rainy star

 パパは私と違ってテレビが好きだ。ごはんを食べる時には、必ずテレビを観ながら食べる。特に好きな番組はバラエティーで、ガチャガチャと騒々しいだけで私はぜんぜん面白いと思えない。一定のリズムを崩さない、ニュース番組のほうがまだマシだ。


 晩ごはんを食べている私たちのそばで、胸の大きな女性アイドルが衣装のまま小麦粉のプールの中に入り、名前も知らないお笑い芸人と相撲を取っている。パパは大笑いしながら、それを指さして上機嫌だ。


 ふと、ベランダのほうへ視線を向けた。隣人が弾くギターの音色が聞こえた気がして。

 窓のガラスが真っ黒い夜を映している。窓はわずかに開いていて、一度も洗濯したことのない薄汚れたレースのカーテンが、返事をするみたいに揺れた。


 食卓に向き直ると、パパが氷のような目で私を見ていた。


 あ、と思った時にはもう遅く、パパは熱々のシチューをお椀ごと私に投げつけてきた。痛いと熱いが同時に額を襲って、私は悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。


「しけた面してるんじゃねぇよ! 俺がこんなに楽しい気分だっていうのに!」


 パパは怒鳴りながら、ザッと椅子から立ち上がった。


 シチューをぬぐっている暇も、火傷が痛いと泣いている暇もない。逃げなければ。

 パパはテーブルを乗り越え、はずみで落ちた食器がガラガラ、ガシャンと騒ぎ立てる。私はまた背中を向けてしまい、パパが後頭部の髪を乱暴に掴みかけたのを、頭をぶんぶん振って蹴散らした。


「気づいてるんだぞ、カーペットがまだ汚れているんだよ! バカな上に掃除もまともに出来ねぇのか、お前は! 次は容赦しないって言ったよなぁ!」


 ほとんど這うようにして、私は窓ガラスに近づいた。カーテンをひるがえして、隙間に指を差し込んだ。無我夢中。こんな時の私はいつでも無我夢中だ。考えている余裕なんてない。


「待ちやがれ! てめぇ!」


 ベランダに出ると、隣の部屋との境まで四つん這いで行って、エアコンの室外機の影に身をひそめた。私は痩せていてちびっこいから、大した大きい物じゃなくても、その影にわりとすんなり隠れられる。自分のことを初めて幸運だと思った。


 室外機は掃除をしていなくてカビ臭いけど、我慢できないほどじゃなかった。それよりも、前髪から滴るホワイトシチューの匂いのほうが気になってしかたなかった。

 だけど、こんなところに隠れたって一時しのぎだ。遅かれ早かれ見つかってしまう。引きずり出されて、またパパの気が済むまで殴られるに違いない。


 ところが、パパは追いかけてこなかった。

 ピシャンと窓が閉め切られる音がして、施錠の音が聞こえた。そっと室外機の角から顔を覗かせると、ちょうどカーテンが引かれるところだった。


 パパは私を見ていて、その瞳には驚くくらい色が無かった。


 どのくらい経ったのだろう。

 ほおっと息を吐く。折り曲げて抱えた両方の膝の丸い部分が、一時いっときだけ白く染まった。空気は湿ったにおいを漂わせ始めている。きっと、もうすぐ雨が降るのだ。


 私は一年のうちのほとんどを、キャミソールにパーカーにジーンズ、それに裸足っていう格好で過ごす。そのくらいしか服を持っていないせいもあるけど、あんまり外に出ないから、それで事足りてしまうのだ。でも、このまま夜通し冬の室外にいたら、雨に濡れたら、間違いなく凍えてしまう。


 パパはそうなってもいいって思ったってことだ。


 でも、凍死なら眠るように意識を手放せると聞いたことがある。眠ったまま命のが消えて、私は星になる。それもいい。それでいい。


 今夜の空みたいな、重く垂れ込めた雲の上に隠れた星になって、誰からも焦がれられたい。

 じんじんとうずくのは、熱いシチューを被った額だけだ。


 私はいつのまにか眠ってしまっていたらしい。でも、目覚めた。

 それは、雨が近くの家の屋根を叩く音のせいだったのか。それとも、どこかの部屋の窓が開かれる際にレールが響かせた、カラカラという乾いた音のせいだったのか。その両方かもしれない。


 辺りはすっかり漆黒の闇が降りていて、遠くの黄色い信号機がチカチカとまたたいているのが、雨にけぶって見えた。


 寒い。私はカチカチと歯を鳴らしながら、隣のベランダのほうを見た。音がそちらから聴こえた気がした。


 何事もなければ、布団の中にいるはずの時間。こんなところに隠れていなければ、パパに部屋を閉め出されなければ、絶対にそれを見つけられなかっただろう。


 一瞬、星かと思った。


 闇の中にきらめく、夜空からはぐれてしまった、たった一つの緋色の星。


 それは、窓からにゅっと突き出されるようにして現れた。

 星じゃない。長い銃身に取りつけられた赤いライトの、人工的な光だということに気づいたのは、しばらく時間が経ってからだ。


 そう、それは銃だった。


 国同士の争いの中、それに似たものを肩にかついで遠くの相手を狙い撃つ兵士を、いつだったかテレビの画面越しに見たことがあった。


 その先端が燃えて火花が放たれる。

 発砲されたのだ。でも、何も音がしなかった。銃声とは、お腹の底に響くような、鼓膜を破るような凄い音がするものと想像していたのに。ただ、その瞬間は耳の奥がキンと詰まった感じになった。


 怖いとは思わなかった。胸がドキドキしていた。身体はカタカタと震えていたけど、それは興奮していたせいが大きかった。


 頭の中が空っぽだった。まるで私が撃ち抜かれたみたい。


 何を思うでもなく、私は身を乗り出していた。膝からほどけた左手が室外機に当たって、かすかな音を立てた。銃を構えていた人物ははっとこちらを向いた。


 赤い光が照明となって、ほんのりとその人の顔を照らしていた。柔らかな、とても柔らかな眼差しをしていた。私はその眼差しを知っている。見たばかりだ。


 隣人は銃を夜空の彼方に向けたまま、なぜなのか涙を流していた。

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