公爵家の紋章
港街へ続く道を、カタコトと馬車が走っている。馬車には金色に縁取られた小麦の紋章が付いている。これはタルド家の紋章だ。タルド家は農業、特に小麦の生産が盛んなのでこの紋章になった。
この日、クリスティーヌはプロスペールと一緒にタルド領近くの港街へ向かっていた。必要物資を購入する為にだ。二人だけではなく、ファビエンヌと二人の護衛も連れている。
「クリスティーヌは街に出るのは久々だったね」
「ええ、お父様。お母様達もご一緒出来たらよかったのですが」
「確かにそうだな」
プロスペールはハハハと笑った。
この日、ミレイユは伯爵夫人主催のお茶会に招かれていたのでクリスティーヌ達とは別行動だ。
イポリートとアリーヌも、夫婦揃って子爵家当主が主催するサロンに出席している。
「ですが、久々の街は楽しみですわ」
クリスティーヌは心踊らせていた。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
港街は貿易拠点になっているので、外国の珍しい品々が数多く並んでいた。
(こちらは……アシルス帝国の品。そしてこちらは……アリティー王国の品ね。やはりナルフェックとは作りが少し違うわ)
クリスティーヌは店の品をじっくり見ていた。
「クリスティーヌお嬢様、旦那様が買い物を終わられたみたいですよ」
ファビエンヌの言葉でクリスティーヌは我に返る。
「あら、そうなのね。ではお店を出ましょうか」
クリスティーヌは手に取っていた品を戻し、プロスペールと合流した。
プロスペールからは、必要物資を買い終えたので街を自由に散策して良いと言われた。ただし、侍女のファビエンヌと護衛のドミニクが必ず近くにいるという条件でだ。クリスティーヌはファビエンヌとドミニクと共に早速本屋に入った。
「お嬢様、今回も領地経営、小麦の栽培関連、薬学関連の本を購入なさるのですか?」
「そうよ、ファビエンヌ。この前お母様から頂いた本はもう読み終えてしまったの。もちろん読み返すけれど、また新しい情報が出ているかもしれないわ。領地経営の知識は、嫁いだ先でもきっと役に立つわよ。それに、小麦の栽培に関しての知識はタルド家や領地の為になるわ。薬学は私の趣味だけれど」
クリスティーヌは最後、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ではお嬢様、お探しするのをお手伝いしましょう」
「ありがとう、ファビエンヌ」
その後、クリスティーヌはそれぞれの分野の本を数冊ずつ購入し、店を出た。
馬車を止めてある場所まで戻る途中、クリスティーヌはある光景を目にする。
「その、こちらの不注意でぶつかってしまったのは申し訳ない」
アッシュブロンドの髪にヘーゼルの目の少年が、いかにも柄の悪そうな輩三人組に対して謝っている。
「おいおい兄ちゃん、謝罪以外にねえのかよ?慰謝料として今すぐ金を渡すとかよお? ああ、
三人組のリーダー格の男はニヤニヤと嫌な感じの笑みを浮かべ、わざとらしく大袈裟に腕をさすっている。
「無理矢理にでもコイツが持ってる金目のもんを奪うか」
「こっちは何人も打ちのめしたことがあるんだぞ」
残り二人の男もニヤニヤと嫌な感じの笑みを浮かべている。
「……あれは放って置けないわ」
クリスティーヌは唇を噛み締めた。そしてすぐに近くの店を掃除していた少年に声をかける。
「その箒、少しの間でいいから
「え? ああ、はい。どうぞ」
「ありがとう」
戸惑っている掃除の少年から箒を受け取ると、クリスティーヌは輩達の方へ一目散に向かう。
「ちょっとお嬢様、どうなさるおつもりですか?」
ファビエンヌと護衛のドミニクもクリスティーヌの後を追う。
「さあ、お前ら、コイツを打ちのめすぞ!」
「暴力はやめていただきたいのだが」
輩三人組のリーダー格にそう言われ、少年はどうにかして宥めようとしていた。
「貴方達、一体何をしているの!?」
クリスティーヌは輩三人組に立ち向かう。
「何だあ?」
三人組がクリスティーヌの方に振り向いた。
「ケッ。女、しかもまだガキじゃねえか。帰んな帰んな。俺達はお嬢ちゃんの相手してる暇はねえんだよ」
完全にクリスティーヌのことを馬鹿にした態度だ。
その瞬間、クリスティーヌは華麗に舞い、箒を
クリスティーヌは二人の兄達と共に剣術も教わっていたのだ。しかも、剣術の師範も認める腕前なのだ。
上手い具合に急所である首の後ろを狙ったので、輩三人組は気絶した。
「大丈夫ですか? お怪我はございませんか?」
クリスティーヌは少年に問いかける。
少年はクリスティーヌより頭半分程背が高く、綺麗な顔立ちをしていた。
「あ、ああ。私は大丈夫だ」
少年は驚き戸惑っていた。
その時、リーダー格の男がゆっくりと立ち上がる。
「貴様、よくもやってくれたな」
男はクリスティーヌに殴りかかろうとした。
「危ない!」
少年はすぐさま立ち向かい、素手で男の拳を止める。そして男の腹部に強烈な蹴りを入れた。
その時、少年が着ているコートの裾が
クリスティーヌはそのコートの裏に刺繍された紋章を見て目を見開いた。
銀色に縁取られた青い薔薇の紋章だ。
王家の紋章は金色に縁取られた紫色の薔薇である。そして王家以外に家の紋章で薔薇を使用することが許されているのは公爵家のみだ。ナルフェック王国では公爵家は七家しか存在しない。よって紋章の薔薇の色でどこの家かはすぐ分かる。
(青い薔薇ということは、ヌムール公爵家のお方なのね。しかもお強い)
クリスティーヌは少年をまじまじと見ていた。
ちなみに、貴族の間では衣服や持ち物に家紋を刺繍しておくことは珍しいことではない。
「畜生!覚えてやがれ!おいお前ら!もう行くぞ!」
輩三人組は足早に立ち去った。
「良かった。お嬢さんに怪我はなさそうだね」
少年はクリスティーヌを見て安心したように微笑んだ。
クリスティーヌは少年に対し、カーテシーをした。
自分より高位の貴族に対しては、男性はボウ・アンド・スクレープ、女性はカーテシーをして、相手に話し掛けられてから話す。これが貴族のマナーだ。
少年はクリスティーヌの完璧なカーテシーに目を見開き、その後苦笑する。
「君はこの服装でも私が貴族と分かるのだね」
少年は平民風の服装だった。
「はい。コートの裏に刺繍してあった紋章が見えましたので。先程はありがとうございます。お手数おかけして申し訳ございません。タルド男爵家、次女のクリスティーヌと申します」
クリスティーヌは名乗ってから頭を上げた。
「初めまして、クリスティーヌ嬢。私はユーグ・ド・ヌムール。ヌムール公爵家長男だ」
ユーグは上品で優しげな笑みを浮かべている。
「私はこうして時々息抜きも兼ねて、平民の振りをして街に出向くんだ。まさか輩に絡まれるとは思わなかったけれどね」
ユーグは苦笑した。
「不躾ながらお聞きいたします。ユーグ様は先程軽々とあの方々を撃退なさっていました。なぜ最初からそうなさらなかったのです?」
クリスティーヌは疑問に思ったことを口にした。
「端的に言えば、ヌムール家の教育方針かな。暴力や権力といった力は極力振りかざすなというね。だけど、いざとなれば先程のように使うこともあるけれど」
「お手を煩わせてしまい申し訳ございません、重ね重ねお詫びいたします」
クリスティーヌは再び頭を下げた。落ち着いて品のある動作だ。
「クリスティーヌ嬢が気にすることはない。むしろ私の方こそお礼を言わないと。私を助けようとしてくれてありがとう、クリスティーヌ嬢」
ユーグは再び上品で優しげな笑みを浮かべた。
「そんな、とんでもないことでございます」
クリスティーヌは品のある控えめな笑みを浮かべた。
「……クリスティーヌ嬢、見たところ、君はまだ社交界デビューはしていないみたいだね」
「ええ。
「君の所作は先程の輩を倒した時も含めて洗練されていたから、二年後が楽しみだね」
「畏れ多いお言葉でございます」
クリスティーヌは品良く微笑んだ。
「クリスティーヌお嬢様!」
その時、ファビエンヌとドミニクが走って来た。本を抱えていたので動きにくそうだった。
「お嬢様、お怪我はございませんか?」
「ないわ。大丈夫よ、ファビエンヌ。勝手に走り出して申し訳ないわ」
心配そうなファビエンヌに対して、クリスティーヌは微笑みかける。
「お役に立てず申し訳ございません」
「ドミニクが気にすることないわ。
申し訳なさそうにするドミニクに対しても、クリスティーヌは優しげに微笑みかけた。
ユーグは微笑し、観察するようにクリスティーヌの様子を見ていた。
「お嬢様、そちらの方はどなたでしょう?」
「ヌムール公爵家のご長男でいらっしゃるユーグ様よ。ユーグ様、こちらは私の侍女のファビエンヌと護衛のドミニクでございます」
クリスティーヌはそれぞれを紹介した。
ユーグも改めて自己紹介したが、ファビエンヌとドミニクは公爵家など畏れ多いというような態度だった。
「クリスティーヌ嬢、君は随分と本を読むんだね」
クリスティーヌが購入した本を見てユーグは驚いていた。
「ええ。領地経営の知識はこの先嫁いだとしても必要ですし、小麦の栽培の知識はタルド家や領民の為になりますわ」
凛として品のある笑みを浮かべるクリスティーヌ。
「なるほど。では、こちらの本は?」
ユーグは薬学の本を指した。
「こちらは
またもや凛として品のある笑みのクリスティーヌだ。
「もちろん、医学も人の命を救うことが出来る素晴らしい学問でございます。ヌムール領は医療が発展していると存じ上げておりますわ」
ヌムール公爵家の領地は、農業には向いていないが医療に強い。それ
タルド領が小麦で成り立っているのだとしたら、ヌムール領は医療で成り立っている。
「クリスティーヌ嬢はそこまで知っているんだね。今、ヌムール領では薬学にも力を入れ始めているんだ。社交界デビュー前は難しいかもしれないけれど、薬学を学びたければヌムール領に来ると良いよ」
「ありがとうございます。是非、学びに参りたいと存じますわ」
クリスティーヌの笑みは、貴族令嬢としての気品を保ちつつ、嬉しさも滲み出ていた。
その笑みにユーグも嬉しくなっていた。
「では、そろそろ私は失礼するよ。クリスティーヌ嬢、今日は君に会えて良かったよ」
「こちらこそ。ユーグ様、本日はありがとうございました」
こうして、クリスティーヌはユーグは別れ、ファビエンヌとドミニクと共に馬車が止めてある場所へ戻るのであった。もちろん、借りた箒は掃除の少年にきちんと返した。
一方、ユーグは帰り道に今日のことを思い出していた。
「タルド男爵家のクリスティーヌ嬢……。上級貴族にも劣らない所作や礼儀作法と使用人への思いやり。そして自ら学ぶ姿勢。……とても興味深い」
ユーグは満足気な表情だった。
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