trench coat

 結局、朝日が戻ってきたのは、それからさらに一時間近く過ぎた頃だった。


 インターホンを鳴らされても、私は出迎えに行かなかった。リラクシングチェアの上に仰向けに横たわり、じっと動かずにいた。

 お腹の上にはレインが丸まって寝ていたけれど、動けなかったのは、それだけが理由じゃない。


 怖かった。

 さっきの男性たちが戻ってきたのだったら、そう考えると手が震えた。ドアを開けることどころか、ドアに近づくことすら躊躇した。


 玄関の鍵はかけていない。

 その理由は二つ。

 一つはいつもの癖。二つ目は、他人の家だから。

 常識的に考えたら、鍵は常にかけておくものなのだろうけど、稀にパパみたいな人間もいる。例え閉め出したって朝日は怒らないと思うけれど、確認したわけじゃない。勝手なことをするのがはばかられた。


 だから、ドアの外にいるのが朝日なら、自由に入ってこられる。


 来訪者の男性は、二人とも中年だった。そして、二人ともスーツ姿。


「こんにちは」


 挨拶してきたのは、黒い髪をきっちりと整髪料で固めた男性のほう。濃いグレーのスーツに、ダークグリーンのウールコートを羽織っていた。

 その後ろには、ネイビーのスーツにベージュのトレンチコートを着た男性が立っていた。目がやたらと精悍で冷たい印象。

 突然やってきた彼らのどちらにも、見覚えがなかった。


「……こんにちは」


 新聞の集金といった感じではないし、宗教の勧誘とも雰囲気が違う。この出で立ちで宅配やデリバリーでもないだろうし。


 友達。そんなワードが頭に浮かぶ。

 殺し屋に友達なんているのだろうか。そんなことを考えていた。


「ここは、お嬢さんの家?」


 どこもほぼ変わらないアパートの一室の外観を眺めて、トレンチコートの男性が尋ねてきた。言い方はフランクだけど、目つき同様に冷ややかで固い。


「……そうだけど」


 嘘をついたのはとっさのことだったけど、あとから考えるとよかった。

 学校に行っているはずの時間に、女の子が他人の家に上がり込んでいるのは、ないこともないかもしれないけど、あんまり自然じゃない。表札が出ていないのも、幸いだった。


「今日は、平日だよね。学校は?」

「流行りの不登校ってやつですけど。何か?」


 上目遣いで言うと、トレンチコートは鼻だけで笑った。朝日みたいに、肝の据わった女の子だ、とでも思ったのだろうか。

 手前の男性が腰をひねり、トレンチコートの耳元に小声でささやく。


「違うんですかね」


 トレンチコートは顎を引いて、それから、私の背後を覗き込むようにした。


「おうちの人は? お父さんとか、お母さんとか」

「今日は平日でしょ? 普通はこの時間、仕事に行ってて家にはいないと思うけど」


 いるって答えたほうがよかったかもしれない。言ってしまってから、そう後悔したけど後の祭りだ。


「そうだったね」


 トレンチコートはそこで初めて頬をゆるめ、一つ咳をした。


「いい匂いだね」


 姿勢を柔らかく変えてきた。

 これはあんまり良い兆候じゃない。彼らが何者なのかわからないけど、悪いことを企む人間は、まずは相手に取り入るものなのだ。

 焦る気持ちが表に出てこないように努めて、私は追い払いにかかる。


「お昼ごはんの時間だから。用がないならいいですか。お腹空いたので」

「ああ、申し訳ない。ちょっと話を聞かせてもらいたくてね。すぐに済むよ。お嬢さん、この付近で怪しい人なんて見なかったかい?」

「その前に、自分たちが誰なのか、名乗るべきだと思うけど」


 思わず本音が漏れると、トレンチコートは面食らったように目を丸くした。すぐに冷徹な表情に戻り、その目の奥が光ったように思えたから、どきりとする。


「そうだね。これは失礼をした。私たちはこういう者だよ」


 トレンチコートが内ポケットに手を突っ込む。前の男性もシンクロするみたいにして、同じ仕草をした。

 二人が同時に出してきたものには、見覚えがあった。

 黒い手帳。顔写真と金色の桜。警察手帳だ。

 もちろん、本物なんて見たことない。映画の中で、警察官や刑事が印籠のように差し出すのを見たことがあるだけだ。


 つまり、この人たちは刑事だ。

 朝日のことを捕まえにきたの?


 血液が逆流するのを感じた。全身が熱くなって、動悸が激しくなる。でも、それをこの人たちに悟られてはいけない。


 二人の刑事は手帳を素早くポケットにしまうと、また同じ質問をしてきた。


「この辺で怪しい人物とか、見なかったかな」


 彼らは刑事で、不審な人物を捜しているってだけで、昨夜の事件のことを調べているとは限らない。落ち着かなければ。

 私はぎこちなく首を振った。「あ、でも」と言い改める。


「怪しいって言えば、隣の……おじさんかな。男の独り暮らしみたいだし、しょっちゅう大きな音とか聞こえてくるし」


 そう言って、我が家のほうを指さした。刑事たちは揃って、首を曲げてそちらを窺う。


「最近、引っ越してきたみたい」


 朝日から見た我が家の状況と、私が知っている朝日の情報を、ごちゃ混ぜにして教えた。


 余計なことかとも思ったけれど、もし彼らが朝日が起こした事件について嗅ぎ回っているなら、少しは時間稼ぎになる。

 それに、パパがちょっとくらい痛い目に遭ったらいいなと願う気持ちが、少なからずあった。


 ただ、刑事たちだってバカじゃない。調べればすぐに、それが事実と違うってわかってしまうだろう。

 でも、とりあえず朝日に報告するだけの時間さえ稼げれば。あとはきっと、朝日が何とかしてくれる。


「そのお隣さんも、今は仕事中なんだろうね」

「たぶん」

「夕方には戻ってくるのかな?」

「知らない。隣の家のことなんて、いちいち気にしてないし」


 トレンチコートの刑事は、じっと強い目でわたしを見てきた。

 蛇に睨まれた蛙のように、私は微動だにできなくなる。嘘をついているって、バレたのだろうか。バレるような何かヘマをしただろうか。知らず知らずのうちに目を伏せていた。

 私は不安を払拭するように、逆に質問してみた。


「何かあったんですか?」

「……いえ。知らないのなら、いいのです。貴重な情報をありがとう」


 その言葉を最後に、二人の刑事は去った。

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