国崩しのアルチェ〜領主の帰還と放逐少女〜
吉楽滔々
第1話 放逐少女
——————いっそ岩でも落ちてきて、道が
そうすれば、帰りたくもない実家に戻ることを、先延ばしにできるだろう。リフィーが重い足取りで山道を歩きながら、投げやりにそんなことを考えていた時だった。
目の前に、岩ではなく人が降ってきたのは。
「うっ、ぁ、あぁあ……っ」
身体を
びぃっと布が裂ける嫌な音。引きずられかけたリフィーはぐっと腰を落とし、勢いを殺すまでなんとか
パラパラパラ……と
ややあって、彼女はほぅ、と安堵のため息をついて立ち上がると、
「あ、あの……危ないところを……ありがとうございました……」
リフィーに深々と頭を下げた。
「いや、大丈夫かい?……ひどい擦り傷だらけだな。それにすまなかったね。思わず服を掴んだものだから、どこか破れたんじゃないかい?」
「いえそれくらい、崖下に叩きつけられることを思えば大したことじゃないですよ」
夕焼け色の目をした細身の少女は怪我だらけになっていたが、思いのほか肝が据わった様子でそう微笑んだ。
「もう少し先まで行けば、避難小屋があったはずだ。そこで手当てと、破れたところを
リフィーは彼女をそう誘って、返事を聞く前に歩き出す。というのも、ここでこのまま別れてしまうには、少しばかり気がかりなことが少女にはあったからだ。
* * * * *
少女は名を、アルチェというらしい。
彼女はこの辺りではあまり見かけない黒い髪をしていて、さらに珍しいことに、向かい合って右側に瞳と同じ夕焼け色のひと房が混じっている。リフィーは所属していた騎士団で様々な出身の人間を見てきたが、ここまで鮮やかな色味は見たことがなかった。
恐らく使用頻度が低いのだろう。やけに埃っぽい小屋の中、アルチェがひどい擦り傷を消毒している横で、リフィーは彼女の破れたシャツを縫っている。
「本当に、何から何までありがとうございます」
「なに、構わないさ。私も困った時に、行きずりの人に助けてもらったことが何度もあるからね。……ところで、アルチェ」
その珍しい髪色よりも何よりも、リフィーが気になっていたのは彼女の
まだ気候の良い時期であるから生地が薄めなのはともかく、彼女の裾広がりのズボンは七分丈くらいで肌が露出してる。山は毒虫や
おまけにその荷物に至っては、財布とわずかなものしか入らなそうなポシェットがひとつきり。水や救急用品はもちろん、山につきものの気温差に対応できるような
何よりも街を歩くような底の薄いあの靴では、荒れた山道はあまりに危険だった。ひょっとしなくても、転がり落ちてきた原因はそれなのではないだろうか。
「余計な世話かもしれないが、もう少し装備を整えた方がいいのではないかな?山では急に天候が変わったり、不測の事態が起こりがちだ。特にその底が薄い靴では足元が危険だし、体力を消耗しやすかったりして身体に負担がかかると思うよ」
「本当に、仰るとおりです……実はその……私としては、ちょっとパン屋に行くぐらいのつもりだったもので……」
アルチェは苦笑しながらそう答えた。
——————なら一体なぜ、こんな山を登るような事態になっている?
「……まさか、この山にパン屋があるのかい?」
知る人ぞ知る隠れ家的な店であれば、あり得なくはないかもしれない。ただ、リフィーが歩いてきた限りでは、パン屋どころか建物のひとつも見かけなかったが。
「いえ、ここには残念ながらなさそうですね。私が行こうとしていたのは、ノイエ・デュノーのパン屋なんです」
リフィーは反射的に、己の耳を疑って聞き返す。
「……ノイエ・デュノーと言ったか?」
「はい。ノイエ・デュノーの〝踊る麦穂亭〟というパン屋がとても美味しいので、お昼に食べようと思って……」
聞き間違えではなかったことに、リフィーは面食らった。
「……隣の国じゃないか」
そう、ノイエ・デュノーというのは、このルギオラの隣国のひとつ、リヴァルト王国の首都の名なのだ。
——————まさか迷ってここまで……?いや、まさかな……
リヴァルト王国は周辺諸国に比べると規模が小さい国とはいえ、それでも王都からこの国境近くまで数日はかかるはずだった。いくらなんでも、途中で気づかないのはおかしい。
——————となると、
思考を巡らせるリフィーの横で、消毒液の蓋を閉めたアルチェは頬を掻きながら続けた。
「いやぁ、私は旅に出るつもりなんて欠片もなかったんですが……実は今朝方、国から追い出されちゃいまして」
なんでしたら一生、国外に出るつもりなんてなかったんですけどね、と彼女は付け加える。リフィーは内心首を傾げた。
どこかのんびりした雰囲気のこの少女は、間違っても国外追放されるような犯罪者には見えない。それならば口減らしか。あるいは彼女が身分のある出自であれば、派閥争いに巻き込まれてというのもあり得るが、などと考えていたリフィーだったが、真相はそのどれとも違っていた。
「まさかじじ殿が……祖父があんな遺言を残しているなんて、知らされていなかったもので」
「……遺言?君は遺言で追い出されたのか?」
リフィーは思わず聞き返してしまった。
「そうなんです。遺言執行人に急に呼び出されて、何かと思ったら……問答無用で国境まで連れて行かれて『十六歳を迎えた日より三年間、国の外を旅した後に住居及び金銭等の遺産贈与を行う』と、身分証明書だけ渡されていきなり関門から放り出されまして」
控え目に見積もっても笑い事ではないことを、彼女はおかしそうに笑いながら口にする。
「そんなわけで、帰りにパン屋で昼食でも買おうと思っていた、その格好のままこうして旅立つ羽目になったわけです」
「……なんとまぁ……すると、君は今日が誕生日なのか」
「ええ。祖父から孫へ、最後の贈り物だそうです」
リフィーは二十八年生きてきて、様々な変わった贈り物を耳にしてきたが、間違いなくその中でもとんでもない品の筆頭だった。
「サジュスタンは情勢的に入国した後が厳しそうなので、とにかくルギオラで
それでエゼッテ山を越えようとしたところ、慣れない山道で足を踏み外してリフィーのところまで転がって来たらしい。
「こんなことになるとわかっていたら、大陸共通口座と
まだ年若い娘を無理やり旅立たせるだけでもどうかと思うが、金銭はおろか旅支度さえさせないというのは一体どういうことなのか。
「……その遺言執行人は、確かに信用のおける人間か?」
リフィーは、
「あの人は私が知る限り、国で一番信用できる方ですよ。それに疑うまでもなく、とても祖父らしい遺言でして……生前も何かにつけて、教育的指導という名の無茶振りをかましてくれたんですが……まさか亡くなった後もだなんてね……私、葬儀で言っちゃいましたよ?『もうじじ殿の無理難題に頭を悩ませることもないのかと思うと、とても寂しい』って。……でもまぁこれ以上、あの人らしいものもないです。草葉の陰で、してやったりって絶対笑ってますね」
そう口にする彼女の目はとても優しくて、その祖父殿との確かな絆を感じさせた。
「……これも、何かの縁か」
リフィーが思わずそう呟いて苦笑すると、アルチェは先を促すような
「まったく運命というやつは、粋なんだか
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