異世界への使者episode1 灰色の目の猫

@wakumo

 異世界への使者episode1 灰色の目の猫

 異世界への入口は、苔むした古い木製の扉で閉じられている。人の丈に一メートル足したくらいの高さの丸い…ドーム型だ。先へ進むほどすぼんで小さくなっていく。最終的には一ミリくらいの出口が待っていてその高さに合わせて人は小さくなる。

 あくまで同じ距離感の天井が頭の上にあるから人は自分が小さくなった事に気づかぬまま、終点に辿り着く。そこは天国などと呼ばれがちだが、明らかに違う。生きてそこに辿り着いた者はいないのに知ったふうなことを語る奴がいる。はっきりと知る者はあくまで現世にはいない事になっている。

 そこへの案内役は猫が引き受ける。猫は不思議な言葉を使う。

「う~ん、言葉では無いかもな。テレパシーの様な、超音波の様な、はたまた念力の様な、音のない世界。耳で聞き分けられるものではない」

 と、目の前の老人は話す。    

 この部屋に来る前、私は深い闇の中にいた。そこから目が覚めるように意識が戻ると老人の話す声が聞こえた。その言葉がはっきりと聞こえるので、この老人が猫でも、此処がその異世界の入口でもないだろうと思う。  

 死んでいるのか生きているのかそれはわからない。重い空気の中、尋ねる機会を失っている。

 目の前に陶器のカップが差し出される。湯気が上がっている。この部屋は暖かい。パチパチと薪の弾ける音がする。この匂いは…ナラ材か…

「まあ、寛いで下さい。時間はたっぷりある。人は生き急ぐ、自分が何に突き動かされてここまで来たか振り返るのも良いものだな」 

 老人はブルーがかった灰色の目で口角を上げて笑った。

 珈琲を一口含むと、遠い記憶が鮮明に蘇った。景色の片隅で、消え入りそうな声が聞こえる。鮮やかな彩り…空が青い。ミッテンヴァルト駅だ。希望を胸に深呼吸した時、傍らの歩道の隅でないている仔猫の声が聞こえた。猫、なんて小さな。手をこまねいていると、勢いよく走ってきた子供が大きな声を上げた。

「ママン、こっちにもいたよ。良かった。見つけたよ」

 子供は躊躇なく抱き上げて大事そうに抱え、母親の方に駆けていった。

 ああ、良かった。私の出番は無かった。もし、誰も来なかったらどうしただろう…あの少年のように抱き上げるなど想像すら出来ない。荷物から放した両手を戻して慣れないことはするもんじゃないなとまた歩き始めた。

 結局、あの子供が来なくても、あの猫に関わろうとはしなかっただろう。それをもう一度溜息とともに確認した。

 師匠のアトリエは駅からそれ程遠くはない。所要時間は5分。小さな紙切れにシンプルな地図が描かれている。十字路には花屋があり、パン屋があり、確認のために顔を上げるとどの家も壁画が素晴らしい。思わず見とれて立ち止まった。これが話に聞いていた絵本のように美しい町並み。見とれて立ち止まりようやく工房の目印、アイアンで出来たバイオリンを見つけるまでに10分を要した。

「失礼します。今日からこちらにお世話になります」と奥に向かって声をかけると、

 ハーイと高い声が返ってきた。バタバタと出て来た奥さんの腕には、仔猫が二匹。

さっきの…猫か?そして、奥さんの後ろに隠れているのは、あの少年…その顔は私のことも覚えている。

 小さな命を前に躊躇する優柔不断な大人の姿をどう思ったか。旅人という事で見逃してくれないだろうか。

 続いてこの家の主である師匠が登場した。

「やあ来たね。よろしく。さあ、荷物はひとまずそこに置いて、裏に中庭があってね、その先が工房。厳しいマイスターがいるからしごいてもらうと良いよ」

 と言って手を差し出した。カサカサと乾いた職人の手だ。爪にニスがついている。嬉しくなって手を握り返した。

『とにかく一本仕上げてみよう!』と自分を励ます。あの猫も新人?猫二匹と同時にアトリエの住人になったわけで、私の影は薄かった。

 ふと、そんな風景を思い出した。長い人生の中でなぜあの場面なのか…

 カタン、大きな音がして軒に吊るされた看板が揺れた。

「なんの看板ですか?」

「看板?」

「ランタンの向こうで揺れている看板ですよ」

「ああ、昔は此処も流行った喫茶店でね。ハンドミルの絵が描かれているよ。喫茶店は看板がなくてもこの美味しい香りに惹かれるものだけど、この図書館の管理をしながら珈琲も振舞う。お客さんの思い出の香りを探して紅茶もジャスミン茶もいれますよ」

 老人こだわりの珈琲でもなさそうだ。しかし…

「私はこの珈琲の香りを覚えています」

 そんなわけない…

「珈琲の香りなんてどこでも同じですよね。猫が案内人と聞いて記憶の片隅の引き出しを開けてしまった。でなきゃ未だ珈琲の味もわからない頃の光景なんて浮かべるはずがないです」  

「そんな事はない。この珈琲は確かにあの時の珈琲そのものですよ」

「え…何故?」

「それは私が君の人生で最初に関わったあの猫だからです。懐かしい気がしたはずだ。出会った時の光景も蘇ってきたでしょう」

 最初に出会った猫…?

「ははは、なんの事だか訳が分からんでしょうね。少しは寛げましたかな?落ち着いたら行くとしよう。この扉を開けてみようか。その向こうに今話した。自分の背丈よりも一メートル高いくらいの苔むした扉が待っていますよ」

 老人は面食らう私を追い立てた。

 裏口から出ると、びっしりと蔦のはびこった細い路地が伸びている。行き止まりには話通りの古い扉があった。なるほど、私の背丈に一メートル足した位の高さ。これを開ける。すると…私は既に…

「死んでいるんでしょうか」

「さあ、どうかな。後悔することはない。死んだからとて人生が終わるとは限らない」

「え…?まさか、死んだのにまだ生きてないといけない?」

「そう言う心配する人が時々いる。死にたくないって、死んでその先どうなるか解りもしないのに不安がる。確かに経験したことの無いことに立ち向かうには気構えがいるが…

 しかし、たとえ寝込んでいたとしても、最後は突然訪れるものだから、心の準備などしようがない。冷静になってみても納得できることはない。

 あるいはせっかく人生終えたと思ったのにまた、新たな人生が続くなんて嫌だよって場合もあるのかな。人生簡単じゃない。それを簡単にと願う者もいる。

死んだらすべてから開放されるなんて虫が良すぎるじゃないか。

悪事を働いて人に迷惑をかけて絞首刑台に上がる罪人が、ああ、これで私の罪は全て消えて楽になれる。なんて思った日には、被害を受けたものは浮かばれない。でも、人が人を捌くのはそのくらいにしといてやらないと、今度は罰した者の罪が深くなって本末転倒だ。

 そこで、帳尻は合うようにしてある。悪いことをした者はそれに報いる転生を、穏やかに間違わずに生きた者はその感謝を受け取る来世が、約束されている。とな、

やり残したことはあるか。もう一度やってみたい事はあるか、会いたい人はいるか、考えながら歩くといい。この道の果てに答えがあることを祈って。さあ、行こう…」

 そう言い残すと老人は一瞬にしてブルーがかった灰色の眼を持つ猫に姿を変えた。そして、1メートルくらい前をトコトコと歩いた。

 猫…遂に登場。どうやら私は死んでいるらしい。しかし終わりではなくまだ続いている。このトンネルは長い。先はどれ程あるのか。

 あれこれ思い起こして話をすると的確な返事が返ってくる。ドイツでの修行を終えて日本に帰り小さな工房を持ったことも知っている。 

 この人?猫?まさか私と共に私の人生を歩んでくれていたんだろうか。

「驚くことはないよ。当たり前ってそんなに信用できる感覚でもないでしょ。え、そうでしょ。人によって違うんだから。当たり前を言い訳にして日々過ごしてるよね。誰でも不確かが不安だからね。

 自分の好きなことを貫けるのが一番強い。悔いを残さ無いためにはね」

「悔いはありませんよ。大した人生じゃありませんでしたけどね」

「それが最高です」

 猫は機嫌よく通路に響く声で笑った。

「この先に何があるか気にせずのんきに歩ける人は幸いだよ。だいたい猫と会話するなんてありえないこと、こんなに穏やかに出来ないのが普通。常識的に言えばね。あなたはなかなかです」

 私はこの猫との会話を楽しんだ。どんな場面も見逃さないでどこからか見守ってくれていた気がする。と、楽な気持ちになる。まあ考えたところで確かなことが分かるとは思えない。信じるのも難しい。何しろ猫とよもやま話をしているのだから。

 しかし、一つだけ違っていたのは、ブルーグレーの瞳の猫は、その後も普通に話し続け、一度もテレパシーを使うことはなかったという事。

 そして…初めて知ったのは、この先の一ミリ人間のパラレルワールドへの入口は想像もつかないところにあるらしいこと…

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