ハム食べたい
ムラサキハルカ
ハムタイム
「別れよう」
カフェ内でビールの一口目を飲んですぐ、
「今なんて?」
「いや、別れようって」
恋人の淡々とした声音に薄っすらとした恐怖を感じつつも尋ね返した朱里に、聡は同じ調子でもう一度本題を口にされる。
「なんで?」
いきなり切りだされた話題に戸惑う朱里の前で、聡はジョッキの中身を半分ほどあおってから、机の上にゆっくりと置いた。
「心当たりはないか?」
「心当たりって言われても……」
ない、と言おうとして、いくつか胸の中でポップしてくる事案があるのに気が付く。とはいえ、朱里の中では、聡に露見していないと判断していることであったため、現時点ではしらばっくれるのが安定だなと目を逸らす。
「
あっ、これダメなやつだ。そう察した朱里は、肉っぽいものを食べたくなって、メニュー表に視線を落とし、生ハムの詰め合わせなるもの見つける。
「この名前に心当たりは」
「さあ、どうだろう。どっかで聞いたことあったっけ」
無駄だとわかりつつも、反射的にしらを切り続ける。
「出そうと思えば、証拠は出せるが」
「証拠?」
「なにがお望みだ。写真か? お前の友人の証言か? もしくは、茂田本人をこの場に連れて来ても……」
「ああ、わかったわかった。コーサン。浮気してました、ごめんなさい」
両手をあげて正面を見据えると、聡の無表情があった。
「わかってくれたか。じゃあ、別れ」
「浮気したことは認めるけど、別れるのはちょっと待ってくれない」
でなければ、色々と人生の計画が狂う。そんな計算もあり、朱里はなんとしてでもしがみつこうとと決める。
「茂田とはあくまでも浮気で、いわゆる……ツマミ食い、的な? やつだから。本気はあくまで聡だから、ねっ?」
「ねっ、と言われてもな」
「もうちょい、ぶっちゃけると結婚したいのも聡だから。ほら、付き合って十年くらいだし、そろそろだ一緒になるってのはどうかな」
ドサクサ紛れな上に、タイミング的にも最悪なプロポーズだな、と朱里は思う。案の定、聡の眼差しはより冷え冷えとしたものになったように見えた。
「今、結婚して、それで落ち着いたら茂田と」
「だから、茂田とは本気じゃないんだってば!」
不信感はより根深くなったようだった。これは一筋縄ではいかないな、と朱里は長期戦を覚悟する。
「何て言えばいいかな。お互い、いい大人で忙しいわけじゃない。その上、聡は出張が多くて私としてもけっこうさびしくなったりして、それでついつい魔が差して……その、ツマミ食いをね」
「その理屈で言うと、さびしいのは俺も一緒なんだが」
「それはそう。ただ、聡も知ってのとおり、私ってそんなに強くないからさ。そしたら、どうしても我慢が聞かなくなっちゃって……ごめんね、聡」
涙を流す。実際に悲しくはある。ただ、どちらかといえば、こんな状況に陥った朱里自身の情けなさという意味合の方が幾分か強かったが。暫定彼女の言に聡は目を閉じたあと、店員を呼んでビールをもう一ジョッキ注文したあと再び正面に向き直る。
「朱里」
「なに」
おそるおそる、といった体を繕いながら上目遣いをしてみせる。聡は相も変わらず無表情のまま、
「浮気相手と五年以上付き合ってて、ツマミ食いは無理がないか?」
よくよく考えてみればたしかにむちゃくちゃだと朱里は自省したものの、ここで撤回すると泣き損なため、もう少し突っ張れないかと画策する。
「心はずっと聡にあったから、何年浮気してようとツマミ食いはツマミ食いだよ」
「口ではなんとでも言えるよな」
ごもっとも。心の中で納得した朱里は小さく溜め息を吐く。
「じゃあ、逆に聞くけど、どうしたら私を信じてくれるわけ」
早くも策が尽きた朱里は、信じて欲しい相手であるところの彼氏に助力を求める。しかし、当の聡は仏頂面でジョッキを軽く傾けながら、
「どうしたら、と言われてもな。五年分の朱里の行いの積み重ねを見て、俺が信じられなくなったって話なわけで」
などと取り付くしまがない。もはや、交渉の余地がないという態度を露にしている彼氏に、朱里は理不尽だと自覚しつつ、少なからぬ怒りをおぼえる。
「とりあえず、お前と飲むのも今日かぎりだな。長い間」
「ねぇ、聡」
こころなしか低くなる声音。ごくりと唾を飲みこみつつ、覚悟を決めるように口を開く。
「私のこと、ちゃんと好きだった?」
「ああ」
一秒の躊躇いもない答え。正面に見据える男の表情には何の偽りも見受けられない。逆の答えを食らっていたら、どうしていいかわからなかった朱里としては、ほっとしつつも、まだ交渉の余地はあるのではないのか、というわずかな希望を見出す。
「ちなみに、参考までに、今は?」
「今も好きだ」
直球だった。ならば、別れる必要なんてないじゃないか、と飛びつきそうになってしまうが、
「それでも、最初にする決断が別れるなんだ」
十年以上の付き合いから、それを許す男ではないというのも知っているため、あえて遠回りを選択する。
「筋は通さないとな。俺では朱里を満足させられなかったみたいだし」
「だから、それは誤解だって。私がさびしさが負けただけで」
「だから、俺では色々と不足してたんだろ。つまりは朱里にふさわしくなかったってことだ」
なら、潔く別れた方がいいだろ。言い切る聡の表情が、こころなしか心細そうで、朱里は胸を締め付けられたような気分になる。もっとも、その原因は自らが招いたものであるのだが。
「もしも、仮にだけど……私と別れたら、聡はどうするつもり?」
「どうするもなにも、いつも通り働いて、食って寝て……あとは休みの日に実家の家族と過ごすくらいかな」
やっぱりか。聡の言を聞いて、朱里はある確信を抱く。
「聡はさ、私が何で浮気してたかわかる?」
「自分で言ってただろ。さびしかったって」
「何でさびしくなったと思う?」
「それも自分で言ってただろ。出張で」
「そう。それももちろん、あるけど。私が一番堪えたのはね」
言葉を止める。本当に口にしていいのか。みっともなくなるだけではないのか。朱里の中にある誇りの欠片のようなものが、この続きを話すかどうかを躊躇わせる。
しかしながら、このままで別れられてしまうだけだ、という端的な事実が女を奮い立たせる。それだけは許されない。
「聡がいつまで経っても晴香ちゃんとべたべたしてたことなの」
途端に目を見開く聡。理解不能と表情で語っている。
「待て。だって、晴香は」
「そうだね。晴香ちゃんは聡の妹だし、仲良くするのは自然なことなのかもね」
「だろう。だったら」
「けど、私の目から見て、兄と妹という枠を越えて仲良しに見えた。それこそ、恋人以上にね」
「誤解だ。普通の家族の範囲を出ないだろう」
少なくとも、聡がそう信じているのは間違いないようだ。だが、朱里の目から見えるものは異なる。
「会う度に熱い抱擁をかわすのは?」
「普通だろ」
「一緒にいる時は仲睦まじく腕を組みっぱなしで、晴香ちゃんにいたってはうっとりとした目で聡を見ながら髪や頬を撫でたりしてるけど、それは?」
「兄妹だったら珍しくないんじゃないか」
「抱擁の後とか別れの度に口と口でキスするのは?」
「海外じゃ普通だって聞いたぞ」
最後のはさすがにこの国では多少不自然だという自覚があるのか、聡は目を逸らした。一方で、妹との一連の触れ合いを大袈裟に考えていないというのも窺えた。
「ちゃんと思い返してみて。明らかに行き過ぎたスキンシップでしょ。慣れてる私からみても、付き合ってんのか、って疑いたくなるよ」
「兄妹で付き合うもなにもないだろ。あっ、けど、別に違法ではないって晴香も言ってたか」
今、気付いたという態度を見て、朱里の中にあったなにかが切れた。
「晴香ちゃんを呼んで! 今すぐに!」
「なんですか、朱里さん? たまの休日に兄さんが他の雌といちゃついてるのなんて見たくないんですけど」
うんざりとした様子の晴香は右掌で自らの波打ち気味な長い黒髪を撫でた。その後に左腕を目が泳ぎ気味の聡の右腕に回してみせたあと、唇に口付けようとする。
「さも、当然のようにキスしようとしない」
「なんでですか、海外では普通ですよ」
「ここは日本なの。あと、必要以上にべたべたしない」
「また、ダメ出しですか。束縛ばっかりしてるとそのうち、振られちゃいますよ。ねぇ、兄さん」
砂糖を吐きそうなくらい甘ったるく語りかける晴香。しかしながら、聡は答えを返せない。
「兄さん?」
訝しげな様子を見せる晴香を、朱里は睨みつける。
「今日、聡に別れ話を持ちかけられたの」
「それはそれは、とてもめでたいことですね」
「ちょっとは繕えや」
「嫌ですよ。兄さんに近付く雌豚とか、皆、等しくあたしの敵ですし」
面倒くさげに向けられる晴香の目からは、冷え冷えとした感情が余すことなく漏れ出ている。
「晴香、言い過ぎだ」
「そうかな。でも、兄さんが言うなら従うね」
まるで二重人格者かなにかだ。晴香の兄とその彼女に対して向けられる感情の変わり様に朱里は薄ら寒さをおぼえながら、この年下の女に対しては下手に出ても無駄だと判断する。
「話を戻すと、別れ話の原因は私の浮気だったんだけど」
「クズですね。最初から思ってましたけど、兄さんに相応しくない雌ですね、クズ。というわけで、さっさとあたしと兄さんの前から消えてください」
「お願いだから、最後まで話を聞いてくれないかな」
「なぜ? クズの話なんて欠片も耳に入れる価値などありませんが。ねえ、兄さん」
同意を求める晴香に対して聡は苦しげな顔をしたあと、首を横に振る。
「無理する必要はないんだよ。だって、そこのクズは兄さんを傷つけたんでしょ? だったら、許す必要なんてどこにもないよ」
「……こっちにもいたらないところがあったと思うから、話はできるだけ聞いときたい。それに」
「もしかして、まだやり直したいとか? ダメだよ、兄さん。この手の手合いは、一度甘いところを見せたら、何度も同じことをして兄さん信頼を裏切るよ。だから、血の繋がってない女の甘い言葉に乗っちゃダメ」
「甘い言葉を吐いてるのはどっちだよ」
睦言じみた晴香の言の葉を気色悪く感じつつ、声を荒げる朱里。
「邪魔しないでくれますか?」
「邪魔もなにも私の話は終わってない」
「それが邪魔だって言ってるんですよ。聴く価値がないんですから。さっ、行こう兄さん」
抱きついたまま聡を立ち上がらせようとした晴香を見ながら、朱里は溜め息を一つ吐く。
「晴香ちゃんは、自分の振るまいに疑問を覚えないわけ?」
「疑問? どこに?」
「晴香ちゃんの聡」
「クズが兄さんの名を呼ばないでください」
「への接し方は、どこからどう見ても、兄相手のものじゃない」
「言ってる意味がわかりません。妹と兄が仲良くするのはいいことじゃないですか」
ごまかし方から、目の前にいる二人の兄妹性を強く感じたあと、朱里はジョッキに残っているビール一口飲んでから、
「普通だったらね。けど、晴香ちゃんの聡への接し方は常軌を逸してる」
そう口にする。晴香が、普通でしょ、と応じるのに合わせて、追求を強める。
「私には晴香ちゃんが聡に向けている感情が、恋人に向けるものと同じに見える」
「話になりませんね」
「そう? 私の知っている兄妹っていうのは、恋人と同じ意味で愛し合わないと思うけど」
朱里の言に、晴香は唇の端を歪めたあと、
「やっぱり話になりませんね」
と告げたあと、店員を呼んだ。
「当たってないって言いたいわけ? 口ではどう言っても、あなたの行動は恋人に向けるものだと思うんだけど」
「そういうことじゃないですってば」
おかしげ口にそう口にした晴香、店員に対して、赤ワインと生ハムの詰め合わせを注文してから、朱里の方を馬鹿にするように見つめる。
「恋人とかそういう次元ではなく、あたしは兄さんを愛してる、と言ってるんです」
途端に抱きつかれている聡の目が驚愕に見開かれる。その横顔を愛おしげに見つめる晴香の顔に、朱里は少なからぬ恐怖を覚えた。
「冗談……ではないな」
長過ぎる付き合いから、聡は妹の本気を読みとったようだった。晴香は、ええ、と頷いたあと、
「困ると思って口にしてなかったの。ごめんなさい」
小さく頭を下げてから、薄く笑う。そこに悪びれる様子はどこにもない。
「もちろん、兄さんが嫌だというならやめるよ。そこのクズが言ってる、普通の兄妹とやらにでもなる。よくわかんないけど」
「いや……俺も普通とかわからないし、晴香は晴香だしな」
「そう言ってもらえると思ってた。だから、これからもよろしくね、兄さん」
「ああ」
恥ずかしげな顔をする聡とそれを慈しむように見つめる晴香。程なくして、二人の顔が重なりそうになり……
「ちょっと待った! 白昼堂々、私の前でおっぱじめるな!」
「邪魔しないでくださいよ。せっかく、あらためて愛を確認できて最高の気分だったんですから」
心底鬱陶しげな眼差しを向ける晴香の顔を指差した朱里は、そういうのだよ、と声を荒げる。
「いくら妹だとしても、あなたの兄の彼女として、そういう恋人まがいの態度が、前々から看過できなかったの。それこそ、実質浮気でしょ」
「尻軽なあなたと一緒にしないでくださいよ。それにもう彼女じゃないでしょう?」
「まだ、彼女だよ! 別れるって認めてないし」
「じゃあ、さっさと別れてください。そうしたら、心置きなくあたしが兄さんと愛し合えるので」
「尚更、別れられるかぁ! 私だけ損してるじゃない」
「損得でしか物事を考えられないなんて、器が小さなクズですね。いや、クズだから器が小さいのは当たり前でしたか。これは失礼しました」
「それ以前に別れたくない。結婚したいくらい好きなの! 愛してるの!」
「紙切れみたいに軽い言葉ですね。だったら浮気なんてしなければよかったんですよ」
「もう、とっくに後悔してるよ! それはそれとして、私以外の女といちゃこらしてるのは許せなかったの!」
「心が狭いですね。誰と付き合っていようと、兄さんが幸せなら認めればいいじゃないですか」
「本音は?」
「あたし以外の兄さんに近付く女は忌々しくて仕方ありませんね。兄さんが好きなら仕方がないですけど」
「ほら、同じじゃん!」
「同じじゃありません。愛の質と量に圧倒的な差があります」
「いくら綺麗に言い繕っても、晴香ちゃんも聡のこととられたくないだけじゃん!」
「当たり前でしょう。とはいっても、妹なあたしと兄さんは分かち難い絆で結ばれているんですが」
「ずるい、ずるいよ」
言い合いが熱量を帯びている中、赤ワインと生ハムがテーブルに届く。
「もう少しだけ、静かにしていただけると」
弱々しい声で注意されて、さすがに朱里も冷静になり、息を吐きだす。それは自然とヒートアップしていた晴香の方も同じだったらしく、来たばかりの赤ワインで口を湿らせた。
「……一通り聴かせてもらった」
厳かな調子で聡が口を開く。朱里は晴香とともに、恋人の方へと目を向けた。
「とりあえず、二人とも俺を好いてくれているのはわかった」
単純な理解。それはそれとして、気持ちの一端が伝わったことに、朱里は少なからぬ歓びをおぼえる。
「だから、自分から言っておいて勝手きわまりないが……別れよう、という言葉は撤回させてほしい」
「それじゃあ、結婚――」
「についてはもう少し考えさせてくれ。色々あり過ぎて今すぐにどうこうは無理だ」
「そうだね、うん。調子に乗ってごめんなさい」
しょぼくれる朱里。その対面で晴香が、いいの兄さん、と尋ねた。
「また、裏切られるかもしれないよ」
「心配、ありがとう。けど、その時はその時だ。今日はとりあえず、信じられるって思ったから、その気持ちに従おうと思う」
ダメかな、と問いかける聡に、晴香は、兄さんがいいなら、と渋々応じてみせた。その様子を見た聡が、なにかを思いついたように、そうだ、と口走る。
「無理にとは言わないが、できれば朱里と晴香には仲良くして欲しいな」
どうかな。弱々しげに頼みこんでくる聡の言葉を耳にした朱里は、晴香の方をちらりと見やる。オオカミのように忌々しげにみつめる眼差しに、いや無理でしょ、と言いかけたが、恋人の視線を感じて笑顔を繕う。
「そうだね。努力はするよ」
「ええ、兄さんがそういうんだったら」
同じ視線を感じとったらしく、晴香もまた作り笑顔を浮かべている。聡は困ったような表情を浮かべたあと、腹減ったな、と口にした。
言われてみれば、店にやってきてから、ビールくらいしか飲んでいない。気付くと同時に、朱里は自らの空腹に気が付く。そして、目の前には晴香の頼んだ生ハムの詰め合わせが並んでいた。顔をあげると、晴香が数度瞬きをしている。どこか兄の面影を感じさせつつも、かわいらしく仕上がった妹の顔立ちを率直に好みだと思いつつ、個人としては仲良くするのも悪くないような気がしてきた。ならば、その第一歩としてと口を開く。
「ねぇ、晴香ちゃん」
「なんですか?」
「私も生ハム食べたいんだけど、もらってもいいかな」
朱里の現に、晴香は全て心得たといわんばかりの穏やかな微笑みを浮かべた。
「えっ、嫌ですけど」
ハム食べたい ムラサキハルカ @harukamurasaki
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