storm

 が始まるのは、いつでも唐突だ。

 前触れがなくて、まるで直下型の地震のようだと思う。


 真夏の夕立が来る直前、じわじわと空に広がる黒い雲のように、何か巨大な飛行物体が空を覆い尽くしたのかと、どきっとして見上げてしまうほど、わかりやすければいい。怪しいと感じたら、来るぞとわかったら、小柄な私はきっとすばしっこく身を隠せるのに。から少しでも遠くへ逃げられるのに。


「このクソガキがあ!」


 アルミ製の灰皿が投げ飛ばされて、黒くて苦くてベタベタした汁と吸い殻が、色褪せたカーペットの上に散らばる。バッファローのように荒々しい足がテーブルを蹴飛ばすと、雷鳴のような音を立てて引っくり返った。


 今回は夕飯を食べ終えた直後だった。

 理由はまったくわからない。


 もう何度も経験していることなのに、そのたび私はひるんでしまう。恐怖で身体がコンクリートのように固まってしまう。


 それでも、私の中の防衛本能がなんとか私を奮い立たせ、震える足で立ち上がった。


 逃げろ、逃げろ。耳のすぐ近くで、誰かの声と自分の心臓の音が交互に聞こえる。

 でも、学習能力のない私はうっかり背中を向けてしまい、後ろから髪を鷲掴みにされる。ブチブチと根元から髪を引っこ抜かれる音が、頭の中にダイレクトに響いた。あまりの痛みに涙がこぼれる。


「――――痛い! お願い、やめてパパ!」


 だけど、パパは手を緩めてくれるどころか、もう片方の手も伸ばしてきた。私の細い腕を掴んで身体を吊し上げるから、パパの手の爪が鋭い猛禽類の爪みたいに肌に食い込んだ。


 かかとが浮かび上がる。脇腹の皮膚が引きちぎれそうなくらい伸び切る。


 天井に向かって広げた手のひらがビリビリと痺れてきた頃、パパはようやく髪の毛から手を放し、そうかと思うと、その手をグーにして、わたしの腰の軟弱なところを思いきり殴ってきた。


 目の前が白くなり、息が止まる。

 すぐに酸っぱい胃液が喉をせり上がってきて、吐いたらもっと殴られると、ぐっと堪えた。


「いつも言ってんだろうが! 舐めた目で見るんじゃねぇよ! 俺はな、お前のその目がでぇきれぇなんだよ!」


 舐めた目で見た覚えなんてない。でも、反抗しても無駄だ。反抗したら、死ぬほど殴られるだけ。一発で死んでしまえるならいいけど、怒り出したパパはそんなふうに私を楽にしない。ひたすら苦しむ時間が待っている。


 パパがようやく解放してくれたので、私は激しく咳き込みながらカーペットに倒れ伏した。その頭を汚い靴下で踏みつけられる。

 頬をくっつけたすぐそばに、つんと苦々しい黒いシミが出来ていた。私の中に、それと同じ色をした醜いものが、音もなく広がっていくのを感じた。


「またあんな目で見やがったら、次は容赦しねぇからな」


 髪の毛にニコチン混じりの唾を吐きかけて、パパは部屋を出て行った。





*****


 浴槽にお湯を溜める。

 白く柔らかい湯気を立てながら、蛇口からお湯がまっすぐに落ちていくのを、じっと見下ろしていた。

 天使の滝。そんな名前の滝があったような気がする。どこにあって、どんな流れなのかまるで知らないけれど、きっとその名前の通りに美しいんだろう。


 パパはたぶんお酒を飲みに行ったのだ。そうなると、すぐには帰ってこない。早くても真夜中だ。だから、今のうちにカーペットをきれいにしておく。汚したのはパパだけど、汚れたままなのを見つけたら、怒られるのは私だから。それが終わったら、温かいお風呂に入ろう。


 玄関の鍵はかけない。

 パパは家を出る時、いつも合鍵を持たないし、戻ってきて閉まっているとわかったら、間違いなくカンカンだ。冗談じゃなく、今度こそ殺されてしまう。


 私が殺されたら、大家さんくらいは悲しんでくれるだろうか。

 スーパーから帰ったら、その足で、何かしらお土産を届けてくれる大家さん。私と変わらない年頃の孫がいるという大家さんくらいは、不憫な子だったよと、泣いてくれるだろうか。


 私はふと素敵なことを思いついて、台所へ行った。

 包丁とまな板を出して、戸棚の中に裸のまま転がしておいたリンゴをその上に置いて、四等分にする。お風呂場に戻ると、それを浴槽の中にはなった。


 思った通り、とても爽やかでいい香りが立ちのぼった。


 ぽいぽいっと服を脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを入れる。

 古い洗濯機がごうんごうんと不穏な音を鳴らす中、赤い皮つきのリンゴがぷかぷかと浮かぶお湯に浸かると、少し楽しい気分になった。


 フルーツは身体を冷やすらしいけど、これはどうなのかなって思った。

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