forget me

 朝日があのまま、雨の中に出かけたまま、この部屋へ戻ってこなかったとしたら。闇に溶けるように、雨に溶けるように、忽然と姿を消してしまったのだとしたら。私は朝日を責めたんだろうか。


 ううん、たぶんそんなことはしない。


 朝になり、空っぽの隣をぼんやり眺めたあとで、長い夢から覚めたのだと、すべてを納得して受け入れたような顔で、自分の家に帰っただろう。自分がなぜ置いていかれたのかわからない様子の、黒猫を抱いて。


 だけど、心に小さなわだかまりは残るに違いない。

 そして、雨が降るたびに、私たちが出会った意味をいつまでも探して疑う。そんな迷路のような日々を重ねていったかもしれない。


 もし朝日が、ふとそれが気がかりになって、戻ることを選んだのだとしたら。


 朝日はやっぱり大馬鹿だ。


 レモン汁が目に跳ねたみたいに、朝の光がまぶたを割り込んで入ってきた時。目の前に聖なる母親のような寝顔があって、ほろっと全身がほどける感覚がした。

 そして、朝日のほうからいぶされたきな臭さが漂ってきて、出かけた理由を再確認する。


 あの夜、ベランダから人を撃った直後の朝日の身体からも、同じにおいがしていた。火薬のにおい。


 私は思う。

 昨夜、朝日に判断をくだされた「消さなければいけない人」は、いったいどんな罪に手を染めたのか。その人のせいで、いったいどれだけの人が泣いたのか。


 朝日に仕事を辞めてほしい気持ちは今も変わらない。でも、わからなくなった。


 そのターゲットを放置した場合、まだまだ犠牲者が、悲しんでしまう人が増えた可能性はある。殺し屋の彼女と、彼女を失った朝日のような人が他にも増えることは、全然喜ばしいことじゃない。


 だけど、朝日が命を奪ったその人にだって、この世から消えてしまうことで、悲しんでやり切れない想いをいだくことになる誰かが、きっといるのだ。


「撃っていい人間っているのかな」

 声など知らない彼女の言葉が、頭の中にこだまする。


「人を一人撃つたびに、僕の中の何かが一つ死んでいく」

 朝日の声も、こだまする。





*****


 まるでずっと昔からそうしていたみたいに、私は今朝も二人分のレタスを洗って千切り、ソーセージと卵を焼いた。その間に、朝日は食パンを二枚トーストして、インスタントのコーヒーを淹れる。


 レインにはペットフードの他に、食べ切れずに残ってしまったハムを刻んで添えてあげた。


 冷蔵庫には、まだ卵が使いかけで入っていたけど、朝日は電源を抜いた。

 小さな冷凍スペースから、あの赤銅色の箱が持ち出された時。あぁ、本当にもうここから出て行くんだなって、胸に北風が吹き抜けるような寂しさを感じた。


 それは冷たくて、驚くくらい乾いていて、胸の壁に触れるとヒリヒリした。


「結局、護身術だって教えてくれなかったじゃん」


 椅子に座ってすぐ、わざと不機嫌な口ぶりで言ってやった。

 夜に抜け出したことについては、気づかないフリをする。きっとそのほうがいい。


 朝日は眉を八の字にして、口元に困ったような笑みを浮かべた。必要なくなったじゃないかなんて、冗談にして笑うことは絶対にしない。


 こんなに優しい人だから、昨夜また一つ、朝日の中に空洞が増えてしまったに違いなくて、それを思うとやり切れなくなった。


 朝ごはんを食べ終えると、朝日は荷物をまとめ始めた。

 持っていくのは、ギターケース二つと、レインが入る籐のバスケットだけ。だから、出て行く準備はあっという間に終わった。


 着替えもバスタオルも、食器も家電も、単身用の小さなテーブルと椅子も、くたくたのリラクシングチェアも、雪模様のカーテンも。みんな置いていって、大家さんに処分してもらうらしい。


 私は床をホウキで掃いてゴミを取り、最後に室内をぐるりと見渡す。


 最初に見た時は、なんて殺風景な部屋だろうと思ったのに、いつのまにか生活臭でパンパンに満たされている。

 朝日とレインと私。三人がここで暮らした間に吐き出された息が、柔らかく温かいいくつもの塊になって、ぎゅうぎゅうにひしめき合っているように感じられた。


 それは、息苦しいくらいに。


 朝日が、大家さんのところに挨拶と、鍵を返すために行くというので、私はアパートの玄関で待つことにした。

 本当は、許される時間の目一杯まで一緒にいたかったけど、大家さんからあんな忠告をされたあとだ。くっついていないほうがいい。


 朝日が玄関まで降りてくると、すぐに駆け寄って、彼の手からバスケットを奪い取る。レインが解放されたそうに、籐の網目の隙間から尖った爪をはみ出させていた。


「このあと、どこへ向かうの?」


 朝日が目をしばたたいたから、私は強気な笑顔を見せる。


「ついてくる気だとは思わなかった? ぎりぎりのところまで行くよ」

「……お葬式は?」

「週末だってさ。まだ二日先だよ。大丈夫」


 私は身内のお葬式も、知り合いのお葬式も出たことがない。喪主になるのなんてもちろん初めてのことで、当日までに何をしたらいいのかさっぱりだ。

 でも、パパの会社に丸投げでいいみたいだし、その担当をしてくれる人が、今のところ連絡を寄越してきていない。少しくらい外出したって平気だろう。


 二つの大きな楽器ケースをいっぺんに右肩に背負っていた朝日は、荷物が減ったことで、それらを左右の肩に一つずつ掛け直した。小さく溜息をつくと、観念したような笑みを見せた。


「とりあえず大通りへ出ようと思う」

「そんな荷物を持ってるのに、歩いて?」

「だからだよ。レインを連れてもいるからね。バスや電車だと嫌がる人がいるかもしれないし、そこでタクシーを拾おうかと」


 ついてくるなとは言わない。

 だから、私は嬉しさを顔に塗り広げて、ぎゅっとバスケットを抱き締めた。

 つい口から、せめてどちらの方角へ向かうのか教えて、なんて言葉が出てきてしまいそうだったけど、それはぐっと堪えた。


 どうせ訊いたって意味がない。

 私もここをすぐに出て行くんだし、朝日だって、一箇所にじっと動かないでいるわけじゃない。


 訊いたとしても、朝日は答えないだろう。

 別れたあとは、朝日に関することは一切忘れる。そういう約束だったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る