いが今日は違っていて、不気味な灯りが灯っている様な気がして、私はソコを早足で通り過ぎた。きっと私の鼻には、まだあの難しい名前の下品な香りが、くすぐっていた。

 街を過ぎて田園が広がる辺りに来ると、もうすっかり陽は落ちていて、外灯などほとんどない田舎道は月明かりを頼りに歩くしか無かった。歩き慣れたこの暗い田舎道と秋虫の鳴き声は私を勇気づけた。

 私は野犬の遠吠えに背筋が伸びて、気味が悪いと思って振り返り、背の方に延びた街の空は星の無い冷たい空だった。

 趣味の悪い指向を凝らした帰り道に、私が心を漬からせた問題は全てモモの事だった。モモと私の事だった。六歳から先のモモが十二回目のモモなら、私はどうだろうかと思ってみた。モモが十二回なら、私も十二回目であって欲しいとも思った。十二回モモと出会って、十二回とも恋に落ちていて欲しいとも思った。でも、もしそうだとするとモモだけ十二回分の記憶があって、私はいつも忘れているという事なのだ。モモの話には、まだ私は出てきていない。残りの六回の裡に私は出て来るのだろうか。少なくとも一回は出て来る事になっている事をモモは教えてくれた。私が覚えてなくても、モモは私を知っている。それだけで充分に思えた。そんな事を考えていたら、いつの間にか家の前まで来ていた。家の門の脇で、あの赤い花が暗闇に浮いていた。

 門を潜って玄関の引き戸を引くと、ゲージの中の雪が相手をして欲しそうに唸った。気が乗らない私はその老犬の相手はせずに、土間に靴を放ってうがいをしに洗面所へ行った。洗面所は風呂の脇にあって、脱衣所もかねている。私が洗面台に向うと、風呂からは父の暢気な歌声が聞こえてきた。なんだかみすぼらしく思えた。着ている服も、伸ばした髪も、粗末なお化粧も、貧相な身体と顔も、浅はかな心も、父が風呂で歌っている歌にそっくりだった。

「近所迷惑だから、もっと静かに歌えば」

 ほとんど八つ当たりのようなモノだった。

「おお、ショウ帰ったのか」

 父は暢気に言った。

「うん。ただいま」

 私は自分の安っぽい心根に泣き出しそうになった。

「メシがある筈だから、台所へ行ってみろ」

「うん、分かってる。ありがとう」

 きっと、そんな平凡な会話があのみすぼらしさを運ぶのだと私は思った。台所では、母が忙しそうに食器を片付けていた。

「あら、おかえり」

「うん、ただいま」

「ご飯は蠅よけの中にあるわ。私、婦人部の会合へ行かなくちゃいけないから、適当に温めて食べて。足りないなら、冷蔵庫から何か出してね」

「うん。分かってる。ありがとう」

 母は食器を洗いきると割烹着を脱いで、そのまま忙しそうに出て行った。

 蠅よけを持ち上げると、サンマの塩焼きと山菜のおひたしがあった。ジャーの中は栗ごはんで鍋の中にはシジミのみそ汁、箸休めには好きなだけ漬け物もあった。お子様ランチの旗でもあったら、御馳走に思えるのに違いないけど、今日みたいな日には似合わないご飯だった。

 私がサンマの骨抜きに苦心していると、太ったオジさんが風呂から上がってきて、向かいの椅子に腰掛けた。

「よう、ショウ。冷蔵庫からビイルをとってくれ。次いでにコップも」

「自分でやりなよ」

 サンマの骨抜きで私の指は脂まみれだった。

「なんだ、そんな風に言わなくてもいいだろう」

 父は薄く成った頭を摩りながら逆の手では膨らんだ腹を抱えて難儀そうに立って、冷蔵庫から瓶のビイルを、食器棚からはコップを取りだして、また難儀そうに椅子へ腰掛けた。

「なんだ。そんな物欲しそうに眺めて。お前も呑みたいのか」

「うん」

 父は座ったまま変な姿勢で食器棚から、もう一つコップを取った。私はサンマの骨抜きにまた意識を戻した。サンマの骨が上手く取れて頭の所の身をほぐして落とした。大根おろしを身に乗せて、その上から醤油を注いだ。醤油は痒い匂いがした。油に濡れた手を台所の流しで流すと、いつの間にか父がサンマを半分も食べていた。

「なんで、食べちゃうの。もう」

 皿を此方に戻しながら言った。

「ほら、ビイルやるからいいだろ」

 面倒だし疲れるから、寂しい中年の相手はしない事に決めた。

 サンマ、栗ごはん、山菜、みそ汁、箸休めのたくあんの順で私は口へ放り込んだ。上手く口の中でそれらが混ざって、いい味を出していた。

 サンマ、栗ごはん、山菜、みそ汁、箸休め。

 サンマ、栗ごはん、山菜、みそ汁、箸休め。

 退屈な味だった。正面で暢気に某の講釈を呟く中年と同じ様に退屈だった。水のように甘い日本酒ぐらい退屈だった。

 私はそんな退屈な食事を終えてから、コップの中で気が抜けた不味いビイルを一気に飲み干した。

 茶碗と皿は水に付けて、漆器の箸とお椀は適当に洗った。風呂上がりなのに酷い加齢臭をさせた太っちょの中年の脇を通って、階段を昇った。階段はいつもより急に感じられて、私の足を疲れさせた。階段の上に付いた小窓から、姉の部屋の灯りが付いているのが見えた。

「おねえ、帰ったよ」

 少し大きな声で言った。

「ああ、お帰り。あんた風呂先に入っちゃって。私、明日提出の大学のレポートやってるから」

「はあい」

 自分の部屋へ戻ると、足がずっしり重たく感じられた。着替えを持って、浴室へ行った。身体を流して浴槽に入ろうとした時に父の歌が聞こえた気がして、入るのはヤメにした。風呂を出て、歯を磨きながら鏡を見て、自分の滑稽な顔が深刻そうにしている事が可笑しかった。

 今日モモが言っていた事って、昨日見た鏡の国の私と、今見ている鏡の国の私がもしかしたら違うかもしれないってことに似ているのかしら。そうなら、ロマンチックじゃない。

 不機嫌な顔で私が鏡を覗き込むと、向こうの私も不機嫌な顔をするけど、不機嫌な理由が違ったりもする。私は好きなサッカーチームが大負けしたから不機嫌に成っていて、向こうの私は映画の見過ぎで腰が痛いとか、また次に私が見るときは向こうの私は入れ替わっていて、サンマの小骨が喉に刺さっているとかいう理由に変わっている。そうだったら、素敵じゃない。でも、もしかしたら、それって鏡を見ても私は私の顔を見られないし、私の顔がどんなものだか分からないってこと。私に顔があるかだって分からない。きっと鏡だけじゃなくて、鏡みたいなヒトの顔だってそういっている。そんなのは悲しい。

 鏡の向こうの私が私と同じようにしているとしても、気づかない間に私達は交わっていて、同じ風に振る舞っているのに、その実鏡の向こうのその先は知れていない、どんな世界があっても分かり合えない。鏡越しに指が触れ合っても、キスしても温もりが届かない。蛍光灯の光みたいに無機質な反転が起こるだけで、その世界と世界の間には決定的な境界線があって、でもそうしてみると鏡に映った私と私との差はいったいなんなのか分からない。モモの言うような気がつかないような、同じような、違うこと。それっていったい何。その間を行き来しているモモは。

 それから、自分の考えが及ばないものだと分かって、いつもは気にも止めないようなことが刺激的な空想に変わると、随分と現実がぼやけてしまうものだと思った。部屋へ戻って髪を乾かして、姉の部屋へ行って鏡の国の私の話を聞かせた。

「なにソレ。またあの変な彼氏から吹き込まれたの」

 一度しか会っていないのに、姉はモモの事が嫌いなのだ。

「違うよ。さっき歯を磨いていたら、そんな気がしたの。だって鏡の国の私は私よりきっと素敵な人なの。そうだったらいいなって思って」

「それじゃあ鏡のむこうのあんたは、あんたよりもおバカかも知れないじゃない。私は日本神話とお酒の関係についてのレポートをまとめなくちゃならないから、あんたみたいな暇人にかまってる暇はないの。だからほら部屋に戻りなよ」

 姉に言われたように私は部屋へ戻った。姉の言うように大学に入れなかった私は確かに暇だった。暇はあってもアルバイトもしていないし、勉強をする気も起きなかった。それに暇だけど忙しいような気もした。なにより退屈な物事は億劫だし、面倒だった。だから私はいつでも忙しかった。何もしない事に忙しかった。何もしないとは言うけれど、いつも何かをしていた。老犬の雪と毎朝散歩に出て、お墓で手を合わせて、それから杉の古木が並ぶ天満宮に参って、蜜柑畑の横を通って家の裏から帰って来る。帰って来ると朝食を母が机に並べていて、皆で食べる。父は忙しそうに準備して、出勤していく。私は歯を磨いてから、トロトロと朝の日差しを浴びながら縁側でお茶を啜って、姉が出かける頃に成って服を着替える。それから、お小遣いを貰って街をふらふらと歩いたり、モモと遊んだりするのがここ一年とちょっとの日課だった。


 白い朝が来て、今朝も雪との散歩に出た。お墓、天満宮、蜜柑畑の順に回った。家の裏まで来ると、雪が唸ってから一声吠えた。先の道をよく見ると、蛇が這っていた。

「雪、アレは青大将だから平気だよ」

 私は雪の首を撫でて宥めながら言った。さっきの雪の一声に恐れをなしたのか、青大将は不格好に腹を擦りながら隣の家の生け垣に逃げて行った。

「ほらね」

 雪は嬉しそうに私に身体を擦り付けて、安心して笑っているようだった。家へ戻って雪のリードを納屋の柱に括り付けた。

「じゃあ、またね」

 雪は別れを惜しんだ。私は少しだけ雪の相手をした。

「今度はホントウに行くからね」

 高いところから落ちて行くような声で雪は泣いた。酷く寂しそうな声だった。

「ただいま」

「お帰り。今日は随分と遅かったのね」

 母は食卓と台所を行ったり来たりして忙しそうにしていた。

「うん。雪がね、裏で青大将に驚いて、帰ってからも寂しそうにしたから、ちょっと遊んでたの」

「あら雪ちゃんも大変ね。ショウの遊び相手なんかさせられて。ショウもそろそろ雪ちゃん以外のお友達を作りなさい。もう長くないんだから」

 母はきっと雪が死んでも平気なんだ。私が死んでしまってもきっと同じに決まっている。違うのは、人前で泣く振りをするかしないかだけ。

 眠たそうな姉が降りてきて、それから父が起きて来ると忙しい朝食が始まった。

「今日ね、雪が寂しそうにしていたの。私不安だな」

「あんたはいつも雪、雪って、雪しか友達がいないの。ああ、そう言えば変人君がいたっけ」

 姉は嫌みっぽく笑った。

「私もさっき言ったのよ、雪ちゃん以外にもお友達を作りなさいって。ちゃんとしたお友達を」

「そうだぞ、ショウ。友達が居ない世の中は怖い物だらけだけど、ちゃんと友達がいれば怖くたって助けてくれるからな」

 母の言葉を父は補足して偉そうにした。

「お父さんの話はどうでも良いけど、あんたもっとちゃんとしないと、何も出来ないよ。お嫁にだって行けないわ」

 姉は父の顔を汚そうに眺めながら言った。所詮この家でちゃんとしていない私の存在理由なんて、鏡に映った影よりも低かった。ちゃんとした友達がちゃんと居ないちゃんとしていない私は口を塞いで、今日はちゃんと雪を連れてちゃんとしたモモのちゃんとした病院へちゃんと行こうとちゃんと思った。

 父が遅刻、遅刻とはしゃぎながら家を出ると朝は幾らか静けさを取り戻した。私は雪のところへ行った。

「ねえ、雪。今日一緒にモモのところ行こうか」

 雪はイヌマンマを食べていて、うんともすんとも返事をしなかった。

「ねえ、雪は私がもっと友達を作った方が良いと思う」

 雪は吠えた。ご飯を私の顔に飛び散らかしながら、一声吠えた。そんなコトはどうだっていいって言っている気がした。私は顔にかかった物を拭った。

「そうだよね。雪はそんなの興味ないよね。それで、今日一緒に出かけてくれる」

 雪はご飯を食べ終えて、眠たそうにしていた。

「わかった。私、今日も一人で行くから、いいよ」

 もう雪は眠っていた。私が雪のところを離れると、姉が家から飛び出てきた。

「どいてどいて。今日は一限からなの忘れてたわ」

 そんなコトを言いながら姉は駆けて行った。家の中へ戻ると母が掃除機をかけていた。

「ああ、ショウ、調度良かった。洗濯物干してくれる。私掃除するから。ところで、アナタ顔に何かついてるわよ。洗濯物干す前に流してらっしゃい」

「はあい」

 私は顔を流して、洗濯物を干した。冷たい空気に陽が昇っていったけど、私の心はその空には全然似ていなかった。

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はじまり と おわり に 井内 照子 @being-time

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