escape

 レインが見上げる。私はハッとして瞬きをした。


 座っている朝日の顔は、私の目の位置からだと見下ろす形になる。

 整えているわけでもないだろうに、規則正しくきれいに生え揃った睫毛。その影になっているせいで、瞳は星空みたいに見える。それが一瞬消えて、また鮮明に現れた。


「もう……五年前になる。僕は組織から逃げ出した」

「逃げ出した……?」


 朝日は軽く頷く。私が理由を尋ねるより先に、言葉を繋いだ。


「だから、僕は組織の指示でここにきているわけじゃないんだ。組織と今の僕はもう……無関係だから」


 無関係なのに、人を傷つける仕事を続けているの、と問いかけようとして、すぐに思い直す。

 朝日は、そうやってお金を稼ぐ方法しか知らないんだった。

 私が、殴られながらもパパのもとで生活するしかないのと同じ。生きていくためにしかたがないんだ。


「ただ、そう思っているのは、僕のほうだけだったってことだ」

「それって……」

「逃げ出した僕を、組織は許さないってこと。でも、それはそうだ。だから、あの男たちは刑事なんかじゃない。僕を連れ帰ろうとしている、組織の人間」


 朝日はすぐそばで喋っているのに、その言葉はなんだかやけに遠く聞こえた。


「僕の同僚だ」

「待って」


 ネジとネジ穴が重なる寸前に、わずかないびつが見つかって跳ね飛ばされるような、そんな感覚だった。腑に落ちないことはたくさんある。


「同僚なら……なんでその人たちは朝日の顔を知らないの? なんでパパを連れて行ったの?」


 朝日はこちらを見ない。あいかわらず足元のライフルに視線を落としたままで、少しだけ口角を引き上げた。何がおかしいのかわからない。


「……知らないわけじゃない。提示する写真が手元にないだけなんだ。組織を抜け出す時に、僕が自分に関する一切のデータを削除していったから」

「え?」

「そうなるとね、人捜しって意外と厄介なんだよ。自分たちは尋ね人の顔を知っていたって、その人物の画像がなければ、尋ねられたほうはどうしようもない」


 そうかもしれない、と思う。

 迷い猫や迷い犬を捜していますって、情報をくださいって、悲痛な顔の飼い主に言われたとして、力になりたくても、そのペットの画像がなければ難しい。


「僕が幼少期を暮らした施設にだって、僕のデータは何もないんだ。写真も資料も、あえて残していない。子供たちの意思じゃない。あそこの子供たちは、言わば殺し屋の雛。施設側が、表の人間に存在を知られないようにしていたことが、逆に仇になった」

「でも……データって復元できないの?」


 私が気になっていたことを訊くと、その質問を前もって予測していたみたいに、朝日は滑らかに答えた。


「できるけど、時間はかかるだろうね。実際、まだ復元できていない。あの建物のコンピュータのセキュリティは、様々な不足の事態に備えて、ものすごく強固になっているんだ。一度壊されてしまうと復元がなかなか難しい。手間取っている間に、彼らの手の届かない遠くへ逃げることが、僕にはできる」

「手の届かない、遠くへ……」

「僕は万が一の可能性も考えて、外に出る時は常に帽子を被っている。歌う時だって、大きな鍔でほとんど顔を隠しているし、あらかじめ写真は遠慮してくれってお願いもしている」


 私は、外出する時の朝日の出で立ちを思い返す。あの悪魔みたいな黒ずくめの格好に、そこまで深い意味があるなんて夢にも思わなかった。


 冷静な判断と、徹底した強い意思。目の前にある横顔には、確かに殺し屋の片鱗が浮き上がっていた。

 それでも恐ろしいと思えない私は、きっともうずいぶん前から、復元不可能なくらいに壊れてしまっているんだろう。


「凛子のお父さんを連れて行ったのは、どんな小さな情報でもいいから、知っている可能性があるなら吐き出させようって魂胆だと思う。それくらい、向こうも切羽詰まっているって証拠だ。でも、安心していい。彼らだって事を大きくしたくないはず。本当に何も知らないんだってことがわかれば、きっとすぐに解放される」


 私は首をぶんぶん振った。そんなことはどうでもいい。


「でも……あの人たち、ここを見つけた」

「うん」


 朝日は少しも慌てない。焦りもせず、怖がりもしない。それも予測済みってことなのだろうか。


「いろいろなところと繋がりのある組織だからね。警察もその一つなんだ」

「え!?」


 それは大問題じゃないのかって私のほうが焦る。


「たぶん、昨晩の事件の情報を貰ったんじゃないかな。撃ち込まれた弾丸の状態を聞いたんだろう。痕跡が残らない氷の弾を使う殺し屋は、僕以外にいないから」


 愕然とした。部屋の中は暖房で暖まっているのに、身体がカタカタと震える。


 氷の弾丸は溶けてしまえば証拠が残らない。撃ってきた正確な方角さえわからなければ捕まらないって、朝日は言った。

 でも、それは素人相手の話。

 警察だって、違法な商売をする会社から派遣された殺し屋の存在を知らないなら、レベル的には一緒だって言える。


 だけど、同じ仕事をする人間ならわかる。そういうことだ。だから、このアパートが見つけ出されてしまったんだ。


 パパはすぐに解放されるなんて、朝日は呑気なことを言っている場合じゃない。パパのことなんて、私の生活のことなんてどうだっていい。どうなったっていい。

 パパが解放されるってことは、私の嘘がバレるってこと。そしたらあの男たちは、またここにくる。今度こそ朝日を捕まえるために。


「……捕まったら、どうなるの?」


 声が震えた。

 朝日はやっぱり、それが何てことのないことのように、当然だとばかりに言った。


「……処分されるだろうね。自分で言うのも何だけど、僕は有能な殺し屋で、だからこそ組織にとっては脅威でしかない」

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