香り
光の季節前期月、四週五日。
昨日から降り続いている雨は、小振りにはなったが、まだ止む気配はない。
「ねえ、カウティス王子、どうしてセルフィーネは出て来ないの? 僕達も話したいんだけど」
昼食を部屋へ持って行こうとするカウティスに、ハルミアンが不満気に言う。
カウティスが何も言わないので、最近ではすっかり敬語も取れてしまったようだ。
「セルフィーネが、二人が良いと言うんだ」
カウティスは食事の載った盆を持ったまま平静を装って言うが、その頬は緩んでしまっている。
「王子が独り占めしたいのでは?」
ラードが
「否定はしない」
マルクは笑っているが、ハルミアンは顔を
「もう、王子ってば! セルフィーネもそんなに恥ずかしがることないのに。体臭を持つなんて、それこそ実体化への手掛かりかもしれないじゃないか」
カウティスの部屋での会話に、やたら『恥ずかしい』と言うセルフィーネの声が入るので、ハルミアンはやきもきしている。
こんなにも魔力を引き伸ばされても尚、進化への道が閉ざされていないセルフィーネを前にして、ハルミアンの探求心は刺激される。
それなのに、その香りとやらを嗅がせてもらえないのだ。
「だから聞き耳を立てるなというのに!……セルフィーネは今、魔力を回復するのに一生懸命なのだ。進化を
軽くハルミアンを睨み、カウティスは盆を持って隣室へ戻ってしまった。
「聞こえちゃうんだから、仕方ないでしょ。……それにしても、ちょっと嗅ぐくらいいいじゃないか」
ハルミアンは尖った耳の先を掻きながら口を歪めた。
マルクは笑顔のまま、宥めるように声を掛ける。
「王子もセルフィーネ様も、時間が惜しいんだよ。今夜にはザクバラ国へ移動しないといけないし……」
ザクバラ国への二週間の滞在は、三国共有になって、特に懸念している事の一つだ。
「ザクバラ国か……。庭園の改築工事の許可が下りたら、作業は出来る限り急いだ方がいいよ」
表情を改めて言うハルミアンに、どこかまだ警戒したような目をラードは向ける。
「言われなくても急ぐつもりではあるが……、なぜだ?」
「ザクバラ国は、あちこち淀んでるんだ。セルフィーネには、きっと害にしかならない」
マルクが栗色の眉を寄せる。
「淀んでる?」
「……そういえば以前、魔獣討伐の為に越境した時、胸が悪くなるような空気の淀みを感じたな」
ラードが何かを思い出すように、無精髭の生えた顎を撫でた。
「だが、あれは、国境地帯の精霊が狂っているからだと思っていたが」
「確かに、国境地帯だけの事を言えばそうだけど、ザクバラ国は全体的に空気が重いよ。特に中央部は酷い。……人間の国が、竜人の血を取り込んだことで歪んでしまった結果が、あれなんじゃないかな」
この世界は一つのようで、実は別々の層になっているという。
別の層と本当の意味で交わるためには、食べて体内に取り込むことだと言われている。
別の層の生き物である竜人族の血を取り込んだことで、ザクバラ国の王族は新しい力を手に入れ、一時は人間種族の進化を進めたように見えた。
しかし、野菜や虫にも毒素を持つものがあるように、竜人の血もまた、人間にとっては毒を含む物だったのかもしれない。
それによって、ザクバラ国は他の国とは少し違う、歪んだ形になってしまった。
「二週間で、セルフィーネに何もないといいけど……」
ハルミアンの溜め息に、ラードとマルクは奥歯を噛んだ。
カウティスは自室で、見えないセルフィーネと会話しながら、一人昼食を摂る。
盆の上の皿に甘酸っぱい味付けの魚があって、年末日に似たような料理を味見して、おかしな表情になっていたセルフィーネを思い出す。
「何を笑っている?」
「そなたがこれと似た物を口にして、すごい顔をしていたなと思い出したのだ」
「笑うなんて、ひどい」
すまないと言いながらもカウティスが笑っていると、セルフィーネが切ない声で呟く。
「……また、カウティスと食べたい」
「……約束をしただろう。また、必ず一緒に食べよう」
カウティスが、セルフィーネがいると思われる方へ手を伸ばす。
セルフィーネは、カウティスの掌に、見えない手を乗せる。
側に行けるだけで、良いと思っていた。
声を出して、存在を感じて貰えれば、それで満足だと。
それなのにカウティスは、香りを感じると言って見えないセルフィーネに気付き、笑い掛けてくれた。
求めていたものよりも、更に喜ばしいものを与えてくれたはずなのに、セルフィーネの胸は疼いて収まらない。
見つめ合いたい。
力強く抱きしめて欲しい。
熱い手で、触れて欲しい。
そんな願いが、胸の奥から溢れてくる。
一つの欲が満たされれば、更に次の欲が湧くものなのだろうか。
「…………カウティス、私は、とても欲張りになってしまったのかもしれない」
「欲張り? 何か欲しいものが?」
食事を終えたカウティスが、最後に水を飲んでグラスを置いた。
「……口付けしたい」
朝露のような蒼い香りをすぐ近くに感じ、カウティスの鼓動は早くなる。
「……俺もしたい。でも、すまない、俺には見えないのだ。だから……そなたからしてくれないか」
カウティスが軽く両腕を広げる。
セルフィーネはゆっくりとその胸に添ってから、顔を上げると軽く唇を合わせた。
「……カウティスが、好きだ」
恥じらうような小声が、カウティスの胸を熱く疼かせる。
「…………そなたは、見えなくても俺を夢中にさせる」
耳朶を赤くして微笑むカウティスの周りを、蒼い香りが濃く包んだ。
日の入りの鐘を過ぎて、ようやく止んだ雨のおかげで、空には薄雲の間から月光が僅かに漏れ出している。
日付けが変わる四半刻程前。
「……もう、
ようやく広間に出て来たセルフィーネが言う。
「セルフィーネ様、お会いできて嬉しかったです。……お気を付けて」
マルクがセルフィーネの魔力に向かって言うと、魔力の纏まりが頷くように揺れた。
「エルノート王太子の即位には、王城に戻るつもりだ。……カウティスを頼む」
「俺の心配などしなくて良い。そなたの方が心配だ、セルフィーネ」
カウティスが心配そうに手を伸ばすので、セルフィーネは言葉に詰まった。
本当は、ザクバラに行きたくない。
もう、このままここにいたい。
どうしよう、前は黙って我慢できたことが、今は苦しい。
私は本当に欲張りで、とても我儘になってしまったのだろうか……。
「香りなんて、ちっともしないけどなぁ」
思いに沈んでいたセルフィーネの側に、いつの間にかハルミアンが寄って、くんくんと鼻を鳴らしている。
「!……嫌だ」
セルフィーネがサッとカウティスの後ろへ回った。
「ハルミアン! セルフィーネが嫌がっているだろう!」
カウティスが睨んだが、ハルミアンは首を
「だって、気になってさ。でも、全く香りなんてしないけど、今は匂ってないの?」
セルフィーネは恥ずかしくて堪らなくなった。
カウティスの後ろで小さくなる。
「お前ね、女性に対して『匂ってないの?』って、相当失礼だぞ」
ラードが呆れたように言って、腰に手をやる。
「……恥ずかしい……」
グラスに入った水から、恥じらう小さな声がする。
カウティスは、朝露のような香りが背後で濃くなるのを感じて振り向いた。
「大丈夫だ、セルフィーネ。言っただろう? そなたの香りは、とても良い香りだから」
「……王子は、今も香りを感じるの?」
カウティスが迷いなく振り向くのを見て、ハルミアンが困惑の表情で尋ねた。
「ああ。とても清々しい香りがするだろう?」
だが、ハルミアンだけでなく、近くにいたラードとマルクも不思議そうにする。
「……私には分かりませんね」
「はい。私も、特に香りらしきものは……」
今度はカウティスが困惑して目を瞬いた。
「……私にしか、分からないのか……?」
こんなにもはっきりと匂いがするのに、自分以外、誰もこの香りを感じないというのか。
セルフィーネもまた、同じ様に困惑した。
自分が手に入れたと思た“香り”とやらは、どうやら人間の持つものとは違うらしい。
それでも、カウティス以外には感じないのだと分かり、何処か安堵した。
それと同時に、カウティスとの新しい繋がりを得た気がして、セルフィーネの胸は小さく鳴ったのだった。
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