第二話 目覚め

 それからどのくらい長い時間が経ったのだろうか。


「う……」


 そろり、と固く強張こわばった身体を動かして、ゆっくりと頭を上げてみる。


「こりゃあ、ひでえ」


 男はつぶいた。


 幸いにも身体のどこにも怪我はないようだったが、部屋の至る所に物が溢れかえっていて、足の踏み場も見つからないくらいだった。むしろ、男がいた場所、ただそこだけに物がない。そんな感じだった。


 奇跡としか言いようがなかっただろう。


 なかったのだが――男が嘆く理由は惨憺さんたんたる我が家の惨状、それ故ではなかった。


「………………また、き損ねちまった、か」


 そう愚痴ともつかない口調で呟いてしばらくは茫然とその場にあぐらをかいて座り込んでいたが、じきに溜息を一つ吐くと見た目にそぐわぬしっかりとした動作で立ち上がった。


「しっかし……」


 ぱんぱん、と色褪せた鼠色のズボンを叩いて降りかかってきた埃を払い除ける。随分と昔から寝る時でもまともに着替えることはしなかったが、その無精な悪習が役に立つとは何とも皮肉な話である。


「どっから手をつけたらいいもんだかな。こりゃ難儀だぜ」


 たびたび独り言を口にするのは年のせいでもあったが、それが男の生来の性分でもあったし、独り暮らしなものだから他にとがめる者がいるでもなし、もうすっかりと癖になってしまっていた。


 と、荒れ果てた部屋の片隅で横倒しになっている物が目に留まる。


「おっと、そうか。テレビ、テレビ、と」


 定位置だった低い戸棚の上に抱え起こした薄っぺらな小型液晶テレビを置き直すと、今度はリモコンを探す。本当なら、そのまま本体のボタンを押せばいいだけなのだろうが、どうにも覚えられないのだ。


「よしよし。これだこれこれ――」


 運良く使い込まれた柿渋色の卓袱台の下にリモコンを見つけた。早速『つける』と男自身の筆跡で書かれたシールの下のボタンを押してみる。




 ぶうん。

 それだけ。




 いくら待ってみようとも、画面の隅に時刻とチャンネル表示が浮かび上がっただけで、肝心の映像が一向に映らない。遅れて音声が聴こえてきたが、それでもモノトーンの砂嵐しか現れなかった。


「糞っ。アンテナをやられちまったか」


 数年前の台風の時にも同じことがあった。なので多分そうなのだろうと、今度は『けす』と書き添えてある方のボタンを押してしまった。


「……ま、見れねえもんは仕方ねえやな」


 どうしても見たかった訳ではない。


 あれだけの大きな地震があったのだし、今頃あちこちで大騒ぎになっていることだろうと思ったからではあるものの、所詮は独り身である。孫娘のことが心配ではないのかと問われたら答えるのが難しいが、このボロ家よりははるかに安全な場所にいることは確かだったし、そもそも手紙だけの疎遠な間柄になってもう一〇年経つ。向こうだってそれは似たようなものだろう。


「さてと」


 男は手の中で弄んでいたリモコンを卓袱台ちゃぶだいの上に将棋の駒のように、ぴしり、と置いてから、少し独り言のトーンを上げた。


「どぉれ、あっちの様子を見てみるかね」


 いやに明るく振舞っているその訳は、失望するのが怖かったからだ。


 男がこの住まいにしがみついてきた理由。

 一人娘の芳美との間に、致命的な亀裂が生じた一因にもなったのもここだった。


「よっ……と」


 居間の奥の引き戸を一気に開け放つと――。


「へえ」


 窓から差し込む真っ赤な朝日に照らされた男の顔は、自然とにんまりとした笑顔になった。


「こっちは綺麗なモンだ。神様仏様だな、有難ぇ」


 そこは喫茶店だった。


 こじんまりとはしているものの、年季の入ったカウンター、戸棚、テーブル、椅子、何処をとっても男自身の手で入念に磨き込まれた店内は、陽の光を受けてつやつやと輝いて見えた。


「ちと早ええが、ま、こんな時だからな」


 ふむ、と一つ大仰にうなずくと、早速手近の棚に畳んでおいてあった前掛けを手に取って身にまとう。


「どれ、開ける準備でもしてやるか。じきにあの世間知らずの坊ちゃん連中が半べそかいて駆け込んで来るかもしれんしな。ったく、面倒だが――」



 この喫茶店は、二つの大学、一つの高校、合わせて三つの学校のちょうど中間の、いわゆる学生街に建っていた。


 祖父の代から数えて男で三代。かつては近所の馴染み客が来る程度だったものが、男の代になってから件の学校が次々とこの地に移転してきて、今ではすっかり学生御用達の喫茶店になっている、という訳だった。


 だが口でこそ憎まれ口を言っているものの、男は日々店に訪れてくる客である学生たちのことが心底心配で仕方ないらしい。学生たちの方も、最初こそとっつきにくい気難しそうな爺さんだと怖がるものだったが、次第に無口ながらもその仕事ぶりや気遣い、そして何より男の淹れる一杯に自然と居心地良さを覚えて通い詰めることになるのである。



 まず手始めに、カウンターの裏手に引っ込んだ男は、背の高いケトルになみなみと水を灌いで、ガスコンロの上に、ごん、と置いた。そのまま一捻り、しゅぼっと火を起こす。


「おっと」


 が、正面へ向き直ろうとした瞬間、動きが止まる。


「……ま、いいか。ガスも水道も問題ねえみたいだな」


 よくよく考えてみれば大地震の後だ。出るのも点くのも有難いことこの上なかったが、それこそガス爆発が起きたって不思議ではなかったのだろう。しかし細かいことは気にせず、続きをする。


「はて? 皿一枚、割れてねえのか」


 改めて戸棚を一つ一つ点検したが、男の言葉に嘘偽りはなかった。すっかり白くなった頭を掻きつつ、とある戸棚から小振りなブリキ缶を取り出すと、無造作にカウンターの上に、ごん、と置いた。



 ――『銀次郎スペシャル』。

 缶の外側に貼ってあるラベルには、几帳面な筆致でこうある。



 そしてまた別の扉から、今度は上部にハンドルの付いた金属の筒状の物を取り出した。いわゆるコーヒーミルのようである。さらにでっぷりと重心の低いガラス製のコーヒーメーカーがその隣に並んだ。


 そうこうしているうちに、火にかけたケトルがしゅんしゅんと騒ぎ始める。だが、少しばかり違和感が生じていた。


「……やけに早えな」


 とは言え、仕事が早いに越したことはない。

 気にせずブリキ缶の蓋を開けて――。




 からん。


 スイングドアにぶら下げたカウベルが鳴った。



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