chiffon cake
黒いロングコートに黒いブーツ。首に白いマフラーを巻き、黒い帽子をかぶった背の高い殺し屋は、あの日、私に微笑みかけた。
学校へ行かず、自宅のドアの前にしゃがんで、昼食代わりの安い菓子パンをむさぼっていた私に。
まるでシフォンケーキみたいな、ふわりとした優しい眼差しを持つ大人の男性には、それまで会ったことがなかった。
仕事をしているところを目撃した私は、日常的に父親から暴力を受ける孤独な子供で、始末することはたやすく出来たはず。
だけど、彼はそれをしなかった。
それどころか、一緒に時間を過ごしてほしいという願いを受け入れてくれて、ギターの音を聞かせてくれて、歌ってくれて、私の心の傷に寄り添ってくれた。
今まで観てきたどの映画の中のヒット・マンも、無慈悲で、冷酷で、残虐だったけど、彼は違った。
穏やかな笑顔で笑い、おかしいほど品行方正で、いじめられている動物は放っておけずに手を差しのべてしまう。そして、人を撃つ時には、ファインダーを覗きながら涙を流す。
純真で、傷つきやすい、心優しい殺し屋だった。
私たちはどうして出会ったんだろう。
出会いは必然である。そんな言葉を聞いたことがある。意味のない出会いなんてない。そんな言葉を誰かが言っていた気もする。
だけど、私たちは、出会ったことでお互いに何か変わったことがあるかと思い返せば、何も見当たらない。
私はあいかわらず不登校児で、孤独な子供だ。
朝日だって、私と出会ったからって殺し屋をやめない。
自分を暗殺者として育て、雇っていた施設を飛び出したって。そのために、かつての仲間から追われたって。「人を一人撃つたびに、自分の中の何かが一つ死んでいく」、そう嘆いたって。やめない。
それをやめることは、自分の「生き方」をやめることだから。自分を否定することだから。決してやめることはない。
その生き方そのものが、人として間違っていても。
何も変わらないけれど、私に限っては、刻み込まれたことは確かにある。
それは、私の心の奥深くにいつまでも残って、これからの人生の節目のたびに、何らかの影響をもたらす気がしている。
*****
制服というものは、どうしてこんなに動きづらいのか。学校を休み始めてから今までの間に、急に成長したわけでもないのに、やたらと窮屈だ。
私はそれをさっさと脱ぎ捨てると、いつもの格好に戻った。ニットのパーカーと、男の子みたいなシルエットのジーンズっていう出で立ちに。これは、朝日が買ってくれたものだ。
一緒にお店に入った時に、せっかく服を新調するのだから、違うデザインのものを選べばいいのにって言われたけれど。確かにそうかなって思いかけたけれど。結局は、いつもと似たようなデザインの、同じ色味のものに決めてしまった。
こういう格好がいちばん自分らしいとわかっているのだ。
腕や足を通すと、ようやく呼吸を取り戻せたような気分がした。
制服をハンガーにかけて、自分の家の居間に吊り下げる。
鼻を寄せると、ぷんと消毒臭い。またすぐに使うのだからと、スプレー式の消臭剤を吹きかけた。
お昼ごはんを食べていないと朝日が白状したので、早めに夕食の準備に取りかかることにした。
じゃがいもを切って炒めて、鶏肉も炒める。塩コショウを振る前の鶏肉を少しだけ別に取り分けて、冷ましておく。レインにあげる分だ。
調理中、朝日はキッチンに近づかない。代わりに、レインがしょっちゅう様子を窺いにきた。ラザニアの時もそうだ。朝日は料理なんてしないから、お肉や野菜の焼けるにおいは、レインにとって珍しいものなのかもしれない。
ご飯を作る。私には、こんなことくらいしかできない。それも、今夜が最後だ。
朝が弱い私は、早い時間からシャキッと起きて、しっかりとした朝食を作ってあげることは無理だし、夕飯まで待つことなく、朝日はレインを連れてここから出て行くんだろうから。そんな気がする。
だから、この食事で、かりそめの時間は終わり。
寂しいし、本当は泣いてすがりたい。
でも、そんなことをしたら、朝日に迷惑をかけることになる。それは嫌だ。それに、朝日は約束をちゃんと守ってくれたのに、私が破ってしまうことになる。
心を込めて作ろう。
朝日にも、レインにも。お腹いっぱいになったなって、美味しかったなって。どうかそういう幸せな気持ちで、心を満杯にしてあげられますように。
わたしが作った熱々のチキンポットパイを、朝日は嬉しそうに食べた。「美味しいね」って何度も言ってくれた。
そのたび私は照れ臭くてしかたなくて、ありがとうなんて一度も返せなかった。
レインも懸命に頬張っていた。
私の膝の上に乗って、テーブルの上のお皿に置かれた鶏肉のソテーと、朝日から分けてもらったパイのカケラを、ばくばくと口に入れていた。
レインのその身体の重みが幸せだった。咀嚼するたびに伝わってくる、かすかな振動が幸せだった。時々、ここに私がいることを確認するみたいに、振り返って見上げてくる、金色の大きな瞳が幸せだった。
次々にスプーンを口に運ぶ、朝日のしぐさを見ているのも幸せだった。目が合うと、微笑み返してくれるのが幸せだった。
パパのことを、朝日は何も訊かない。
ただ当たり前のように、この空間に私を受け入れてくれて、排除されないことが、とても幸せだった。
目尻を下げて、朝日が言った。
「今夜も一緒に眠ろうか。凛子が、もし嫌じゃなければだけれど」
「朝日は……嫌じゃないの?」
「僕は知らなかったから。誰かと眠ることが、あんなに落ち着くことだなんて」
初めてこの家で眠った時、リラクシングチェアから漂う朝日の香りに安心して、すごく深く眠れた私がいた。そんな感覚を、朝日も感じていたと思っていいのだろうか。私と一緒に眠った夜に。
「うん。でも、パパを迎えないとならないから。その時には、大家さんにも知らせないとならないし」
「わかった。じゃあ、すべてが終わったらだね」
私からはたぶん、二人と別れることへの寂しさが滲み出てしまっている。それを気遣ってくれる朝日の優しさが、幸せで、切なかった。
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