rain man

「彼女のその言葉が、なぜか頭を離れなくて。わずかに迷いが生じた僕は、仕事でミスを犯した。その時、仕留め損ねたターゲットが、彼女を襲った」

「えっ……?」

「報復のためだ。誰でもよかったんだと思う。彼女は運が悪かったとしか言いようがない」

「そんな」

「僕が施設を出たのは、その夜だ」


 朝日は目を閉じた。睫毛の先が細かく震えているのが、暗闇の中でもよくわかる。そうかと思うと、薄い唇の両端が震えながら緩やかに上がった。


「施設を出た僕は真っ先に、彼女を襲った人間を始末した。僕にはね、彼女の疑問の答えがわかったんだよ。この世の中に、消し去っていい人間はいる。消さなければいけない人間はいるんだ」

「朝日……」

「そういった人間たちを消すことこそが、僕のやるべきことだ」


 朝日の話は断片的で、想像で埋めるしかない部分がたくさんあるけれど、たぶん、そのターゲットも真っ当な世界に生きている人ではないんだろう。


 そうじゃなかったら、プロの殺し屋に辿り着くことなんて無理だろうし、実際に人を手にかけることは、やろうと思っても、普通の世界に生きている人間にはなかなか難しい。


 そして、もう一つわかったことがある。


「朝日……」


 朝日はゆっくりと睫毛を持ち上げた。真っ黒な瞳孔の奥で、ゆらゆらと青い悲しみが燃えている。今まで見たことのない瞳の色。


「朝日は……彼女のことが好きだったの?」


 その問いかけに、朝日はうっすらと唇を開いて、白い前歯を覗かせた。


 質問の内容が思いもよらなくて驚いていると言うよりは、今まで自覚していなかった気持ちを、その言葉で気づかされたような表情。自分の中に、そんな感情があったことがにわかに信じられず、茫然としているようにも見える。


「そうなんだね……」


 朝日は彼女を愛していた。


 自分で殺人マシーンだと揶揄するくらい、朝日の心は昔、本当に無異質で機械そのものだった。そこに人間らしい感情を息づかせたのは、その彼女だったんだ。

 もしかしたら、彼女のほうでも、自身の内面に湧き出した疑問を素直にさらけ出せるくらい、朝日は特別な存在だったのかもしれない。


 だけど、その彼女はこの世からいなくなってしまった。他の誰でもない、朝日自身が犯したミスによって、二人の時間は永遠に閉じられてしまったんだ。


 皮肉にも、朝日は人間の心を取り戻していた。機械のままだったら、きっと何も感じずにいられたのに。


 朝日は温もりを通わせ合う存在を失い、大海原をオールもなく漂うボートのように孤独になってしまった。湧き水のようにとめどなく吹き出してくる、寂しさと怒りの出所さえわからず、ほとんど衝動的に組織を抜け出し、彼女を襲った相手を撃ったのかもしれない。


 復讐を遂げてからも、行き場のない想いを抱えてさまよい続け、それはやがてくすぶり、憎しみという大きな炎に変わった。

 その炎が消えるまでは、朝日は仕事を辞めないんだろう。


 だけど、そんなの何の解決にもならない。朝日が出した答えが彼を癒やしてくれる日は、きっと一生訪れない。そして、それを朝日自身もよくわかっている。だから、トリガーを引きながら涙を流すんだ。


 朝日が撃ち抜いているのは、いつでも自分自身。そのたびに死んでいくのは、彼女と一緒に笑い、生きていたあの日の朝日の心。


 彼が時折、泣いているような笑みを見せる理由が、やっとわかった。


 胸が痛い。痛くてたまらない。

 この痛みがいったい何て言う感情から湧いてくるものなのか、私こそ解き明かせないし、どうしたら治まるのかもまったくわからない。


 朝日は微笑んだ。それはこれまで彼が見せたことのない、やたらといびつな笑みだった。


「……愛されたことがない君に、わかるの?」


 朝日らしくない嫌味。だけど、あまりに痛々しいから、傷ついたり腹が立ったりまでに至らない。


「……愛されたことがないから、わかるのかもしれないよ」


 朝日は黙った。

 唇はかっちりと閉じられて、永遠に開かないような頑なさがある。

 おそらく朝日はこれ以上、この話題について語らないし、今後触れようともしないだろう。


 私は黒い猫の狭い額に目を落とす。そこだけ、宇宙から切り取られたみたいに漆黒だ。

 重苦しい沈黙が嫌で、限られた時間なのに、ただ無駄に流れてしまうのが悔しくて、別の話題を口にした。


「……あの男たち、なんで現れないんだろう」


 私に警察手帳のレプリカを見せて、自分たちは刑事だと名乗った、あの男たち。朝日を追ってきた、朝日と同じ殺し屋たち。

 彼らが朝日を諦めたとは思えない。どうして何の行動も起こしてこないのか。


「それはたぶん」


 朝日の声の温度は、いつもの穏やかな、羽毛のような温かさに戻っていて、私はほっとする。


「確証がないんじゃないかな。凛子の言ったことが嘘だとわかっても、本当に僕がここにいるのか、まだ自信がないんだと思う」

「でも……朝日が撃ったことがバレたって」


 朝日しか使っていないという、氷の弾丸。それが撃ち込まれた方角から、ここが導き出された。だから、あの男たちはこのアパートにやってきた。


「方角はわかっても、正確な部屋の位置まではわからないだろうからね。下手に突入して、もし違っていたら、確実に僕に返り討ちにされる。彼らはそれを恐れているんだ」

「じゃあ、今のうちにこっそり出て行けば安心だね」


 そんなセリフがこの口から出たことは、自分でも意外だった。

 だけどやっぱり、朝日が彼らに捕まるより、逃げおおせたほうがずっといい。私はもう二度と会えなくても、朝日たちがどこかで元気でいてくれれば、それで幸せだ。


「……うん。そうかもね」


 私はレインを見ていたから、朝日がどんな顔をしているのかは、わからなかった。


 睫毛をふせる。暗闇がうんと深くなる。

 鼻先を、レインの丸い背中にうずめる。年はまだ明けないのに、空気はキンと冷たいままなのに、そこからは春のにおいがした。明るくて、優しくて、ふわふわしている。


「……ねえ、朝日」


 そのまま喋ると、息がぶつかり柔らかい毛が上下して、鼻の頭が痒くなった。胸の痛みや不安はそのままだけど、眠気が襲ってきた。

 たくさん泣いたし、パパのこともあった。朝日の悲しい過去の話も聞いた。自分が思っている以上に、私は疲れていたんだろう。


「なに?」

「どうして、『RAINMAN』ていうの……?」


 朝日が教えてくれた、朝日のコードネーム。


「うん? それはね」


 朝日の落ち着いた息遣いが、額の上から降ってくる。一緒に、包み込まれるような温かさも降ってくる。

 もうこの世にはいない彼女に感謝したい気持ちになった。彼女がいなければ、朝日が持つこの温もりは、いまだに引き出されていなかったかもしれない。


「僕が仕事をする日には、必ず雨が降るからだよ」

「そうなんだ……雨男なんだね」

「そうらしいね」

「そういえば……初めてこの部屋にきた時も、雨だった」


 ベランダで会った朝日は、銃を構えていた。黒い涙を流しながら。


「……そうだね」


 私は身体を小さく丸めて、猫みたいに少しだけ全身を震わせた。


「……凛子」

「うん……?」

「ごめんね」

「何が……?」


「何でもないよ」


 私はいつしか眠りに落ちていた。朝日の静かな声を子守唄代わりにして。


 だけど、知っていた。

 私が眠ったあと、朝日が私とレインを起こさないようにそっと布団から出て、こっそり部屋を抜け出したことを。


 外は、いつからか霧雨が舞っていた。

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