木枯らしの獣 前編

はるより

怪物

 ヴィルは、木の根元に仕掛けられた罠を確認して怪訝そうに眉を顰めた。

 トラバサミと呼ばれるそれは、明らかに何者かに破壊された形跡があった。


 鉄製の『歯』の部分には、何かしらの動物の毛が僅かな血痕と共にこびりついている。

 ヴィルはそれを手に取り、観察して見るが……カルム村の周辺に住む獣で、このように黒々とした毛を持つ者は居なかったはずだ。


 そして、気になるのがトラバサミが破壊されているということ。

 しかもそれは力任せに振り解かれたというよりは構造上の弱点である部品の接合部を、明らかに狙って岩に打ち付けてたように見える。


 それが単なる動物的な行動ではなく知能を持った行動に感じるのは、考えすぎだろうか。

 ヴィルは周りを警戒するが、今の所は周囲に気になる気配はない。


「おい、ヴィル。向こうの罠もダメだった。同じように壊されてる。」

「……そうか。ありがとう、テッド。」


 そう言ってヴィルの背後に立ったのは、日頃から懇意にしているクラーク夫妻の夫、テッド……もとい、セオドアだった。

 眼鏡をかけた彼は、慣れない森歩きに少し疲れた顔をしていたが、文句の一つも言わずにヴィルと共に罠の確認をしてくれている。


 何故そんなテッドが今日はこの森の中にやってきているかというと、いつも彼と一緒にいる妻のエイラが、婦人検診のために一時的に都に戻るからであった。

 テッドはこれまでの検診の時と同じように彼女に着いていくつもりだったが、どういう訳か今回は頑なに断られてしまったらしい。

 それでヘソを曲げたテッドはエイラを見送った後に、一人で村にいるのも侘しくなり、ヴィルにくっ付いてここまでやってきたという事だった。


 二人のことが気になったヴィルは、どうしてテッドを置いていくのかとこっそりエイラに確認したのだが、どうやら今回の検診で彼女のお腹にいる子の性別が分かるらしい。

 都には、『産まれてくる子の性別をサプライズで発表するためのケーキ』というものが売っているとの事だった。

 どうやら切り分けたときに、中のスポンジの色でその性別が判明するという物らしいが……それをテッドにドキドキしながら確認して欲しいのだそうだ。

 当のテッドは除け者にされて不服そうだが、そういった催しを考えているなら仕方がないと思い、ヴィルは黙ってテッドの相手をする事にしたのだった。


 そういう訳で、折角だから猟の仕方でも教えようと弓矢を担ぎ、テッドと共に馬に乗って森までやって来たのだが……ヴィルにとっても予想外の事態が発生しており、困惑しているのであった。


「もしかしたら、何か危険な存在が辺りを彷徨いているかも知れない。僕はもう少し見て回るつもりだけど、テッドは先に村に戻っていてくれ。」

「……一応俺だって、村の中では若い方の男だ。いつも君に任せきりにするのは気が引けるよ。」

「でも……。」

「分かった、君から絶対逸れないように気をつける。それで良いか?」


 ヴィルは悩むが、今のテッドは少々意固地になっている節がある。

 もし今帰らせたとして、その後一人で森に入られてしまう可能性を考えると、余計に危険かも知れない。

 そう判断したヴィルは頷いた。


「十分に気を付けてほしい。もし何か不審なものを見つけたらすぐに知らせてくれ。」

「ああ、任せろ。」


 テッドが応えるのを確認してから、ヴィルはいつも通っている獣道を歩き始めた。

 それから小一時間ほど辺りを確認して回るが、時折鹿や猪の糞が落ちている事以外に特に目新しいものは無い。


「……ヴィル。何か聞こえないか?」

「うん……?」

「何か……機械音のようなものだ。」


 後ろを歩いていたテッドがそんな事を言うので、ヴィルは聞き耳を立てる。

 すると確かに彼が言うように、聞き慣れない甲高い音が微かに鼓膜に届いた。

 二人で顔を見合わせてその音の元を辿る。

 すると、急にひらけた空間に出た。

 森の中の一部の木を全て伐採して作ったようなその空間には、壁の一部が崩れた何らかの建物があった。

 規模自体はそこまで大きい訳ではなく、大体村にある一軒家を二軒分足した程度だ。

 壁の穴は、ヴィルの腰くらいの位置に人一人が潜れるくらいの大きさで空いている。

 ただ鉄とは違い、石や土でも無い素材で浮くられたその建物は、森の中に存在するには酷く不釣り合いな物に見える。


「こんな物、今まではなかったはずなのに……。」


 ヴィルは呆気に取られてその建物を見ていた。

 建物の壁には蔦のような植物が這っており、明らかにここ数日間で建てられた物ではない事が見て取れる。

 だが、この周辺はヴィルも立ち入ったことがある地帯のはずだった。

 その時にこのような目立つ建物が有れば、すぐに気がつく筈なのだが……まるで、『覆いに隠されていたかのように』その存在を認知することができなかった。


 機械音はやはり建物の内部から漏れており、壊れた壁の中を覗き込んだ限りでは、動く影は無いようである。

 ヴィルがテッドの顔を見ると、彼は「入ってみよう」と言った。


 確かにこんな怪しいものを放置しておくのは気が引けるし、村に帰っても他に応援を要請できそうな人物もいないが……ここで立ち入っても良いものだろうか。

 ヴィルは少しの間考えるが、答えは出そうもないため、テッドに同行する事にした。


 建物の中には窓がなく、今しがたヴィルが入った壁の穴から差し込む灯り以外は真っ暗である。

 異様な匂いが鼻をつき、嫌な予感がしたヴィルは、背後から続こうとしていたテッドを片手で押し留めた。


「……松明を出すから、良いと言うまでは待っていてくれ。」


 ヴィルがそう言って鞄から取り出した松明に火をつけると、辺りの光景が赤々とした光に照らされた。


「……!」


 普段から獣の血抜きを行っているヴィルにはある程度は予測できていたことだが、建物の内部は血の海であった。

 得体の知れない機械と、内側からひしゃげるようにして破られた大きな黒い檻、それからあたりに転がるいくつもの人間の骸。

 それが明らかに異様な光景である事は、間違いない。


「ヴィル、おい……大丈夫か?」


 テッドが不安そうに外から声を掛けてくる。

 大丈夫かと問われれば、恐らくそうでは無いのだが……彼にこのような様相を見せるべきか判断しあぐねていた。


「ああ、僕は無事だ。でも、多分……中には入らない方がいいと思う。」


 ヴィルはそう答えて、一番近くにあった女性の亡骸の傍にしゃがんでその様子を見る。

 恐怖に歪んだまま固まった表情が、何か恐ろしいものを見たということを、ありありと伝えていた。

 喉元が鋭利な物で掻き切られており、そこから流れ出た大量の血液が床に血溜まりを作り上げている。

 他の複数の人物も同じような死因で亡くなっているようだ。


 次にヴィルは壊れた檻の前に立つ。

 檻の高さはヴィルの背丈より少し小さい程度だが、鉄格子は1本が直径5センチ近くありそうだった。

 この太さの鉄を破ったとなれば、信じられない怪力か……それとも、それを成し遂げられるような『人智を超えた力』を持つかであろう。

 よく見ると鉄格子にも、トラバサミに付着していた物によく似た黒い毛が纏わりついているようだ。

 トラバサミを破壊して回ったのが、ここに居た筈の何か、である事は間違いないだろう。


 そして音を出している機械はその檻の隣に設置された物らしく、薄ぼんやりと光る小さなタイルのような物に、『α:LOST』『β:LOST』『γ:LOST』『ε:LOST』の文字が浮かび上がっていた。


 その場から松明を周囲にかざして見ると、少し離れた壁際に机が並んでおり、その上には大量の書類が散らばっているのが見える。

 そこへと歩み寄り、書類をざっと眺めて見ると……大きく『Plan to wither』と記載されている小冊子があった。

 ヴィルは目についたそれを手に取ろうとした時、建物の外から悲痛な悲鳴が聞こえてくる。


「テッド!」


 ヴィルは身を翻して入って来た壁の穴へと走る。

 飛び込むようにしてそこから外に出ると、地面に横倒しにされたテッドの上に、人の倍の大きさはあろうかという、毛むくじゃらの何かが覆い被さっているのが見えた。

 ヴィルは咄嗟に、手に持っていた松明をその獣に投げつける。

 獣は小さく呻き声を上げた後、首を後ろへ回してヴィルを見た。


 狼とも、爬虫類とも付かない異形の顔。

 顔面の左右についた大きな黄色い眼球は、こちらを向かずともヴィルの姿を捉えているようだ。

 口元にぞろりと生えた歯は一つ一つがまるでナイフのように鋭利で、新鮮な赤い血液で濡れている。

 そしてその歯の間に何かを咥えているのは分かったが、何かを確認する前にごくりと飲み込んでしまった。


 ヴィルはあまりにも化け物じみたその存在とあたりに立ち込めた死の匂いに、本能的に恐怖を覚える。

 しかし友人が襲われているというのに、自分だけが逃げることなど出来ない。

 せめて、少しでも隙を作らなければ……そう思ったヴィルは、背負っていた弓を引き抜き、矢を番えた。


 しかし、その黒い……怪物は、まるでヴィルにも、目の前で血を流して痙攣するテッドにも興味を失ってしまったように、二人から視線を外し、木々の隙間へと走り込もうとする。


「待てッ!!」


 ヴィルは怪物の背に矢を放ち、それが突き刺さるのは見えたが、対して苦しむ様子もなく……黒い影はその場から姿を消してしまった。

 呆然とするヴィルだが、すぐに正気に戻り、テッドの元へと駆け寄る。


「テッド、テッド!しっかりしてくれ!」


 ヴィルは先程まで何食わぬ顔で会話していた友人が血の海に沈む光景に大きなショックを受けながら、手を握って呼びかける。

 力を失った彼の姿に、一年前のパブでの出来事が脳裏を過り、吐き気を伴う眩暈がした。


 眼鏡はどこかに吹き飛んでしまったようだが、彼の焦点が合わないのはきっとそれが理由ではないだろう。


 とにかく応急手当てをしなければ、とヴィルは上着の布を割いて、少しでも出血を抑えるためにテッドの胸元に開けられた穴の周囲の動脈をきつく縛る。

 この程度の処置で助かる傷であるとは到底思えなかったが……何もせずに見ている事はできなかった。


「頼む、君を外に置いて行った僕が悪かった、だから……!」


 ヴィルが涙声になりそうなのを堪えつつそう呼びかけていると、テッドの口が僅かに動いている事に気がつく。

 はっとして、すぐにその口元に耳を寄せてみると、囁くような音量でいくつかの言葉が聞き取れた。


『エイラ』『キャラバン』『早く』……。


 徐々に途切れ途切れになっていくテッドの言葉に必死で耳を澄ませるが、ヴィルがそれ以上を理解する事は出来なかった。

 彼は唇を噛み締め、ぐったりとしたテッドを抱き上げると、森の入り口へと走る。


 森から出ると、馬繋場で待たせていたガウナが不安げに嘶いていた。

 ヴィルはガウナを構うのもそこそこに、縄を解いてテッドを抱えたまま、その背に乗り込んだ。


 少しずつ速度を上げていくガウナ。

 ヴィルはカルム村を目指しながら、真っ白になりそうになる頭で、次に自分が何をすべきかを必死で考えていた。

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