第30話

「やめてっ! 来ないでーッ!」


 自分の寝言で目を覚まし、勢いよく布団をはねのけると「うをぉ!」という男の人の声が聞こえた。


「ラウル王子!? 私の部屋!? もう朝なの!? あれからどうなったの!?」


「落ち着けって、リリーナ。深呼吸しろ」


 ラウル王子の存在と整頓された本棚とカーテンの隙間から差し込む陽の光が私を混乱させた。

 深呼吸をしている余裕なんてない。


「なんで1日目の朝なのにあなたが居るのよ! 早く出て行きなさい! セレナに見られてしまうでしょ!」


「まだ12周目だ! きみが倒れたって聞いて駆けつけたんだ!」


 早く追い出さないといけない、という強迫観念に駆られた私はラウル王子の腕を掴もうと手を伸ばしたが、逆に両手を掴まれて暴れた弾みでベッドに押し倒された。


「なんで、馬乗りになっているの!? 遂に本性を現わしたわね! このポンコツがぁ!」


「暴れるな、リリーナ! まだ12周目だって言ってるだろ! 落ち着け!」


 何か言われているが分からない。

 とにかく早くラウル王子を隠さないといけない、という考えが私の頭を支配していた。


「あぁ、もう!」


「やめて、放して!」


 その時、私の口が無理矢理に塞がれた。

 驚きを隠せずに目を見開く。

 目の前には目を閉じたラウル王子の顔。唇には熱を帯びる柔らかいものが接触していた。

 どう考えても手ではない。彼の手は私の手を今も拘束している。


「ッ――!?」


 体を起こしたラウル王子が離れていく。

 私は解放された左手の甲で唇を拭った。ほのかに湿った唇は私と彼が何をしたのか、生々しく物語っているようだった。


「落ち着け、リリーナ。ここはきみの部屋で、まだ12周目で、セレナとデッラの婚約式が終わったばかりだ」


「婚約式……。そう、まだ12周目なのね。セレナは!?」


「彼女はもうこの家にはいない。バレルナーゼ家での新しい生活を始めたと聞いている。何があったのか覚えているか?」


 私は深夜の自室でセレナに問い詰められ、ペティナイフを向けられて脅された。

 落としてしまった『闇の魔道書』を拾われて、それからのことは思いさせない。

 たどたどしい説明を黙って聞いてくれたラウル王子は神妙な面持ちで頷く。


 私はてっきりセレナに刺されたものだと思っていたが、そうではなかった。

 胸にもお腹にも痛みはない。

 ただ、左の頬がじんじんと痛み、腫れているような感じだった。


「私、セレナにぶたれたかも。そうだ、本は!?」


 ベッドから飛び降り、本棚へ駆け寄る。

 途中までテーブルの上に出しておいたはずの本はなく、丁寧に棚の中に収納されていた。


「本当にまだ12周目なの?」


「あぁ、間違いないよ」


 よく見ると本の並び順が違う。

 おそるおそる前に置かれた本を取り出してみると、奥の方には『闇の魔道書』が隠されていた。


 セレナは魔道書を持ち去らなかった? 

 廊下に向かって放り投げただけ?

 わざわざ全部の本を棚に戻してくれたの?


「これが、あの『闇の魔道書』か」


 感動的な出会いを果たしたかのように、ラウル王子が声を上げる。

 何度も表と裏を見返し、やがて「俺には読めない文字だな」と呟いた。


「セレナもこの文字は読めなかったのかしら」


 その答えは誰にも分からない。

 力が抜けて立っていられなくなった私はラウル王子に肩を借りて、ベッドに腰掛けた。


「もう、嫌」


「うん」


「もう嫌なの! なんで元の世界に戻れないの!? どうすればいいの!? 私が何をしたって言うの!?」


 これまで溜め込んできたものが込み上げてきて、止めることができない。

 私には本当の友達も協力者も弱音を吐ける相手もいなかった。

 こうして感情を剥き出しにして喚き散らすのは9周目以来だ。あのときは衝動のままに目に映る全てを破壊した。


 でも、今回は違う。

 私の前には手を握ってくれる人がいる。

 黙って私の叫びを聞いてくれる人がいる。

 それだけで、こんなにも心は脆くなってしまうものなのか。


「きみはよく頑張った。何度も酷い目に遭ったんだろ? 今回、妹とトラブったのは俺のせいだ。ごめん」


「……私があなたの好きなようにさせると決めたのだから、あなたが謝る必要なんてない」


 別に謝罪が欲しいわけではない。

 行き場を無くした名前も分からないこの気持ちを吐き出せればそれだけでよかった。

 私の汚い叫びを受け止めて欲しかった。でも、もっとわがままを言うなら……。


「それでも! いや、ごめん。俺にもどうすればいいのか分からない。この12周目を捨ててやり直そう」


 心底、申し訳なさそうな表情のラウル王子は部屋の大きな窓を開けて、バルコニーの柵から下を覗いた。


「頭から落ちればいいかな。俺が先に行くからついてきて。パーティーホールでまた会おう」


「待って!」


 勝手に話を進めるラウル王子の元に走り、すがるように足を掴む。


「もう嫌なの。自分で命を絶つことも、無駄に走り回ることも、誰かに嫌われることも。……大切な人を失うことも」


 私の心はもう限界だった。


「だから、ずっと一緒に居て。12周目も、13周目も、14周目もずっと、ずーっと私のそばから離れないで。誰のものにもならないで」


 派手な装飾の全身鏡が私を映している。

 鏡の中にはあの頃のリリーナはいなかった。

 ボロボロと涙を流し、床に這い蹲って男の足を掴む、見苦しい女が映っていた。


「それは告白というか、プロポーズみたいだな」


「茶化さないで。私はあなたのことが本当に――」


 ラウル王子はしゃがみ込み、私の唇に人差し指を押しつけた。


「それ以上はダメだ。きみには好きな人がいて、その人に会うために頑張って、もがいているんだろ。それなのに俺に浮気をするのはよくない。違うか?」


 しゃくり上げ続ける私はまともな返答ができなかった。

 この時ほど、しゃくり上げていたことに感謝したことはない。そうでなかったら、きっと私は最後の言葉まで伝えていた。

 

「せっかく、ここまで来たんだ。あと少しじゃないか」


 陽の光を背負うラウル王子がいつも以上に煌めいて見える。

 それは錯覚なんかじゃなく、本当に希望の光を背負っているようだった。


「頑張れ、リリーナ!」


 こんなにも心強い励ましがあっただろうか。

 私はこの世界で初めて人からエールをもらったのだ。


「……ふん。ポンコツ王子のくせに、生意気なことを言うのね」


 豪快に涙を拭って立ち上がる。

 どんなに品位に欠けようが、みっともなくなろうが関係ないわ。

 最後に勝てばいいのよ。


「世界で2番目に美しい私の告白を断るなんて良い度胸ね。後悔するわよ」


 ラウル王子の白い歯がいつになく光っているように見えた。


「それでこそ、リリーナ・アッシュスタインだ。俺も感化されて自殺を思いとどまることにするよ」


 バルコニーから部屋の中に戻ると、彼は『闇の魔道書』の表紙が外せないか何度も試していた。


「なぁ、リリーナ。『セレナと闇の魔女』の表紙の内側を見たことがあるか?」


 そんな所まで見たことなんてない。

 よく漫画では表紙の裏側、いわゆるカバー裏と呼ばれる箇所に本編の補足やキャラクターのプロフィールなどが書かれていることがあるらしい。

 私は本編が読めれば満足なので、そこまで熱心に見たことはない。

 だから、『セレナと闇の魔女』も中身しか読んでいなかった。


「やっぱりな。俺は答えを導き出せそうだ。でも、まだピースが足りない。リスティが何者なのか、そしてラウルの弟についての情報が欲しい。一緒に探してくれるか?」


「なによ。それならそうと早く言いなさいよ」


「確信が持てなかったからな」


 他の登場人物で私やセレナに接触した人物がいただろうか。

 目を閉じて、必死に1周目から11周目までの出来事を思い出す私の脳裏にまたしてもあいつの声が響いた。


『これも凡ミスだ。文章問題は読めば解ける。答えは最初の方に書いてあるぞ』


 頭の中が燃えるようだった。

 私とセレナが一緒に接触して、お互いに真逆の反応をした出来事。


「会ってるかも。街でナンパされた時に助けてくれた男の人! ラウル王子には似てなかったけど、セレナのことを知っていたかもしれないわ!」


 不敵に微笑んだラウル王子は私の手を取って、屋敷の廊下を走り出した。

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