不器用なあなたからの、最期のありがとう

たかなつぐ

第1話わたしと一緒にいてくれて、ありがとう

 『人生なんて、いつだってどん底だ』。

 彼がこの口癖を言うたび、わたしは「そんな事言わないでよ」と、自分より高い彼の背をパシリと叩きました。

 幼くして両親が死に、親戚中をたらい回しにされてきた彼にとって。人生とは、誰とも心を通わせられない寂しい時間なのかもしれない。それでもわたしは、彼に笑ってほしいと願ったのです。


 お見合いで結婚し、一緒に暮らし始めた当初。彼の言動の意味が分からず、わたしはいきなり戸惑いの日々を過ごしました。

 何が食べたいですか、と聞けば「なんでもいい」。どかたの仕事が終わる時間になってもなかなか帰ってこず、ようやく帰ってきたかと思えば酒に酔って顔が赤くなっている。どこに行ってきたのかと尋ねると「散歩」。

 こちらが親睦を深めようとしても、彼の方から避けているように見えました。でも問いただすには、まだ心の距離が遠すぎる。わたしは彼にも何か思うところがあるのだろうと、ひたすらに彼を観察し続けることにしました。


 日常生活に会話はほぼありませんでした。必要最低限「醤油を取って」だとか「着替えはどこだ」とか、そういうものばかり。ただ……幸いなことに彼は、表情に出やすいタイプだったわね。

 嬉しかったり、少しでも心が上向いた時は、左の眉がピクリと上がるの。

 わたしはそれを「眉毛アンテナ」と勝手に名付けて、メモ帳にアンテナの反応を書き記しました。


 一ヶ月もすれば、気づけばメモ帳は半分くらい埋まっていて、彼のことも少しずつ分かり始めてきたわ。

 まず、好物は白米。試しに水加減をあえて間違えてみたら、明らかに眉毛アンテナがしょぼくれて垂れさがっていたの。もちろん、彼にはアンテナのことは内緒よ。

 あと、夕食に肉料理を出すと喜んでいたわね。仕事前に「今日は豚の角煮ですよ」と言った夜は、珍しく酒を飲まずに帰ってきたんだから。

 「今日は、散歩はいいんですか」と訊けば「雨が降りそうだったから」と言って、いそいそと作業着を脱ぎ始める。窓の外を覗くのは辞めておいたわ。


 そんなこんなで、二人での生活が二ヶ月を過ぎた頃。土曜日の休日。朝の洗濯を終えて、お茶でも飲もうかと台所へ立っていると、彼が来てボソリとこう言ったの。

「……散歩、行かないか」。

 突然のことで、わたしはあんぐり口を開けてその場で固まったわ。すると彼は、わたしの方を見ながらフッと笑って「のどちんこ、見えてる」ですって。

 赤面するわたしに、彼はまたフフッと笑いながら「外で待ってる」と台所を出て行ってしまった。


 彼の生い立ちを聞いたのは、この日の散歩で一休みしたベンチでのことでした。

 何も言わないのに徐々に自分の好物を覚えていく嫁に対して、『こいつに隠し事はできない』と思ったらしいのね。

「妖怪悟りみたいだ」と言われたから、「そんなわけないでしょう」とむくれると、今度は「失敬、ふぐのお化けだったか」と茶化される。

 どうしようもなくなったわたしは、ついに吹き出して笑ってしまった。つられて彼も笑ってた。


 あなたが初めてクシャリと笑ったのを見て。……わたしはとても、満ち足りた気持ちだったのよ。

 

 ──昨日のように思い起こされる日々。しわしわになって細くなった旦那の手を握りながら、わたしは「あんなこともあったわね」、「こんなこともあったわね」と、意識も朧気な彼にずっと、何時間も語り続けました。

 時々、眉毛アンテナがピクリと反応する……気がするのは、わたしの目の錯覚かしら。

 最期は住み慣れた自宅がいいと、老いてから彼は度々言うようになりました。

 何か嫌なことがあるたびに言っていた「人生なんて、いつだってどん底だ」という諦めの言葉は、いつの間にか「お願いだ、俺より一日でいいから長く生きてくれ」という願いに変わっていったわね。

 「いいですよ」と、わたしは笑顔で応えました。

 彼は子供の頃から、たくさん寂しい想いをしてきたんですもの。だから最期くらい、独りになんてしたくないって。そう、思ったんです。

 子供には恵まれなかったけれど、わたしはあなたと一緒にいられて幸せです。

 もう聞こえないかもしれない彼の耳元で、わたしは何度も何度も囁いたの。

 ──わたしに、心を開いてくれてありがとう。わたしに、笑いかけてくれてありがとう。わたしと生きてくれて……

 不意に、彼の口元がもごもごと動くのが見えました。

「ありが……とう。幸せ、だったよ……」

 小さな、小さな声だったけど、わたしには確かに聞こえました。

 最後の力を振り絞って、彼はにこりと笑いかけてくれた。

 わたしも、彼の手を頬に当てて、視界がにじまないようにぐっとこらえながら

「こちらこそ。……ありがとう」

 体温がなくなるまで、わたしはずっと彼の手を握り続けていました。

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