九章 宝剣の切れ味に体の震えが止まらない

 シン・グは私の視線を受けると静かにマスクを脱いだ。端正な作りをした、笑っているわけではないのになぜが、常に微笑みを含んでいるように見える顔が現われた。

 年齢不詳。

 国籍不祥。

 経歴不祥。

 何もかもが不詳。

 いつのまにか、《毒狼どくろ》に加わり、幹部のひとりにまでのぼりつめていた男。

 その男が発言したことで、それまで悄然しょうぜんとしていた幹部たちの間に安堵の空気が流れるのがはっきりとわかった。落ち着きを取り戻し、まるめていた背を伸ばし、椅子の背もたれにぴったりつける。怯えた小動物の群れが以前のふてぶてしい悪党に戻っていた。

 その男の、たった一言のために。

 ――こいつが動き出せばもう安心だ。

 誰もがそう思っているのがはっきりわかった。

 もちろん、私の心理はといえばその正反対だ。理想の未来への夢想にときめいていた私の心はたちまち冷えきり、寒風の吹きすさぷ荒野と化した。まるで子ジカが遊び、鳥がうたい、蝶の舞う緑の森がたちまちのうちに灰色の氷河におおわれてしまったかのように。

 ――そうだ。《毒狼》にはこいつがいた……。

 そのことを失念していた自分の愚かさに、私はみなに聞こえぬよう、小さく舌打ちした。

 シン・グをにらみつけた。シン・グは他の幹部たちとは異なり、私の視線を涼やかに受けとめていた。むしろ、自分こそがこの場の主人であり、部下の視線を受けとめているかのように。

 「何だ、ナンバー4」

 私は静かに尋ねる。

 シン・グはよく通るすずやかな声で言った。

 「私に自由じゆう裁量さいりょうを認めていただきたい」

 「なに?」

 「私にひとつの計画があります。それを遂行すいこうする許可をいただきたいのです」

 おお、

 と、他の幹部たちの間にどよめきが走る。

 「ナンバー4の計画か。それならばまちがいあるまい」

 「うむ。同感だ」

 「さよう、さよう」

 「総統閣下。ここはナンバー4に任せようではありませぬか」

 幹部たちがそれぞれにうなずき、賛同の声をあげ、私を見る。その目には許可を求める無言の圧力がこもっていた。

 「むう……」

 私は口ごもった。幹部たちを見まわした。だが、幹部たちはもう先ほどまでのように目をそらしたりはしなかった。平然と受けとめている。シン・グのたった一言によってすっかり自信と落ち着きを取り戻しているのだ。

 ――困った。

 私は思った。

 心からそう思った。

 シン・グの能力はみな、よく知っている。あれだけ怒ってみせた後でいわば《毒狼》の切り札たるこの男の参戦を拒絶したりすれば、不審に思われるだろう。悪の組織の総統としてはここでとるべき態度はひとつ、

 『おお、ナンバー4。そうだ、我が組織にはお前がいた。お前になら任せられる。ユーリとかいう生意気な小娘を倒し、《毒狼》の恐ろしさを満天下にしらしめよ』

 と、称賛し、信頼をよせ、諸手もろてをあげて参戦を歓迎することだ。そうでなくては『本当に世界征服をする気があるのか?』と、疑われてしまう。

 部下の忠誠心が揺らぎ、下剋上げこくじょうの対象とされてしまう。

 何しろ、筋金入りの悪党の集まり。隙を見せればすぐに喉笛に噛みついてくる連中ばかりなのだ。そうなれば正義の黒幕として悪党どもを管理することができなくなってしまう。それだけはさけなくてはならない。

 だから、私に選択の余地はなかった。即座に認めなくてはならない。だが、私はそれを承知の上でためらった。この男だけは、このシン・グだけは百合ゆりの前に立たせたくないのだ。

 こいつはちがう。

 こいつだけはちがうのだ。

 自分では利口なつもりでいてもその実、愚かで大馬鹿者の犯罪者とはちがう。正真正銘の切れ者。《毒狼》発展の立役者。この男抜きで強大なる犯罪結社、《毒狼》はあり得なかった。

 ――こいつだけはさっさと粛清しゅくせいすべきではないか。

 何度そう思ったかしれない。だが、できなかった。

 理由はふたつ。

 ひとつはシン・グが続々と世界中から悪党をスカウトし、《毒狼》入りさせたこと。

 『悪党を傘下に集めることで野放図のほうずな犯罪を減らし、他の地域の安全を確保する』というのが《毒狼》建設の理念。その理念を守るためには有能なスカウト役を失うわけにはいかなかったのだ。

 ふたつめは――こちらが主な理由なのだが――恐かったからだ。

 部下たちがどちらに従うかわからなかったのだ。

 いまや《毒狼》の中心人物の多くがシン・グのスカウトしてきた悪党で占められている。それ以外の悪党どもの信頼も厚い。シン・グは組織内に確固たる人脈を築いているのだ。そのシン・グを粛清しようとした場合、はたして部下たちが私に従うかどうか。

 その自信がなかったのだ。

 あるいは、シン・グを新しい首領として担ぎ出し、私をこそ粛清しようとするかもしれない。

 そんなことになったら最悪だ。《毒狼》は正真正銘の悪の組織となってしまう。表企業である聖狼せいろ超電子産業をも手中におさめ、表と裏、ふたつの顔を自在に駆使して世界を手に入れようとするだろう。そうなれば誰の手にも負えなくなる……。

 その危険があったから、私はシン・グを粛清できなかったのだ。

 私にできることはシン・グの上司として君臨し、可能なかぎり管理すること。

 それだけだった。

 それは高層ビルの間に張った細いロープの上を渡るような微妙な綱渡りだった。部下たちに真意を疑われることなくシン・グの悪事を制限しなくてはならなかったのだ。それも、シン・グが不満をもって下剋上をのぞむようになる範囲の手前で、だ。

 まったく、《毒狼》を運営していく上でこれほど気を使ったことはない。

 ……もっとも、そんな風に神経をすり減らしていたのは私だけで、シン・グはといえば常に飄々ひょうひょうとしてつかみどころがなく、涼やかな態度を通していた。

 出世欲があるのかどうかすらわからない。

 もちろん、そんなものはただの演技で、内心ではギラギラと野心を燃やし、『隙あらばとってかわってやろう』と思っているのかもしれない。決して警戒を怠るわけにはいかないのだが……。

 「……ナンバー4」

 私は内心の複雑な思いをマスクのうちに隠して言った。無意識のうちに指先で肘掛けを叩いていた。

 「お前の能力は承知している。お前がそう言うからにはさぞ見事な計画があるのだろうな」

 「はい」

 と、シン・グはうなずいてみせる。自信たっぷりと、ではない。もっと、淡々と、事実を事実としてありのままに報告している。

 そんな態度。

 それが恐ろしいのだ。この男は。

 私はこめかみにうっすらと冷や汗をかくのを感じた。

 「……しかし」

 私はなんとかこの男の参戦を疑われずにこばむ方法がないかと考えながら言った。

 「お前は我が組織の切り札だ。もし、お前までがユーリに敗北すれば《毒狼》の衰退すいたいは決定的なものとなる」

 「端から切り崩されていけば組織員は動揺し、士気が低下するは必定ひつじょう。そうなれば情報も漏れやすくなります。裏切り者が出る確率も高まるでしょう。そんなことになれば勝負をかけることなく《毒狼》は崩壊します」

 その通りだ、と、幹部たちが次々にうなずく。私も反論のしようがなかった。

 「それを防ぐためには早々に邪魔者を排除する必要があります。後になればなるほど組織の力は失われ、勝算は低くなります。いま、勝負をかけるべきです」

 「さよう、さよう。総統閣下。ナンバー4の言うとおりですぞ」

 「同感です。座して崩壊をまつよりは勝負をかけるべきです」

 「総統閣下はナンバー4の敗北を恐れてらっしゃるようですが、そもそもナンバー4が敗北するなどあり得ませぬ。我らが大望のため、ここは任せようではありませぬか」

 「むむ……」

 幹部たちは口々に賛同する。こうなってはいかに総統たる身でもこれ以上、反対するわけにはいかない。しかし、それにしても――。

 ――この悪党ども。なぜ、ここまでシン・グを信頼しているのだ。悪党なら悪党らしく、『これ以上やつに手柄を立てられては自分の立場がなくなる。自分の出世のため、やつの足を引っ張るべきだ』と考えたらどうなのだ。それをまるで信頼と絆で結びつけられた正義の戦隊のように自分たちの命運を委ねようとするとは。それでも悪党か! 恥をしれ!

 私は腹が立って仕方がない。

 だが、もちろん、そんな怒りをあらわにするわけにはいかない。私はやむなく言った。

 「……わかった。ナンバー4、お前に任せる」

 おお、

 と、幹部たちがどよめく。ナンバー4が参戦する。それだけでもうすべてがうまく行ったような気でいるのだ。

 シン・グは軽くうなずいた。

 「ご信頼いただき、感謝にたえません。では……」

 と、さっそくこの場を去ろうとするシン・グに対し、私はあわてて言った。

 「まて、ナンバー4」

 「なにか?」

 「ユーリは殺すな。捕らえるだけにしろ」

 「なぜ?」

 と、シン・グは微笑を浮かべ、小首を傾げながら尋ねてきた。その視線を見ていると何もかも見透かされているような気がしてくる。私は額を冷や汗が流れ落ちることをとめることができなかった。いまにも冷や汗をぬぐおうと動きだしそうになる腕をとめるのに必死だった。

 私は可能なかぎり平静をよそおって答えた。

 「しれたこと。小娘ひとりであんな真似ができるはずもない。バックには相応の組織がいるはずだ。その組織のことを白状させなくてはならん。そのために捕らえてこいと言っているのだ」

 シン・グは右手をあげた。人差し指と中指をそろえて前にのばし、こめかみのあたりでスッと空気を切ってみせた。

 「総統閣下のおおせとあらば」

 そう言って浮かべる微笑が私には魔王の微笑みに見えた。

 ……会議が終わり、幹部たちはみな、去っていった。残っているのは私ひとり。私はようやく、額を流れる冷や汗をぬぐうことができた。だが――。

 全身がカタカタと震えることをとめることはできなかった。

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