第6話

こんにちは。僕の名前は、

一ノ瀬 翠です。



これは、僕の独り言です。

斉原さんにはひとつも言っていません。

僕が手話を覚えたころにでも、

話そうかなって思ってます。



僕なんて言ってますが、実は女です。

隠さなければいけないことだってあるんです。



僕は、生まれた時から母子家庭でした。

短いときは3ヶ月、長いときでも1年ほどで、

新しいお父さんが来る生活をしていました。



いつか来るお別れがすごく悲しくて、

あんまりお父さんと仲良くできません。


お母さんはそれが気に食わないらしく、

毎日とまでではなくとも、殴ったり蹴ったり、無視したり罵倒したりされる日々が続いていました。



同級生たちが中学を卒業するころ、僕はついに開放されたんだと思いました。

新しいお父さんがもう家に来ることがないばかりか、お母さんも家に帰ってくるのが3日に1度、週に1度、月に1度......と減っていきました。



そしてもう、一度も帰ってこなくなったんです。

私ひとりでの生活が始まったんです。



最初はすごく楽しかったです。

好きなものを食べて、好きな時間に寝て。

家に友達を呼んで、遊んだりもしました。


お母さんがいないから、

痛くもないし悲しくもないんです。


寂しくなるかなって思ったけど、思いのほか大丈夫でした。


お母さんがいたころでは、どれもこれも決して叶わなかった夢でした。



でも、時間が経つにつれて、生活の厳しさを実感しました。

食費や光熱費などの生活費が、

貯めていた私のお年玉じゃ足りなくなったんです。


月ごとに払う学費も、払えなくなりそうです。

学校になんて、行けなくなったんです。

友達を頼る訳にもいきません。

こんな話を聞いて、具体的に力を貸してもらおうなんて、僕にはとうてい、差し出がましいと思ったんです。



もうお金が底をついてしまいました。

最近の話です。

私は、自殺を決意しました。


少し早いかなって思いました。

でも、そんなことも言っていられません。

生きてたって、生活できないなら死んでいるのと同じなんです。

死ぬより、つらいかもしれません。


こんなとき、家族がいれば、何ともなかったんだろうなって。

自分勝手な話ですが、

そう思いました。



私は、屋上への階段を歩きました。

このまま、誰にも見られないで、都会とも言えないこの建物の屋上で、飛び降りて死んでやろう。



私が死んだことを知ったお母さんは、後悔してくれるかな。

私が死んだことを知った友達たちは、悲しんでくれるかな。


たぶん、どっちもないんだろうな。


呼吸を荒くして、そんなことを考えていました。



屋上に着きました。

でもそこには、先客がいたんです。


なぜかは分からなかったけれど、今まで誰にも話せなかった私の悩みを、話してもいいかなって、直感で思っちゃったんです。

歳もすごい離れているし、普段だったら絶対話さないんだろうけど、思わず、声をかけてしまいました。

もしかしたら、本当は私も、そうして欲しかったからなのかも知れません。



でも、驚くことに、

その人は声が出せなかったんです。



その時思い出したんです。

この人は私の......僕、の...。



僕は、その人のためになろうと思いました。

どうしても、その人と話したかったんです。



だから僕は、小さい頃に唯一お母さんに教えてもらった料理と、1晩かけてがんばって覚えた拙い手話を、その人にプレゼントしたんです。

喜んでくれたみたいで、嬉しかったです。



それと、あの人の名前、実は僕、知っていたんです。

だからやっぱり、僕の勘は、とっさに隠した僕の勘は、正しかったんだと思います。

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