第三十六話 駆け引きと取り引きと

せな」

「……はい?」


 思いがけず銀次郎の口から飛び出した科白せりふに、狐塚こづかと名乗った公務員風の男はきょを突かれ、一瞬ほうけたような平べったい表情になる。そこに、くわっ、と目を見開いた銀次郎が言った。


おらぁ失せろと言ったんだ、使いっ走りの狐。何が鬼の子だ譲るだ譲らねぇだ、畜生め」

「……っ」


 誰がこの男を七〇の老人だと思うだろう。重厚感のある堂々たる言葉のひとつひとつが、巨大なハンマーのように狐に似たうわべだけの薄っぺらな笑みに叩きつけられる。と、それはたちまち打ち崩されて、その下に隠されていた引きった狡猾こうかつそうなうすら笑いだけが残された。



 銀次郎が一歩踏み出し、狐塚が一歩後退あとずさる。



「おめえ様が誰のことを言ってやがるのか知らねえがな? ……シオンは俺の大事な孫娘だ。それを寄越よこせだなんだたぁ、たいそうド偉くでやがるじゃねえか。一体何様のおつもりだ?」

「……貴方あなたはあの子どもの真の価値がお分かりでないのです」

「はっ! だと!?」


 あまりの気迫にされた狐塚の卑屈なつぶやきに、みつくように銀次郎が歯をいて言い放った。


「シオンは鬼でも物でもねえ。ましてや人だ魔族だてぇのも、あの子にゃ関係ねえ話だろうが」

「――っ」

「この前の野郎もいけ好かなかったがな、おめえ様はそれ以上だ。あんな小さな子に、親を亡くして寂しい思いをしてる子に、外野が余計なお荷物背負わせやがるなってんだよ。ええ?」



 銀次郎はもう動かなかったが、狐塚はなおも一歩後退った。



「それでなくたってな? まだ立つのだって精いっぱいなんだ、シオンは。そんなシオンのちっちゃな背中に、いらねぇしがらみ背負わせやがるんじゃねえ。生きたいように生きりゃいい。俺ぁは、それを支えて見守ってやるだけだ。道を外れないように、間違えないようにな――」


 銀次郎は、じいっ、と見つめる。

 やがて狐塚はこう告げた。


「……きっと後悔されますよ。きっとね」

「はン、可愛い孫のために背負う苦労なんざでもねえさ。余計なお世話だってんだよ、三下さんした

「――っ」



 狐塚は――もう二度と笑わなかった。



 鋭く怖い目つきで射貫くように銀次郎を見据えながら、ゆっくり瓦礫がれきの山を後ろ向きのまま登っていく。さながらそれは、用心深く悪賢い孤狼ころうが狩人をあざむくために行うめ足に似ていた。


「ははは。楽しみですよ、その時が。無様にいつくばって、わたくしどもに慈悲を乞う日が」



 銀次郎は――もう何も言わなかった。



 ――けーん!


 高くあざけるような鳴き声とともに宙に身をおどらせた白狐が瓦礫の山の向こうへと消えるさまを、八十海銀次郎はただじっと見つめていたのだった。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






 銀次郎を待っていたのは、


「もう! 遅かったじゃない!」

「済まねえな――」


 手の届く範囲にある物を手当たり次第に叩き、めては噛みつき、丸めてはまた丁寧に開いて、きゃっきゃっ、と笑うばかりの無邪気で傍若無人ぼうじゃくぶじんなシオンと、相手をするのにすっかり疲れ果てた香織子という『二人の孫娘』の姿だった。むすり、と責めるような言葉に銀次郎が悪びれもなく短い言葉で応じると、香織子はあきれたように軽く肩をすくめてみせるのだった。


「だが、用事は済んだ。きれいさっぱりとな」

「なら、いいんだけど――」

「オカエリ! マスター!」


 こちらは、だらしがないほどしまりのない笑みを浮かべているベトナム人店主――あとから知った名前は、ドゥンというらしい――だ。シオンに両頬をつねられ、むにり、と伸ばされながらも笑みを絶やさず嬉しそうにこう告げる。


「シオン、イイコ、イイコネー。マスターノムスメ、ガンバッタヨ。デモ、コレ、ムリネー」

「だからよ、娘じゃねえっつったろう……。そいつは――香織子はな? 俺の……娘の子だ」

「……」


 どうしてそんな言い草をしたのか銀次郎自身分からなかったが、香織子本人を目の前にして、こいつは自分の孫娘だ、と言葉に出すことに抵抗があったのだ。



 それは一〇年疎遠そえんな間柄だったからかもしれない。

 亡き娘、芳美よしみを思い出させるからだったからかもしれない。

 まだぎこちない互いの感情と言葉のせいだったからかもしれない。


 かつての記憶と、今目の前にある現実がうまく重ねられなかったからかもしれなかった。



 そんな自分の振る舞いに小さく舌打ちをし、ハンチング帽を脱ぎ苛立いらだちをあらわにして銀次郎は白い頭をく。その様を無言で見つめていた香織子は、居心地悪そうにそっぽを向いた。


「……マスター? コレカラ、ドウスル?」


 そんな息苦しい空気を察したのか、口を開いたのはベトナム人店主のドゥンだった。銀次郎はほっとしたような顔でこう返す。


「お――おう、欲しいモンは揃ったからな。けえるさ。ただな――?」

「……何?」

「まだちゃんと話をしてねえ。だろ?」

「……っ」


 銀次郎の視線を感じながらも、香織子はむっつりと押し黙ったままだ。

 やがてこう言う。


「……言いたくない」

「じゃあ、お家へ帰んな」

「……帰りたくない」

「じゃあ、どうすんだ? え?」

「……銀次郎さんの家に泊めてください」

「はぁ――」


 これではらちが明かない。

 仕方なく銀次郎は、さっき思いついたばかりの妙案を口に出すことにする。


「俺ぁな? 今ちょっとばかし困ってんだ。そいつを手伝うってぇんなら考えてやってもいい」

「ホ、ホント!?」

「ただし、だ――」


 途端に笑顔を見せた香織子に、銀次郎は依然厳めしい表情を崩さずにこう言った。


「お客様扱いはしねえ。他人様として俺の店できっちり働いてもらう。……学校はどうする?」

「進学先なら決まっているから、行かなくてもいいんです」

「嘘つけ。おめえさんはだろうが。年寄りだまそうたってそうはいかねえ」

「………………もう、学校には休学届けを出してあります」

「はぁ――」


 二度目のため息。用意が良いのか無鉄砲なのか、さっぱり分からない。ますます娘の芳美を思い出させる頑固さに呆れるばかりである。銀次郎はしばしわしゃわしゃと頭を掻き、それからきっちりと黒杢くろもく色のハンチング帽をかぶり直すと、ドゥンが差し出したシオンを抱きかかえた。


 そして、振り返ってこう告げる。


「……なら、ついてきな。まずは荷物持ちからだ。もう帰りてえって言うまでこき使ってやる」



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