沈みゆく船 (前編)

日の入りの鐘が鳴って、暫く。

回復が進み、魔力の網目が詰まってきた空を、水の精霊が輝く尾を描くようにして、ザクバラ国の中央から遠ざかって行く。




水の精霊の魔力がネイクーン王国へ向けて去って行くのを、険しい顔付きでバルコニーから見ていたのは、タージュリヤ王太子だ。

彼女は手摺りをギュと握り、魔力の去った空を睨む。


何故、水の精霊に三国間の往来を許すのか。

先月までのように、十日間我が国に囲っていれば、我が国の淀んだ気はより薄まる。

水の精霊は先月、不承不承でも、我が国に滞在することを納得したはずだ。


水の精霊を、もっとザクバラ国に留めることは出来ないか。


タージュリヤの希望は、そう口に出したし、伝わっているものだと思っていたのに、リィドウォル卿は一体どういうつもりなのだろう。

国王が復帰してから、避けられているのかという程に顔を合わせる機会が少なく、彼の真意を尋ねることは出来ていない。



室内に戻って腰掛けると、タージュリヤの周りに付いている側近達も、揃って不満を漏らした。

「リィドウォル宰相は、やはり殿下にお仕えする気がないのではないですか」

「そうです。水の精霊の魔力が回復すればと言いながら、ネイクーンに戻ることを許しているではありませんか」

タージュリヤは唇を噛む。


リィドウォルは、水の精霊が以前程に回復すれば、その時に“血の契約”を解いてくれるよう、王に嘆願すると言っていた。

しかし、事実、水の精霊は今月入国したその日にザクバラ国を出て行き、回復に専念させる様子でもない。

きっと彼は、急いで契約を解くつもりはないのだ。

それどころか……。


「宰相閣下には、閣下のお考えがあるのでしょう。王太子殿下の御世が恙無つつがなく始められるよう、以前から力を尽くされていますし、心配はないのでは?」

そう言ったのは、政変によって地方から中央へ栄転した中年の貴族だ。

リィドウォルは以前から、地方貴族からの信頼が厚い。


タージュリヤは再び窓の方を向いて、空を見上げた。

「……そうであったとしても、このままでは現政権と新政権私達との間に溝が出来てしまいます。上手く繋いでくれるのは、リィドウォル卿をおいて、他にはいないと思うのです」

タージュリヤの思い詰めたような口調に、側近達の誰もが口をつぐんだ。

様々な意見や不満はあれど、政変前から根気強く両者を繋いできたのは、紛れもなくリィドウォルなのだった。



何かを決意したように、タージュリヤが背筋を伸ばして立ち上がった。

「……陛下のご機嫌伺いに参ります」




タージュリヤが王の居室へ通された時、既に日の入りの鐘を半刻は過ぎているというのに、前室に設けられた補佐室では、まだ文官や魔術士達が忙しく働いていた。


侍従に案内されて奥へ進めば、王は寝台の側に設置された執務机に向かっていた。

相変わらず寝台の縁に腰掛けてはいたが、後ろに充てがわれている大きなクッションには凭れておらず、背を自立している。

未だ痩せた老人の姿であるのに、その様は、まるで王座に座っているような風格があった。



「タージュリヤよ、よく来た」

黒眼を細めて孫娘を迎え入れた王に挨拶を返そうとして、何故か一瞬寒気がして、背に鳥肌が立った。

王の居室は温暖に保たれているのに、どうしてだろうかと思いながら、タージュリヤは王の側に歩み寄って立礼した。


「御祖父様、まだ公務をなさっておいでだったのですか? 無理はなさらないで下さい」

祖父の体調を心配して、その枯れ枝のような手を握れば、王はもう一方の手を上に置いて、タージュリヤの白い手を包んだ。

「心配は無用だ。それよりも、こんな時間にどうしたのだ。何かあったか」

タージュリヤは毎日、午前に挨拶に訪れているので、日の入りの鐘を過ぎて来室するのには理由があるだろうと思われた。


「……実は、今後の為にも、現政権に私の側近を組み込んで頂けないかと、リィドウォル卿に相談したのですが、断られました」

「リィドウォルが?」

「はい。……私の側近は現政権に組み込むのではなく、私が御し、選別して、新政権に向けて足固めしていくべきだと」

タージュリヤが言葉を選びながら話すことを、王は小さく頷きながら聞いた。

「リィドウォルは間違っておらぬ。何故焦る必要があろうか。必ずいつかは、そなたの御世が来るのだ。それまでに、着実に学び、足固めしていけば良い」



タージュリヤは僅かに唇を噛む。

王とリィドウォルは、似たことを言っている。

しかし、その意味合いは大きく違っている。

リィドウォルと違い、おそらく王は、復帰政権が今後も続いていくと思っているのだ。




タージュリヤは、くっと顔を上げると、王としっかり向き合った。

「陛下の仰せの通り、来たるべき時に向けて努めてまいります。……ですから、まだ未熟な私が次代の王として成長していけるように、その補佐として陛下の側近を一人、私に頂きたいのです」

「…………一人、とは、誰か?」

タージュリヤは一度大きく息を吸った。


「リィドウォル卿です。どうか卿の“血の契約”を解き、私と現政権の橋渡し役として任命して頂けないでしょうか」



さわ、と室内の空気が揺れた気がした。



「…………そうか。そなたであったか……」

王が目を伏せ、深く息を吐きながら言った。


目を開け、近くの侍従に指示を出す。

「リィドウォルに、すぐに参るよう伝えよ」

タージュリヤは、ほっと小さく息を吐いた。

リィドウォルを呼ぶということは、あっさり断られるということはないらしい。


だが、侍従が急いで部屋を出て行くのを見送る王は、視線をそちらに向けたまま、暫く動かなかった。

「……陛下」

声を掛けられて、王はきしむようにゆっくりと首を戻す。

向けられた冷えた視線に、タージュリヤは僅かにすくんだ。



「タージュリヤよ。“血の契約”とは、主従の神聖なる誓いだ。共に大望を抱き、共に苦楽を感じながら邁進まいしんし、最後は共に死する……。何物にも代え難い、血縁以上の絆とも言うべきもの」


戸惑うタージュリヤに向けられた王の目は、徐々に冷たさを増した。

落ち窪んだ瞳の奥に、懐かしい温かみはない。


「それを、最近不埒ふらちにも『解いて欲しい』と願い出る者が絶えない。不思議に思っていたが、……そうか、そなたがそそのかしていたか」

タージュリヤは息を呑んだ。

「いいえ、違います! そのようなことは、誰にも……」

「側近というものは、自らが選び取り、信を結んで得るもの。“血の契約”を交わしている者ならば、尚更のこと。それを、契約を解いてまで手に入れようなど、厚かましい」


タージュリヤの言葉など、耳に入っていない様子の王から、恐ろしい程の気迫が湧き上がる。

思わずガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、タージュリヤは数歩後退りした。

尋常では無い樣子に、周りの侍従や、前室に詰めていた文官達の動きが止まり、緊迫した空気が広がる。



「そなたも結局は、私から王位を奪い取りたいのか?」



タージュリヤは目を見開き、王を凝視することしか出来なかった。

弁明したいのに、喉が貼り付いて言葉が上手く出ない。

王から湧き上がる気に呑まれたのか、タージュリヤの胸の奥から、冷えた黒いものが滲み出て、身体が強張っで動けなくなった。



王は痩せた腕を持ち上げ、枯れ枝のような指でタージュリヤを指した。

その人差し指には、金の指輪が鈍く光る。

「……何の弁明もないということは、図星であるらしいな」

タージュリヤの血の気が引いた時、前室にいた年嵩の魔術士が走って来て、二人の間に入った。

「お待ち下さい、陛下! 王太子殿下のお話をもう少しお聞き下さい」

年嵩の魔術士は跪礼きれいして王に乞う。

「殿下に反意など、あろうはずがありません!」


しかし、返ってきたのは、一層冷えた王の言葉だった。

「そうか、そなたもか……」





魔術士館で、侍従から王の召喚を告げられたリィドウォルは、急ぎ王族の居住区までやって来た。

王の居室へ入る前に、一度立ち止まる。

リィドウォルは逡巡しゅんじゅんして、右手の指から発動体の金の指輪を抜くと、その場で待機する護衛騎士のイルウェンに預けた。



前室に足を踏み入れてすぐに、人々の異様な緊張感と恐怖を感じた。

誰もが動くに動けない様子で、リィドウォルに視線が集まる。


文官や魔術士達の視線を抜け、奥の光景が目に入った途端、リィドウォルは鋭く息を呑んだ。


寝台の縁に毅然と腰を掛けた国王とは対照的に、腰を抜かしたように絨毯に座り込んだタージュリヤがいた。

青褪めた彼女は歯の根が合っておらず、リィドウォルが入室したことにも気付かず、ただ一点を見ている。

その視線の先にあるのは、絨毯の上に倒れた年嵩の魔術士だった。



「来たか、リィドウォル」

王の呼び掛けに答えず、リィドウォルは年嵩の魔術士に近付いて安否を確認する。

彼は口元から血と嘔吐物を垂らし、既に絶命していた。

その死に様は、“血の契約”に背いた者のものだ。

彼は王の命に従わなかったか、王を憤怒させて刑を受けたかのどちらかで命を落としたのだ。


リィドウォルは拳を震わせる。

「……陛下、何故です。彼は陛下の即位から支えた、最も忠誠心厚い陛下の臣でありました」

「確かに忠臣で。しかし、未だ王である私を見限り、王太子を擁護した。何と不忠なる者に成り下がったか」

「そんなはずは有り得ません!」

淡々とした王の言葉に、思わずリィドウォルが声を高くした。


「有り得ぬと思っていたが、この世には絶対というものは無いようだ。……そなたもまた、私との“血の契約”を解きたいようだな?」

リィドウォルは弾かれたように王の顔を見上げた。

王の目は暗く、その気配は重い。

「タージュリヤはそなたの契約を解き、自分の側近として側に置きたいようだ」

リィドウォルは眉根を寄せてタージュリヤを見遣る。

彼女は座り込んだまま、小さく首を振った。



「聞こう、リィドウォル。契約を解きたいのは、そなた自身か? それとも、タージュリヤの専横な振る舞いか?」

王は右手を持ち上げる。


その人差し指には、鈍く金が光を弾いた。





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