第2話
川の中で琴音は大きく息を吸った。小さくなった体は、全身で水を吸っているようだ。
深呼吸をする琴音にその母であるコモチが泳ぎ寄る。小さな琴音の体を抱きしめて、コモチは涙を流しながら言葉を絞りだす。
「本当に心配したのよ。こんなに長い時間、水から離れるなんて。苦しかったでしょ? お母さんいい過ぎた。ごめんね、琴音」
ぎゅっと抱きしめられながら母の声を聞いて安心し、恐怖が押し寄せてきた琴音は泣き出してしまった。
「ごめん、なさい」
しばらく泣いた後、母と娘は話し合った。
苦しくなる前に水の中に戻ること。人間と遊ぶにしても、川から離れすぎないこと。水の精だということをばれないようにすること。この約束が守れなかった時は、もう水の中から出ないと琴音は約束をして、漱と遊ぶことができるようになった。
次の日、その次の日と、琴音は漱が来るのを水の中で待っていた。
しかし、漱はもし琴音が水に浮かんでいたらと考えると怖くて、なかなか川に足を向けることができない状態にある。
結局、漱が川に再び訪れたのは、一週間を過ぎた頃だった。
漱がやってきたのを見つけ、琴音は離れたところで水から上がった。
「漱くん。もう来ないかと思ったよ」
背後から琴音は声をかけた。その声に漱はびくりと体を震わせる。恐る恐る振り返り、元気な様子の琴音にほっと息を吐く。
「そんなことないよ。ここは僕のお気に入りの場所だから。今日は何をしようか」
その日から二人はほぼ毎日一緒に遊んだ。
コモチとの約束を守り、琴音は遠くに行くこともなく、時間を忘れて長時間漱と過ごすこともしなかった。
水に入って遊ぶことが好きな漱と、決して水に浸かることができない琴音。
漱は琴音の気持ちを考えて、虫取りやボール遊びを選ぶ。
それでも、上流の水が広く深くたまっている場所で一緒に泳ぎたいなと会う度に琴音を誘った。
断るのは心苦しかったが、約束を破ればもう漱と遊ぶことができない。
それがわかっているから、なんとか琴音は断り続けることができた。琴音にとって漱との時間は日を追うごとに大切でかけがえのない時間になり、毎日漱がくることを心待ちにしていた。
「琴音ちゃん、今日はお別れをいいに来たんだ」
いつもよりも少し遅くにきた漱は琴音にそういった。
「どういうこと?」
顔を曇らせる琴音に、漱は少し前に両親から聞かされた引越しの話しをする。
「お父さんの会社の近くにお引越しすることになったんだ。今度は海の近くよってお母さんが教えてくれた。確か……」
うろ覚えの町の名前を絞り出し、漱は琴音に伝える。琴音は忘れないように何度も胸の中で町の名を唱える。
「もう二度と会えないの?」
「お母さんはここにはもうこないかもっていってた」
その言葉に琴音はもう二度と会えないのかもしれないのならと思う。
「わかった。今日は泳ごう」
漱の顔がぱっと輝く。
どうせ会えないのなら、漱がずっとしたいといっていたことをしようと、琴音は母との約束を破る決意をした。
川を上り、二人は泳げる場所を目指す。
目的の場所に着くと、漱はさっさと服を脱いで川の中に飛び込んだ。
泳ぐと決めて来たものの、琴音は水の中に浸かる漱をただ立って見ている。
本当の姿を見せて、漱になんといわれるのだろうかと琴音の中はその不安で一杯だった。
「琴音ちゃん、大丈夫だよ」
漱はそういって琴音に手を差し出す。水に入ることをためらう琴音を、漱は水が怖いのかなと勘違いしていた。
琴音はその漱の手を取ることを決めて、漱の元に思い切って飛び込む。
水しぶきが上がり、琴音の勢いで二人とも水の中に沈み込んだ。その中で漱は琴音の姿が変わっていくのを見た。
綺麗な黒の髪は青く波打ち、白のワンピースは水色になってたくさんのフリルが髪と同じく波打っているようだ。
広い空間に琴音は縮むことなく漱と向かい合う。
「ぶはっ」
水面から顔を出した漱は顔を伝う水を拭い、ゆっくりと顔を出した琴音を見つめる。
「琴音ちゃんの姿が変わった!」
興奮気味にいう漱に、琴音は不安げに言葉を返す。
「琴音を嫌いにならない? 怖いとか思ってない?」
漱はぶんぶんと首を横に振る。
「全然! 魔法みたいだった!」
その言葉は琴音の不安を溶かし、笑顔を咲かせた。
「漱くん、私速く泳げるんだよ。一緒に泳ごう!」
そういって琴音は漱に首に腕を回すようにいい、水の中をすいすいと泳ぎだす。
魚のように自在に泳ぐ琴音に掴まり、漱は引越しする不安も何もかもを忘れ水の中を楽しんだ。そしてこれが広い海だったならもっと楽しいだろうなと思う。
琴音は漱と一緒に水の中にいることが嬉しくて楽しくて、お母さんが来ませんように、今だけは邪魔しないでと強く心の中で願っていた。その感情を汲み取ったのかコモチは二人の前には現れない。
ひとしきり楽しむと二人は水から上がった。
「琴音ちゃんは水に入ると姿が変わるから、長いこと遊べなかったんだね」
はあはあと肩で息をしながらも、漱は言葉を発する。漱の中で今まで川の近くで過ごしながらも水の中には決して入らなかったことの理由がわかってすっきりしていた。
「ごめんね。今まで秘密にしてて」
その言葉に気にしてないよと、笑って首を横に振る漱。
「僕引越したら海にたくさん行こうと思う」
「海ってなーに?」
この川の中と森のことしか知らない琴音にとって海は未知だった。
「海はね。この川の先にあるんだ。だから引越したところとここは繋がってると思うんだ」
漱はわかる限りの説明をしたが、漱自身行ったことはないのでわからない。
「ねぇ、漱くん。私と約束しよ」
そういった琴音に漱は首を傾げる。
「この川の先にはほんとに、海っていうものがあるの?」
「うん、僕は、その海の近くに引っ越すんだ」
琴音は小指を差し出して、漱はどんな約束をするのだろうと思いながらもその小指に自分の小指を絡ませる。
「わかった。私、絶対に海に行くから。漱くんは、海で絶対に待ってね」
「僕、絶対に待ってるよ」
「忘れちゃダメなんだからね」
二人は固く約束を交わし、また会えることを全く疑わずにそれぞれの家に帰った。
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