夏の花束を君に
幻夢
1話完結
アテナ
ギリシャ神話に登場する、戦争の知恵・知略の女神。しかし彼女の戦いは、平和の回復を願うものだった。
✻✻✻
眠りにつく前に、最後の思い出話をしよう。
✻✻✻
「忘れないでね、約束だよ」
目の前の君は、そうやって僕と小指を絡ませて、なにかに縋るような笑顔を浮かべていた。どこかで見たことのあるような、美しい花畑でのことだった。
僕は酷い奴だ。君との約束さえ、守れていなかったのだから。でもそんな僕を、君は許してくれた。そう、君は最後まで優しくて、そして美しかった。
君との出会いは、多分、奇跡に近かったのだと思う。途方に暮れていた僕の目の前に、君は突然現れた。
「一緒に行きましょう?」
君の長い髪はシルクのように柔らかくて、軽やかな動きはまるで絵本から飛び出してきた妖精みたいで……とにかく、僕は君の存在に酷く驚かされた。
「君は誰?」
僕がそう尋ねても、君は微笑むだけで答えてはくれない。
「じゃあ、どうして僕に話しかけたの?」
「あなたに会う為に、私は生まれたから」
自分に関することは全然教えてくれないのに、僕に関わることは教えてくれる。どこまでも不思議な存在だった。
そして、君は何より、僕のことを一番に考えてくれていた。僕は気づいてたよ。君は、僕のためならその身さえも犠牲にするって。だから僕は、君に何も教えたくなかったんだ。誰にも会わせたくなかったんだ。君が僕について知りすぎてしまうことは、君を危険に晒すことだと思っていたから。僕のことを知れば知るほど、君は学んで僕のために動くから。
この胸の思いを伝えても、君はきっと笑うだけだ。そんなに私のことを考えてくれているなんて嬉しい、と。君は、そういうひとだった。
だから結局、こうなってしまったんだ。
全てが終わるまでずっとそばに居てくれた君。それだけが、僕の救いだった。
君を守る。例えどんなことがあっても。
自信を持ってそう言いたかった。でも、その言葉を言うには、僕はあまりにも未熟だった。
✻✻✻
少し、僕自身の話をしようと思う。
僕には兄が二人いた。兄は二人とも僕とは違って立派な人で、そして強かった。正義感に溢れた人たちだった。母上は身体が弱くて、早くに亡くなっている。母上も考えをはっきりと持って凛とした人だったけれど、僕には少しだけ甘かった。
父上は、誰よりも厳格な人だった。その厳しさが僕たち兄弟のためで、それが国のためであったと知ったのは、母上がいなくなってすぐのことだった。母上がいた頃は、僕は、堂々とした振る舞いの父上を怖がっていた。
僕が住む場所の近くには、綺麗な花畑があった。昔はよく、母上とその場所に遊びに行っていたらしい。なぜか花畑のことについては、あまり覚えていない。その花畑が「未知の花畑」と呼ばれていたと知ったのも、ずっと後のことだった。
花冠を作ると、母上は喜んでくれた。いつも被っている冠よりもこちらの方がいい、と。その言葉が嬉しくて僕は仕方がなかった。
兄には花冠ではなく、小さいブーケを作って渡していた。上の兄も下の兄も、喜んで自室に飾ってくれていた。だからいつも僕は、兄が好きそうな色の花を選ぶのが楽しみで仕方がなかった。
その花畑に咲く花には不思議な力があって、愛する人に贈るとその人を護ってくれる。だから母上や兄はより喜んでくれていた。そんなことを知ったのも、君がいなくなった後だった。
そう、その頃の僕はどうしようもなく無垢で無知な子供だったのだ。父上も、きっとそれを分かっていたのだと思う。
✻✻✻
君は、まるで母上と入れ替わりになるように現れた。
母上がいなくなってしまってしばらく経ったある日、僕はひとりでこの花畑を訪れていた。だけど途中で道が分からなくなって、家に帰れなくなったんだ。
知らない街、知らない道、知らない人。
混乱していた僕はその場から動けなくなった。怖がる僕の手を引いてくれた母上はもういなくて、どうしようもない心細さだけを感じていた。
そんな時だ。
「ここにいた」
俯いていた視界の端に、綺麗な茶髪が見えた。この国では少し珍しい色。でもふわふわとした癖のあるその髪はとても綺麗で。惹かれるようにゆっくりと顔を上げた先に立っていたのは、僕よりも少し上くらいに見える君だった。
「ほら、おうちに帰りましょ」
優しく僕の手を包む君の手は、恐ろしく冷たかった。
「えっ」
「どうしたの?」
「君の手」
「あ、急に握ってしまってごめんなさい。あなたを探していたの」
そうじゃない、と言おうとしたが、それよりも僕を探していたという言葉が気になって、そのまま流してしまった。
「僕の家を知っているの?」
「ええ。だから一緒に行きましょう」
怪しい人にはついて行ってはいけない、というのは分かっていた。でも君の声には不思議な説得力があって、知らないひとなのに信じようってすぐに思えた。まるで、何かの魔法みたいに。
そうしてそのまま手を引かれて歩く内に、見知った道に出ることができた。確実に家へ近づいている。そうと分かれば緊張も緩んで、声を発する余裕も生まれた。
「君は誰?」
返事はない。僕を横目で見ながら、寂しそうに微笑むだけだ。
「どうして僕に話しかけたの?」
続けざまに発した次の質問には答えが返ってきた。
「あなたに会う為に、生まれたから」
「どういうこと?」
「到着すれば分かるよ」
「じゃあ、君は僕をいつから知っているの?」
「生まれた時からずっと」
なんとなくはぐらかされているような君の返答。
こんな風に、僕は君に出会った。
家の門のところにいた衛兵は君の顔を知っていて、その後すぐに通された父上からは君についての説明を受けた。
「これから、お前の世話係になる存在だ」
「よろしくね」
「世話係?友達とは違うの?」
「友達になりたいなら、なれるよ」
「好きにして構わないが、仕事のことだけは忘れるなよ、■■」
「もちろんです、陛下」
父上はこの時、君の名前を呼んでいた気がする。でも今の僕にはそれが思い出せない。頭に霧がかかったみたいに。
唯一、今わかることは、君の名前はとても綺麗で素敵な響きだったということ。だって、誰よりも綺麗な君に付けられた名前だったのだから。
「綺麗な名前だね」
「そうかな」
「どういう意味なの?」
「……。戦いのない世界、みたいな意味」
「やっぱり素敵な名前」
もしかしたら、僕がほめたその名前は、君にとっては呪いだったのかもしれない。素敵な名前だね、と告げたその時の君の顔は、消えてしまいそうな程儚くて、悲しげだった。そして僕は、それに気がつかなかった。
君が来てからの生活は、それまでとは全く違っていた、と思う。思い出した限りでは、僕の世界は君のおかげで変わっていた。毎日が楽しくて、君の笑顔は僕の世界を輝かせた。
あれ以来行くことができなかった花畑に、君とふたりで出かけたことがある。君に引かれるままに歩けば、花畑はすぐだった。
行き方についてもなんとなく思い出したが、それは記さないでおく。君が散ったあの場所を、他の人間に穢されたくないから。
「ほら、着いた」
「すごい、本当につけた!」
「次は間違えちゃだめだからね」
「■■がいるなら、大丈夫でしょ?」
「いつ、いなくなるかも、分からないから」
「いなくなったらだめ。ずっと僕のそばにいて」
「……約束は、できないかもしれない」
そうだ。君はいつも僕のことばかり気にしていた。自分がいつ消えてもいいように、ずっと、“友達として振舞っている世話係”として生きていた。
君は、あの未来が訪れることを、きっと知っていた。
「あなたのことを、教えてください」
ある時は、君は急に機械的になって僕について知りたがった。
「……どうして?」
「与えられた仕事の為に必要だからです」
「教えたくない」
「何故でしょうか」
「僕のことを知りたいなら……これから先、少しずつ知っていってよ」
「非効率的です。そして理由になっていません」
「友達は少しずつ相手を知るものだから」
「……承知いたしました」
しぶしぶ僕の返答を受け入れた君は、ぷつりと糸が切れたように眠りについて、次の日に目覚めた時には普段通りに戻っていた。それからも時々似たようなことがあったから、ある時僕は君に言い返したんだ。
「じゃあ、■■のことも教えてよ。自分のことについて教えあいっこしよう」
「そのような事をする理由が分かりません」
「僕だって、君のことを知りたいから」
「……では、あなたが教えてください」
「なにを?」
「■■という存在について。自分のことについては未学習です」
自分自身のことなのに、何も分からないだなんて。おかしな話だったが、今思えば当然だと思う。だって君は……いや、この話は今はいい。とにかく僕は、それから君に、君についての色んなことを教えてあげた。何かを知る度に君は学んで、その度にどんどん素敵な「女性」に変わっていった。そして僕もまた、君のとなりに相応しい男になろうと必死だった。
君は僕にとって、家族とも違うかけがえのない大切な存在になっていて、その気持ちは終ぞ君に伝えられなかった。
「■■は、自分の呼び方が分からないの?」
「うん、なにも教わってない」
「女の子なら、私って呼んだら?■■なら、そういう呼び方が似合うと思う」
「私……私はあなたの世話係……?」
「そう、やっぱり似合う。あとは、僕とは友達でいて欲しい。世話係じゃなくて。難しいかもしれないけど、固くならないで」
「……うん」
「名前は自分で決めたの?」
「ううん、生まれた時から決められていたの。■■は、私に願いを託してつけられた名前だって」
「そっか。やっぱり似合ってるな」
「そう思う、の?」
「うん。素敵な響きだもの。■■にはぴったり」
「……素敵じゃ、ないのに」
どこかたどたどしい口調。僕が教えたことの処理が追いついていないのだと、そんな楽観的な考え方をしていた。君は、僕が思っていた以上に心が発達していたというのに。
自分のことは分からないのに、苦しみの隠し方は知っていたなんて、君は本当にひどいひと。
……いや、これはただの責任転嫁。君が上手だったんじゃない、僕が気づかなかっただけだ。思い返せばすぐに分かる。君の精いっぱいの助けての手を、僕は取ってあげることができていなかった。
僕のせいだ。君があんな風に、悲しい結末を迎えてしまったのは。悔やんでも悔やみきれない。
この手記の最後に、僕らの生活を狂わせた「あの日」の出来事も記しておく。あれが、君にとって終わりの始まりだった。
✻✻✻
君が来てから数年が経った日だった。僕も昔よりは成長して、兄には及ばずとも強くなっていた。君も出会った時よりもずっと「女性」になっていた。
いつか俺たちを超えるんだぞ、と兄から何度も聞かされては頭を撫でられた。その手が温かくて、でもどこか消えてしまいそうな弱さも感じて、僕が安心と同時に覚えたのは言葉では表現できない不安。その不安が的中するのはもうしばらくあと。
あの日の夜、僕は寝付けなかった。今思うと胸騒ぎのような何かがあった気がする。暗い部屋のベッドの上で、ぼうっと天井を見つめていた。遠くで誰かが騒いでいる気がしたから身体を起こして様子を見に行こうとした時。急にノックの音がして君が入ってきた。どうしたの、と僕が口を開く前に君は言った。
「今すぐ逃げます。準備を」
「逃げるって、いったい何が」
君は友達としてではなく、世話係として話していたと思う。僕を主として敬うための丁寧な口調。それまでに何度か聞いたことはあったが、それはどれも言いつけを守らなかった僕を叱る時だけで、こんな風にその口調になることは初めてだった。その異様な状況に理解が追いつかなかった。
「つい先程城の門が破られました。国王陛下は別の者が先に退避させています。我々も敵に見つかる前に裏道から脱出しましょう」
「待って、そんな、嘘……」
「残念ながら。隣国が裏切って夜の内に進軍……我が国の王族を残らず殺すつもりかと」
「そんな……」
「逃亡先の準備はできています。最低限の荷物だけお持ちください」
あまり重い荷物は持って逃げられない。外は冷えるからと肩掛けだけ羽織り、昔母上からもらった国の紋章が刻印されたペンダントだけを握った。
君に手を引かれるがままに長い廊下を駆けて、隠し通路へ急いだ。その入口に立っていたのは騎士服を身にまとった兄上たち。
「本当に、宜しいんですね」
「ああ。弟を頼んだ」
「承知いたしました」
君と兄上のそんな会話が聞こえ、つい逃げる足を止めてしまった。
「どういうことですか、兄上」
「俺たちは城に残って敵を討伐する。お前を守るために」
「そんな、駄目です!僕よりも、兄上たちこそ逃げるべきだ!」
兄ふたりが僕のためだけに命を懸ける事実が信じられなかった。兄は僕よりも優秀だ。だが剣を腰にさげて僕を見つめる兄の瞳は決意に固まっていて、それが兄が僕の前からいなくなる暗示のように思えて、母上の時のように、また大切な人を失うかもしれない恐怖で身体が震えた。
「お前が生きることが、この国を守ることに繋がる。俺たちには王族の人間としてそれをする義務がある」
「僕じゃなくても、兄上たちが生きてくれていれば、国はいくらでも再建可能なはずです!僕よりも、兄上たちの方が……!」
「クレイオ」
静かに圧のある声で僕の名前が呼ばれた。
これから起こることへの不安と恐怖で、立て続けに兄の決意を否定する言葉を述べてしまった僕の耳にその声が届いた瞬間、はっとして口を噤んだ。
「この国にはお前が必要だ」
「どうして、ですか……」
「クレイオ、祝福の名を持つ王子。この国を祝福へ導く存在。お前が生まれた時、占星術師がそう予言した」
「お前がよっぽどの失態をしない限り、その占いに従ってお前が王位を継ぐ。そう決まっていたんだ」
「可愛い弟と生まれ落ちたこの国。守れるのなら、そんなに嬉しいことはないさ」
かっこいい。優しく頭を撫でてくれたたくましい手は、僕よりも大きくて温かくて、それでいて消えてしまいそうだった。
「さあ、完全に包囲される前に逃げろ」
「行きましょう、クレイオ様」
「……うん」
今の兄上たちは、きっと何を言っても動かない。
説得を諦めて、僕は促されるがままに抜け穴に入狭くて細い道を進もうとした。その時、うしろから、兄と君の会話が聞こえた。
「■■、お前だけは、ずっと弟の側にいてやってくれ」
「……約束はできかねます。クレイオ様を守ることが、私に託された仕事です」
「それでもだ。君の存在意義のことは知っている。だがそれは、弟を一人にすることとは関係ない」
よく聞こえなかったが、確かこんな内容だったと思う。その後、君もなにか言い返していたが、そこまでは聞こえなかった。
僕が進まずに止まっていることに気づいた君は、すぐに僕に声をかけてきた。危険だから早く逃げよう、と。
僕は小さく頷いて、最後に1度だけ兄たちへ視線を向けた。
「……兄上、どうかご無事で」
「お前も、ちゃんと生きろよ」
「城のことは任せろ」
そうして兄と別れた僕らは抜け道から城の外へと脱出した。まだ敵の手が回っていない広い中庭を走って、城の裏手に広がっている森に逃げ込もうとした。部屋にいた時はうっすらとしか聞こえなかった怒声が、よりはっきりと耳に届く恐怖で足が震えたが、気にしている時間はなかった。
城から出る直前、聞こえた言葉にぞっとしたのは忘れない。
「国王はいない!残っているのは第一王子と第二王子だ!」
「先に向かった隊がやられた!だが相手も手負いだ!数で押し切るぞ!」
「確実に首を取れ!王族は一人残らず根絶やしにしろ!」
兄上だ。戦っている。逃げようとしないのは兄たちが誇り高い精神を持っていたからだった。決して逃げず、卑怯にも裏切った敵国を正面から討つ。僕の憧れで、いつか追いつきたい存在。ああ、兄上たちはきっともうーー。
そんな僕の思いを君はくみ取ったのだと思う。僕の手を引いて森へ駆け込んだあと、身を潜めつつ辛そうな表情でこう告げてきた。
「この国が、いつか、こうなることは分かっていました。占星術師の予言はあたるそうです。クレイオ様、どうか必ず、生き延びてください」
そうして、長い夜が明けた。敵軍に怯えつつ進んで向かった先は例の花畑だった。城からはそう離れていないが、やけにたどり着くのに時間がかかった気がする。きっと、森の中ではあまり大きく動けなかったからだろう。
朝焼けの空に照らされた花畑は、前夜の戦乱が遠い昔の出来事であると錯覚させるほど綺麗だった。
「しばらくはここで暮らします。事態が落ち着けば、陛下が迎えに来てくださる算段です」
花畑をずっと遠くまですすめば、やや廃れた古い小屋があった。ここが新しい家だ。小屋の古さについては気にならなかったが、城に残った兄上や先に逃げたという父上の安否が心配で仕方がなかった。
そしてなにより、君が変わってしまった事実が悲しかった。前のように気さくに話をする友達だった君はいない。僕がその花畑で共に生活していたのは、常に敬語で、僕の身の回りの世話を続ける世話係の君だった。なんど言っても、君は口調を戻そうとしない。僕が城から逃げ出さなければならない状況になった時は、そんな態度になるよう教えられていたらしかった。
仲の良かった友達が急にいなくなった寂しさは、当時の僕にとって耐えがたいものであったけれど、それよりも国や家族が大変なことになっていると思うと、その寂しさは小さいものに感じてしまった。
一夜にして僕は、家族と祖国を全て失ったのだった。
そんな古い小屋に住む花畑での生活もあっという間に二年。最初は大変だった暮らしにもとっくに慣れた。
二年間、敵国の人間が攻めてくる様子もなく僕は平和に過ごせていた。あの後の国がどうなったかも分からない。家族がどこにいるのかも知らなかった。けれど、花畑から出ることも僕には叶わなかった。
花畑は外から完全に離されていた。簡単には入ってこられないし、花畑の中からは外がどうなっているのかも分からない。今考えてもやはり不思議な場所であった。だから僕は、何も知らないまま毎日を穏やかに花畑で生きていた。
そうして、最後の日がやってきた。
僕も何かやりたい、と頼み込んで、生活にまつわる仕事は全て分担。洗濯は僕の仕事。
その日も二人分の洗濯物を干し終えた僕は、小屋の中に戻って君が用意してくれたお昼ご飯を食べていた。
城に住んでいた頃の豪華な食事ではないけれど、君の料理はとても美味しかった。質素なテーブルに向かい合って座ると、僕だけが料理に口をつける。君は、いつも僕が食べ終わったあとに食事をしていたから。いつも通りの変わらない時間。
その日の君は、どこか硬い表情を浮かべて僕が食べ終わるのを静かに待っていた。
あの日も僕が完食して食器を片付ければ終わり、と思ったのに、君はおもむろに口を開いたんだ。
「今朝、陛下から連絡がありました。今日中にクレイオ様をお迎えにあがるそうです」
僕が二年間待ちわびていた言葉。父上が迎えに来る、国の再建の準備が出来た。兄たちが命を懸けて守ってくれた僕の使命を果たすときがやっと来た。その喜びで僕は言葉を失った。
そんな僕の様子は気にしなかったのか、君はこう続けた。
「陛下が花畑へお入りになられます。この二年間は幸運にも敵に見つかることはありませんでしたが、ここも完璧に安全な場所、というわけではありません。無事に陛下と合流できるまで、気を抜かないようにしてください」
使っていた生活小物は片付けて、荷物をまとめた。小屋をたつ準備は完了だった。あとは、父上の迎えを待つだけ。
そうして小屋の外で待ち続けて数時間、くらいは経っていたと思う。遠くから懐かしい人影が歩いてくるのが見えた。
やはり苦労が重なったのか痩せてしまっていたが、それは、紛れもなくかつて国王だった父上で。
再会の喜びで駆け出しそうになるのをなんとかこらえた。
「待たせたな、クレイオ。迎えに来るのが遅くなってしまってすまない。息災だったか?」
「はい、もちろんです。父上も、ご無事でなにより」
抱きしめあって、久しぶりの家族の温もりを全身で感じる。だがすぐに身体が離され、簡潔に伝えられたその時の状況。二年前に散り散りになってしまった、かつて国民だった人を集め、国家再建の見込みがたったそうだった。だが、例の敵軍が狙っているかも分からず、父上直々の僕の迎えはかなり危険だったらしい。それでも無理を言い、父上は僕を迎えに来てくれてきたのだ。
できる限り早く花畑を抜けて戻ろう、という話になり、僕らは急いで父上が来た道を戻ろうとした。父上の付き人に少ない荷物を渡し、足早に進んでいたその時。
「クレイオ様!」
君の叫び声に振り向けば、目の前には庇うように飛び込んできた君の背中。直後に嫌な金属音が響き渡り、出会った頃と全く変わらない姿だった君の身体に穴が空いた。僕の視界いっぱいに飛び散る、ネジや歯車や鉄の破片。
目を見開き、ゆっくりと流れるその光景を見つめる。
奥で銃を構えていた敵国の精鋭部隊の兵士全員が、君の腕から放たれた弾丸に貫かれて倒れるのも、見えていたよう気がする。
僕にはそこまで気を回す余裕がなかった。
「嘘……」
その場で崩れる君の身体を支えるが、君の動きは明らかに鈍くなっていて、相変わらず身体は鉄の冷たさを感じて、君が壊れてしまう恐怖で声が出せなくなる。
僕はしきりに、君の名前を呼んでいた。
ああ、そうだ。やっと思い出した。君の名前は。
「アテナ……!」
「……ごめん、ね」
うまく動かせない口でアテナが言った。胸には修復ができなさそうな、抉られるようにしてできた穴。右腕は高性能の銃へ切り替わっていて、元の手の形に戻る様子はなかった。
やめて、いかないで。
「全部、分かってたよ。私がいつかこうなることも。だって私は、戦いのために造られたから」
アテナの口調は、かつての友達に戻っていた。二年ぶりのその懐かしい話し方が、お別れの時だなんて。
言いたいことはたくさんあったが、彼女の声をさえぎりたくなくて僕は黙っていた。
「本当は、戦いたくなんてなかった。でも、最後にあなたを守れたのなら、この銃があって良かったって、そう思う」
カクカクと動く左手をなんとか僕の左手に近づけて、アテナはそっと小指を差し出した。僕も小指を立てると彼女の冷たくて固い指と絡める。
優しく絡められた指を見て、アテナは微笑んだ。
「私のこと、忘れないでね、約束だよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕はなんども首を縦にふって頷いた。そのままアテナは動かなくなり、やがて身体から微かに聞こえていた稼働音も止んだ。
風が吹いて花が揺れた。暖かい初夏の花の香りが運ばれてきた。
その場でつくった小さな花のブーケを、アテナの胸の上に置いた。彼女が、人間であった時と変わらないように。中の構造が見えてしまう穴を、花で隠した。
彼女の身体を運ぶことは出来なかったから、せめてもの追悼だった。
花で穴を隠された君は、やはり誰よりも美しかった。
そうして僕は、一番の友達であったアテナとお別れをして、新しい国の場所へと向かったのだった。
✻✻✻
……これが、僕が思い出していることの全てだ。
僕は今、ひとり自室で、これを書いている。あの後、僕の記憶からアテナのことだけが綺麗に消えてしまっていた。それを思い出して、ペンを握ったというわけだ。
なぜ、彼女のことだけをこんなにも忘れてしまったのか、その理由をずっと考えていた。
そうしてふと部屋を見渡した時、可愛らしい花が飾られているのに気がついた。微かに光る不思議な花弁。これは、あの花畑の花だ。
無事に父上と再会した後に教えてもらった。「未知の花畑」には不思議な力が宿っている。愛するひとにそこに咲いた花を贈ると、その相手を護ってくれるというものだ。加護の力、と言えば聞こえはいい。僕があの花畑で二年間も過ごせていたのも、そのおかげだった。でもその加護の力が、常に相手が望んでいる方向に作用するとは限らない。
そう、つまり、僕は父上に護られていたんだ。アテナのことを忘れることは、僕の心の安定を保つことだから。でも僕は思い出してしまった。アテナとのことを。アテナが、僕にしてくれたことを。
アテナについての記憶は、僕にとって命よりも大切なものだ。だから僕は、いかなければ。この大切な記憶を抱えて。国の再建は無事完了し、僕の祝福の役目は終わった。こんなことをやれば兄上たちに怒られてしまうかもしれないな。
機械である彼女と同じ場所に行けるのかは分からないが、でも、少しでも可能性があるなら、僕はそこに賭ける。
この世界じゃなくてもいい。僕はまた、アテナに会いたい。
もしかしたら父上はこれに気づくかもしれない。また花の加護を僕に与えるかもしれない。だから僕は、忘れる前にここに記しておく。僕が忘れてしまった、アテナという存在がいたことを。
もしかしたらこの手記は、父上に隠されてしまうかもしれない。でもそれは僕のことを思ってのことだ。父上は悪くない。記憶を失った僕は、それだけは勘違いしてはいけない。
ああ、もう時間みたいだ。僕は今から君のところへ行くよ、アテナ。
これをまた読んだ僕が、この感情を覚えているかは分からない。でも今の自分の気持ちに嘘をつかないために、書き残しておこうと思う。これが今の僕の最期の言葉だ。
僕は、アテナ、君のことが、好きだった。
友達ではなく、一人の女性として。
アテナのことが、大好きだ。
ーーーー
ーーー
ーー
頭の奥で、誰かが微笑む。
「忘れないでね、約束だよ」
ああ、なんと懐かしい声なのだろう。暖かくて、その声の主のことを考えると心が安らぐ。
だけど霞のように、その姿はぼやけて掴めない。
やめて。いかないで。消えてしまわないで。
僕は大事なことを忘れている。それは僕にとって辛い記憶で、でも絶対に目を逸らしてはいけないことだ。
思い出そうとすると消えてしまう。ふわりと漂う花の香りが憎らしい。
浮上した意識で最初に見たのは心配そうに僕の顔を覗き込む父上の顔。安心と同時に芽生えた一抹の不安に疑問を抱いた。
目の前の景色に、なにかが足りない。
大切な誰か。忘れてはいけない誰か。僕のそばにずっと居てくれた誰か。僕が約束を交わした、その声の持ち主。記憶がぼやけて掴めない。
君は、一体誰なんだ。
[終]
夏の花束を君に 幻夢 @phantomdream
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