第2話 野良犬
「の、野良犬!こっちに来ないで!」
初めて聞いた彼女の第一声はそれだった。
「酷いじゃないか、2時間も一緒に散歩した仲だろ」そう思ったがよくよく考えてみれば俺は確かに野良犬だった。そもそも彼女が廃墟の屋上から落ちそうになったのも俺が原因であり俺は彼女にとっては恐怖の対象でしかなかった。そんな誤解を解くために俺は精一杯舌を突き出しちょこんと小さく縮こまって「ワン!」と吠えた。
「な、何?。餌でも欲しいっていうの?」
そう言う彼女の声色からだんだんと緊張がほぐれて行くのがわかったのでもう一度「ワン!」と吠えてみた。
すると彼女は恐る恐るこちらに近寄ってきたので俺はちぎれるんじゃないかって程の勢いで尻尾を振った。
「悪いけど、今何も持ってないの」
「きみなんだかすごく汚いし可哀想だから何かしてあげたいんだけど…」
「どうしよう…」
ここまでは順調のように思える。俺は相変わらず馬鹿な犬の振りをし続けた。
しばらく困った表情を浮かべながらこちらをじっと見つめて居ると急に決心のついたような表情になる『新しい宿確保!』俺は「ワン!」と叫んだ。
「ごめん!やっぱりうちでは飼えない!」
それを聞いた俺は「勝った!」そう思った。彼女の思考の中に飼う飼わないの二択が揺れて居る時点でその見込みは十分すぎるほどにあった。彼女はそう言って走り去ってしまったが俺は彼女の後を追いかけた。今度こそ正真正銘二人きりの散歩だ。
「ついてこないで」
彼女はこちらを見まいと必死になっていた。俺はそんな彼女に構うことなく必要以上に尻尾を揺らしながら時々「ワン!」と吠えながら後を追った。
しばらく歩いて1時間ほどが経過したのであろうか、どうやら彼女の家に到着したよう俺は疑問に思った。「歩いて1時間!?と言うことは彼女は1時間かけて学校に行ってるのか?」そう思ったが今は目の前に建っている建物の方にすぐに興味は移った。
『今日からここが俺の家か』
「悪いけどうちには入れないよ」彼女はそう言ってチラリとこちらを振り向いて家の中に入っていった。玄関の明かりが付き俺の濡れた鼻を照らした。玄関の奥に見える黒い影はそこに30秒ほど立ち止まった後、少し大きくなってガチャリと再びドアを開いた。
「今日だけだからね!」
『ちょろいもんだ!』
俺は近所の迷惑も考えず何回も吠えた。
「とりあえず君汚いからお風呂に入ろう」
『やった1ヶ月ぶりの風呂だ!』俺は彼女に抱き抱えられながら脱衣所へと連れられた。
『結構力持ちなんだな』
「結構力持ちでしょ」偶然会話が噛み合った。
俺は先に浴室の中に放り込まれ彼女を待った。彼女は脱衣所で服を全て脱いだ状態の裸で浴室へと入ってきた。
『なるほどな、ついでに自分もシャワーを浴びるタイプの人間なんだな』
「ついでに私もシャワー浴びちゃうね」俺の言葉なんてこちら吠えない限り聞こえないし、大抵の場合は好き勝手人間が喋るだけなのだが、さっきからどうも彼女との会話は噛み合う。
『俺の本能は鈍って無かったな、やっぱり波長が合うみたいだ』
彼女はシャワーを軽く捻って弱目の水圧で俺の体を流し始めた。
『なかなか犬の洗い方が分かってるじゃないか、でも俺は強めの方が好きなんだ』
「どう?気持ちいいかな?犬なんて洗ったことないからやり方分かんないよ。もっと強くしたほうがいいのかな?」
「ワン!」
「すごい、なんだか会話してるみたいだね」実際に会話は成立しているのだが彼女にそれを知る術はない。
「じゃあ強めてみるね」そう言ってちょうどいい水圧にシャワーを捻って再び俺の体に浴びせた。
「シャンプーって犬用のやつの方が良いよね、でも今日はこれしか無いの我慢してね」
『今日は』俺は彼女の方をチラリとみた。彼女も自分の失言に気が付いたようで急に何も言わずにシャワーを俺の顔に浴びせて視界を遮らせた。
余計にリンスもして汚れを綺麗さっぱり洗い流して鏡を見るとそこには水浸しでしおれて余計に捨て犬らしくなった自分がいた。視線を少し上げるとニヤニヤと馬鹿にしたような表情を浮かべる彼女の顔が見えた。
「なんだか捨て犬みたい」そう言って今度は思い切り笑った。初めて彼女の笑顔を目の当たりにして自然と俺の尻尾は揺れていた。
「このまま私も洗おうと思ったんだけどこのままほっとく訳にもいかないよね」
自分もついでに洗おうなんて考える人間は大抵他に乾かしてくれる人間がいるものだ。しかし、犬を飼ったことの無い人間からすればそこまで頭が回らないのも頷ける。少し考えた後、彼女はまだお湯の張られていない浴槽に俺を放り込んだ。
「ごめん、そこでしばらく大人しくしてて」そう言って彼女は自分の体を洗い始めた。俺はやることも無かったので言われた通りに大人しくジッと彼女を見つめた。
『気にして無かったけど、なかなか良い体してるじゃないか』人間の女の裸なんてものは興味はないが、10年も生きていればいくつもの比較対象はあった。多少大きな胸を持っているにも関わらず、全体的に引き締まっていてなかなか健康的だ。そんな俺の視線に気が付いたのかゆっくりと首をこちらに傾け、目を合わせた。
「なんかジロジロ視線を感じるんだけど」
『そりゃみるさ、犬はご主人様が大好きなんだ』
「もしかして、中身はおじさん!?」近からずも遠からずなことを言ってシャワーのお湯を体に掛けてきた。脱衣所に来た後、仕返しとして体を思い切り震わせた。
「うわっ!最悪!びちょびちょじゃん!」
『これが犬だよ』少しも誇らしくないのに誇らしげな顔をしてやった。
毛を乾かして貰いさっぱりと元の姿に戻った自分を確認するために俺は姿鏡をキョロキョロと探した。
「どう?綺麗になったでしょ?」そう言いながら寄ってくる彼女の両手には鏡が握られていた。鏡に映った自分を見てみるとそこには飼い犬の姿があった。
『うん、やっぱりこれだね』
「満足そうでよかった」
「ご飯はどうしよう」
『肉かドッグフードは無いよな。とりあえず米でいいよ』
「お米しか無いけど…食べさせてもいいのかな」
『俺はドグフードと肉の次に米が好きなんだ、なんてったって日本原産秋田県だからな』
「まぁいっか!明日ドッグフードでも買って来ればいいし!」すっかり俺をこの家に迎え入れてくれるような発言をしているが既に彼女にその自覚は無いようだった。彼女は料理する気力もなかったようで二人して白米に食らいついた。
「今日は疲れた。死にかけちゃったし」
「もう寝よっか」
そういえばどうして彼女はあんな場所にいたんだ。それにあの時の生気の無さは一体何だったんだろう。彼女の家族は?そんな疑問が浮かんだが、睡魔に勝つことは出来なかった。なんだって本来犬は10時間以上は寝たいんだ。
俺は彼女の被った毛布の上に飛び乗って眠りにつく事にした。
『おやすみ』
「おやすみ」
慌しかった今日が嘘のように静かになった。
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