第十二話 山査子

「さあて、今度は俺の番だな」


 そう言って銀次郎は、カウンターに座り直したシリルの前に、白い花と赤い丸い実を組み合わせた柄を控えめにあしらった薄手のカップを置いた。


「わあ、可愛いカップ」


 そしてシリルはすぐにもカップの白さを引き立てる花模様に目を奪われた。


「それにこの花! ……うーん、見たことがないわ」

山査子サンザシ、と言う木だ。こっちにはないのかね?」


 銀次郎が数ある中からそのカップをシリルにと選んだのは、単なる勘でしかなかった。



 だが、彼自身はそれを知る由もなかったが、山査子――サンザシは、古代ケルトの春を迎える祭りにおいて立てられる《五月柱メイ・ポール》に用いられる木でもある。この祭りは豊穣の季節を祝い、ひいては恋の実りと結婚、そして子宝に恵まれるようにと願い込めて行われる儀式であった。しかし、これはただの偶然である。



 ふーっ。ふーっ。

 ふーっ。ふーっ。



 入念に息を吹きかけ冷ましているところから見て、ゴードンとは違って、シリルはどうやら猫舌らしい。



 こく。



「ウチの旦那がなかなか帰って来なかった理由がやっと分かったわ」


 皮肉っぽくシリルは独りごちると、再びカップにそっと口をつける。



 こく。



「味ももちろんだけれど……この香り!」

「気に入ってくれたら本望だよ」


 銀次郎は人知れずほっと胸を撫で下ろした。


 しばし夢中になってカップを傾けるシリルだったが、やがてその目は椅子の上に上がり込み、カウンターの上に何やら張り出そうとしている銀次郎の手にする紙切れに注がれていた。


「あら? これ、こーひー、って言うのね!」


 その視線が徐々に下がり、


「鉄貨――」


 小さな悲鳴。


「……五枚!? たったそれだけ? これが?」


 やはり驚きは隠せないようだ。仕方なく頭をきながら振り返って告げる。


「あんたの旦那にもそう言われちまったよ。むしろ金貨一枚は堅いだろ、って」

「まあ、その価値はあると思うけれど……」


 渋々そううなずき返しながらも、


「でも、そんな物を毎日飲もうものなら即離婚だわ! いくらあったって足りやしないもの」

「だろ? そうなっちまうのは困るんだ」

「あたしたちはありがたいけれどねえ」


 物憂げな銀次郎を他所よそに、シリルはにこにこと微笑んでこう続ける。


「ウチの料理をたっぷりと楽しんだ後は、是非ぜひこの店に! ってお薦めしてあげることにする。最高の気分になれること請け合いだもの」



 そう。


 ゴードンの手による素晴らしい料理の数々を堪能した後、銀次郎がふと思ってしまったのはまさしくそれだった。食後の幸福な気持ちにしばしひたる時間が欲しい――そのためにはこの珈琲が必要不可欠だと思ったのだ。



 とは言うものの、


「いいのか? そんな他所様の店を宣伝するような真似をしても?」

「いいのよ。いいの。ウチの旦那にも同じこと言われたんだもの」


 シリルは屈託なく笑って頷き、急に低い作り声を出した。


「――あの一杯は俺の料理の締めくくりに必要なんだ、ってさ! だからこそ、お前も行って飲ませてもらって来い、なんて言ったんだから! で、飲んでみて、あたしも同じことを思ったのよ」

「そうか。何だかくすぐってえな」

「あら? 照れてるのかい?」


 カウンター越しにシリルはウインクを投げた。


「可愛いとこもあるんだねえ。嫌いじゃないよ」

「――! よせやい、じじいをからかうんじゃねえ」


 赤黒い顔付きになった銀次郎はむっつりと言った。


「さてと」


 最後の一口を一気に喉の奥へと流し込むと、シリルはすっと立ち上がった。その手にはすでに商売道具のトレイや食器一式が抱えられている。


「そろそろ店に戻るとするわね。ご馳走ちそう様。何だか、とっても良い気分! 今日も一日頑張れそうよ!」


 言うが早いか店を出ようとして、


「ああ、そうだ!」


 シリルは言い忘れていたことに気付いた。


「ねえ、ギンジロー? もうお昼からあなたの店の宣伝しちゃっても大丈夫なの? こう言っちゃなんだけど……ほら、あっちの奥の方とか、大変な有様のように思えたんだけど?」

「ああ、いけねえ! そうだった!」


 すっかり忘れていた。こと店のことになると、銀次郎は決まってこうなのだった。そしてこれが、娘の芳美よしみと隔絶することになった一因でもある。


「参ったな……」


 しばし考え込んでいる様子の銀次郎を見て、シリルは落ち着かなげに身体を揺らしていた。店に戻りたいが、さりとて放っておく訳にもいかない、そんな素振りがありありと見える。しかし、じきに昼だ。ゴードンの店はさぞかし大忙しになるのだろう。これ以上、引き留める訳にはいかない。


「なあ、シリル。済まねえんだが――」


 うつむき加減の銀次郎が恐る恐る差し出したのは、またもや紙とペンだった。


「――こいつを使って、こう書いちゃくれねえか?



『店の奥にいます。御用の方は声をかけて下さい』



 ってな?」




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