続・カフェ巡り2(本編・前半戦)
私の用件は17時には終わっていた。出先で時間を潰す術を持たないので、無計画に目的地に直行したところ、待ち合わせの40分以上前に最寄駅に到着した。蒸し暑い中、道に迷った体を装いながらゆっくりと歩みを進め、途中のコンビニでペットボトルのお茶を買って時間を稼ぎ、徒歩5分と説明された距離に10分以上費やしてなお、30分の余裕を持って予約した店に到着した。入口がわかりづらくて少し躊躇したりしながら入店し、ドアに付けられた鈴の音に呼ばれて出て来た店員に18時30分からの予約であることを告げたところ、席の準備が出来るまで少し待つように促された。
入口横に待合スペースのような場所があって、備え付けの椅子があったのでそこに腰掛けてスマホをいじっていたら、躊躇いがちに引き戸をゆっくりスライドさせる音と控えめな鈴の音が連続した。新しい客だ。これがS・Tだったら気まずいから嫌だな、という思いが脳裏を過ったのと同時、どうせこういう嫌な予感だけ当たるのだろうという根拠のない確信も芽生えていた。スマホから顔を上げてちらりと様子を伺うと、店に入って来たのは、全体的に暗めの色調の服を着た眼鏡の女性だった。霞ヶ関で仕事をしていると言われてもおかしくないが、私の中の勝手なS・T像とはかけ離れていた。背が低く、ショートボブで、顔立ちは怜悧というより愛嬌のあるタイプのように見受けられ、地味な服装の割に、幸が薄そうな感じがない。ただ、不思議と理系っぽくはある。
「18時30分からイマサコで予約してあるはずなんですが」
思ったより低い声で店員に告げたので、誰がどう考えてもS・Tであることは間違いなく、察しの良い店員が「お連れ様がそちらに」みたいなことを言いながら私のいる方を指し示し、別に死角に隠れていたというわけでもないのにひどくバツの悪い思いをしながら私は慌てて立ち上がった。
「あ、どうも、はじめまして。今迫直弥です」
当然、本当は本名を名乗りながら、私は、間を持たせるためだけに、名刺入れから名刺を取り出した。
S・Tは、一瞬だけ確実に、こちらを値踏みするような冷めた視線を投げた後、如才なく名刺交換に応じてくれた。
「はじめまして。S・Tと申します。今日はご足労いただいてありがとうございます」
完全な余談だが、S・Tの名刺に書かれている所属と肩書きについては絶対に公開するなと念を押されている。名刺を配った相手の情報についても所属で共有把握しているとのことで、私は返却を申し出たのだが、あえなく却下された。
「こちらこそ、無茶な面会に応じていただいて、本当にありがとうございました。随分早いですね。時間休ですか?」
「そうです。1時間休みをとりました。近いんで、とらなくてもギリギリ間に合うんですが、庁内に残ってると仕事しちゃうので、あえて。早く出て、歩いたらちょうどくらいの時間になるかと思ったら、早く着きすぎました」
「え、霞ヶ関からここまで歩いて来たんですか? この暑さの中?」
「暑いの結構得意なんです。好きではないですけど」
やはり一筋縄では行かない人間のようだ、と私は警戒のレベルを少し引き上げる。ただ、私は女性と話すのは得意でないが、変人と話すのは得意な方なので、差し引きプラスくらいになるのではないか、と漠然と感じた。
お席の準備が出来ました、と店員が案内に来るまで、私はS・Tと普通に会話を続けた。『カフェ巡り』を書き上げた時点では、正直、黒幕的な存在だと思っていた人物を前に、私は雑談用の会話デッキで相対していた。そもそも、敵対するために誰かと対面できる度胸など私にあるはずがないので、これが既定路線であるような気もした。
個室に着いておしぼりで手を拭きながら、最初はビールで良いですか、とS・Tが尋ねてきた。S・Tがお酒を飲むということは事前に聞いており、だからこそ日本酒が美味しい店をチョイスしたわけだが、本人を目の前にすると改めて意外に感じた。
「ビールで大丈夫です。たくさん飲むようなら飲み放題とかもあるみたいですけど」
「どうせ、良い日本酒はラインナップに入ってないですし、時間制限もつくので、やめておきましょう」
「時間制限ですか。2時間制、ラストオーダー1時間30分、みたいです」
「全然足りないと思います。いや、お酒が、という意味でなく。肝心のお話の部分で。予言しておきますが、今日は長くなりますよ」
下読みの段階でS・Tから、「私は予言なんて言葉は絶対に使わない」という物言いがあったことから、この台詞は私の(良くない)誇張表現によるものらしいのだか、結果的にこの予言は的中し、我々はこの後5時間近く店に居座る流れとなる。
私は、優柔不断な上に食へのこだわりが一切無いので、居酒屋の注文を任されるのが本当に苦手なのだが、S・Tはありがたいことに、躊躇なく即断でセンスの良いものを注文できるタイプの人間のようだった。事前のイメージはあてにならない。
お疲れ様です、という曖昧な乾杯の発声があって、上品なグラスに入ったビールを片手にお通しをつまみながら、「本題に入る前に」とS・Tが私の別名義の話を振ってきたので、私は虚を突かれた。
「実は、学生時代、見てました。学校の友人の間で流行ったことがあって」
「学校って、高校ですか? ……なるほど、そういう世代か」
面倒なのでざっくり説明してしまうと、私の別名義は、某動画サイトで「嫌儲」という文化が蔓延り、演者側が運営に金を払って配信していた古の時代の亡霊であって、興味のない人間にとっては結局無名に等しい。多くの配信者はプラットフォームをYouTubeに乗り換え、私の昔の仲間もそちらで成功しているが、私自身はその前に「船を降りてしまった」人間だ。就職してから、私の別名義を知っているという人に会うことは初めてではなく、親しい人間には自ら暴露することもあるくらいだが、私にとっては黒歴史に近いので、毎回複雑な気持ちになる。
当時の話を少し続けた後、
「霞ヶ関で会った時、Nさんと少し雑談をしたんですが、その時にも名前、出てきてましたよ。大学時代、研究室の先輩だった人が元・××××のメンバーで、友人の男性を紹介してもらったことがある。何なら、それが今の旦那だ、と」
S・Tが急に核心に切り込んできたので、私はさすがに絶句した。
「……Nさんの夫、つまり被害者ともお知り合いのはずなのに、カクヨムの投稿作品にはその旨全然出てきませんでしたね」
S・Tが、フィクション世界にしかいない名探偵みたいなやり方で私の痛いところを突いてきた。狙ったことではない、と言っていたが本当だろうか。
「……いや、違うんです。いや、違わないんですけど、その、わけがあるんです。言い訳させてください」
「聴きましょう」
「絶交したんです」
「……はい?」
「Nの夫は、確かに私の高校時代の友人です……でした。彼氏が欲しいと言っていたNにその人物を私が紹介したのは事実です。ただ、その後、色々あって大喧嘩して、リアルでもネット上でもバチバチにやりあって、ちょっともう相手にしたくない、正直しんどいな、と思って、一切の関係を断つことにしたんです。電話は着信拒否、SNSは全部ブロックしてます。あの事件が起きるまで、十数年間ずっと。大学院卒業以来、Nと連絡しておらず疎遠になっていたのも、その辺りが理由です。……二人が付き合い続けていて、その後、結婚して子供が産まれたということも、まあ、風の噂では聞いていましたけど、結婚式には当然呼ばれてないですし、葬式にも行ってないですし、まあ、どっちも呼ばれたとして行かなかったとは思いますが、そんな感じだったので、話題にもしたくなかったというか……。究極的には、あんな奴、紹介しなければ良かったという後悔しかないというか……」
「Nさんとの間でも旦那さんのことは話題にならなかったんですか?」
「……私があいつと絶交してることは当然Nも知ってましたから、メールでやり取りしてる時は、全く。ただ、ネットカフェで話した時には、さすがに出てきました。作品中では、確か、今は旦那との仲も良好だ、みたいなことをしゃべっている簡単な描写だけになってますが、結構な愚痴を聞かされましたし、私も一緒になって悪口を言ってました。それも、少し後悔しているポイントです。Nの害意を、私が加速させてたんじゃないか、と。私が、絶交した友人を少しフォローしつつもNを宥めるという、神がかり的なファインプレーであの場を上手くまとめていたら、事件は起こらなかったんじゃないか、と。Nの夫のことは、正直今でも大嫌いですが、殺されるほどではないと思ってます」
「……『悪人なら死んでも良い』わけではない、と?」
「死んでも良い人なんていないですよ。ただ、死んですら語りたくないと思える人がいる、という話です」
私は自虐的に少し笑うしかなかった。S・Tは、まだどこか引っかかりを覚えているような顔をしていたが、端末のタッチパネルを利用して飲み物のお代わりを探し始めた。私は、心のざらつきを塗りつぶすために、無性に何か書きたくなっていたが、常人には理解しがたいその衝動を受け流し、ハイボールを注文するようS・Tに頼んだ。
「私からも一つ、言い訳させて下さい」
二杯目の飲み物が届く頃、えいひれを齧っていたS・Tが切り出した。
「はあ、どうぞ」
「Nさんとカフェ紹介サイトの件で、Nさんに伝えられなかった話があります」
「伝えられなかった話?」
「私は、SNSでカフェ巡りが趣味の『犯罪を犯すリスクが高そうな人』を見つけ次第積極的に声掛けを行っており、そのうちの一人がNさんだ、というような説明をしたのですが、それは全くの出鱈目です」
「え、出鱈目なんですか?」
「ああ、特定のカフェ紹介サイトが犯罪を惹起するという仮説自体が出鱈目ということではないです。声掛けによって広く注意喚起しているという部分が嘘です。私は、犯罪を未然に防ぐためにプライベートを全て投げ打つような正義の味方ではないですし、逆に、危険なカフェの話を伝えることで犯罪の三要件の『正当化』を与えて殺人を誘導して回っている危険人物でもないです。……今迫さんは、それを疑っておられたわけですよね?」
「いや、まあ、少しだけそれを匂わせるような書き方はしました、はい」
「……結果的に、仕方のない部分はありますが、本当に、謂れのない誤解です。そんな意図は全くありません。私がこれまでダイレクトメッセージを送ったのは、Nさんだけです」
「どういうことですか?」
「単に知り合いなんです。Nさんは。中学の時の先輩です」
「え?」
私は、意外な成り行きに面食らった。
「Nはそんなこと一言も言ってなかったですが」
「……気付いてなかったんです」
「気付いてない?」
「ご存じかもしれませんが、Nさんは中高一貫の私立の女子校出身です。私が中学一年生の時、Nさんは高校三年生でした。私が新入生の時、NさんはESS(英会話クラブ)の部長をしていました。Nさんの部活紹介スピーチを聞いて、私はESSに入ることを決めました。この学校にはこんな格好良い人がいるんだ、入って良かった、と心から思いました」
リア充が好む少女漫画みたいなキラキラしたエピソードだな、と私は鼻白んだ。
「私の学校のESSは大所帯で、当時一学年20人くらいいました。学年が離れすぎていたこともあって、Nさんとの接点がそれほど多くなかったのは確かです。ただ、当時は沢山の部員の中の一人として可愛がってもらってました。Nさんは手の届かない憧れの先輩、みたいな感じでした。卒業式の後、一年の皆でプレゼント渡しました」
「でも憶えられてなかった、と。二十年も経てば仕方ない……のか? 名前まで忘れるものかね?」
「中学三年の時、親が離婚して、苗字が変わったんです。私の前の苗字は●●●●●と言います」
「え、何て言いました? どんな字です?」
それは、口頭で説明されてもわからない、見たことのない漢字を含んだ珍名だった。後で調べたところ、全国で十世帯ほどしかいないらしい。
「だから、昔の友人は全員私のことを●●ちゃん(苗字の頭文字二文字が、ちょうど女性の名前みたいに聴こえる)と呼びます。ESSでもずっとそのように呼ばれてました。Nさんも、勿論」
「で、今は別の苗字で、下の名前は、まあ、男性にも使われる字面ではあれど、珍しくはないのでNの印象に残っていなかった、と」
「たぶん、そういうことだと思います。でも、正直ショックでした。ダイレクトメッセージの時点では気付いてもらえてなくても、会えばさすがに気付くんじゃないかと思ってました。会っても何も言われませんでした。『カフェ巡り』の、Nさんが私を評する描写、あれもかなり堪えました。私、そんな風に見えますか?」
該当部分を拾ってみると、『眼鏡をかけた大人しそうな女性…(中略)…いかにも理系、切れ者感はある、合コンとかには誘っても絶対に来ないタイプ』となっている。
「あれについては、すみません。たぶん、私の筆が滑って、勝手な印象で、結構盛ってしまったと思います。Nが本当にどう言ってたかは、ちょっと憶えてないです。S・Tさん、そんなに大人しそうにも見えないですし、合コン来そうですもんね」
「フォローになってます、それ? ちなみに合コンは行ったことないですけど」
「へえ、意外ですね。いや、私の想像上のS・Tさんなら意外ではないのか」
「……女性の情通(情報通信)職員に対する偏見がありますね」
「私の情通の同期の女性も、もうやめちゃいましたが、アパレル系みたいな人で、全然『いかにも理系』な感じじゃなかったんですけどね。人間の把握能力が低すぎて、無意識に、相手のことを肩書から連想するステレオタイプに落とし込んでいくんだと思います」
「多かれ少なかれ誰だってそれはありますし、否定はしないですけどね。私も、今迫さんは肩書と経歴から、もっと全然ヤバい人だと思ってました」
「いや、もっと全然ヤバいんで多分合ってますけど」
S・Tはそれを聞いて、まるで共犯者を見つけたみたいな笑い方で微笑んだ。
「話を戻しますと」
「はい」
「私がNさんにDMを送った理由は、要するに昔の知り合いを助けたかったからです」
「助けたかった?」
「はい。あんな話をすれば、気持ち悪くなって、カフェ巡りをやめるか、最低でも、Cを参考にカフェを選ぶのをやめるかすると思いませんか」
「実際、Nはカフェ巡りやめてますね」
「そうなんです。そもそも、因果関係があるかわからないという部分は置いておいて、私としては、上手くやれるつもりだったんです。Nさんが、私の言うことを信じてくれなかったら、私がESSの後輩だって明かして、それで何とか説得するつもりでしたし。でも、話をしたら、想定より真剣に取り合ってくれたというか、なんかすごくショックを受けたみたいで、今さら昔の知り合いだなんて名乗れなくなりました。そのまま解散してしまって、すごく後悔したんですけど、まあ、カフェ巡りやめてくれたみたいだから、結果的に良かったかな、って思ってたんです」
「カフェ巡りをやめさせたことで、本来は犯罪者になるのを止められたはずだった、ということですか」
「違います。『Nさんが犯罪者になるのを止めたかったからカフェ巡りをやめさせたかった』のは確かですが、その考え方自体が大きな間違いでした。当たり前の話ですよ。何もないところに犯罪なんて起きないんですから、本当に犯罪者になるのを止めたかったなら、Nさんの話を親身になって聞いてあげた方が何億倍も良かった。それだけの話だったんです。」
私は、S・Tが、自分と似たような苦しみの中にいたことに初めて気が付いた。
「私は、それが出来たんです。オカルトでも何でも、Nさんが彼女の言うところの『犯罪者予備軍』であることに気付けたわけですから、危険なカフェ紹介サイトのことを伝えるんじゃなく、昔の知り合いとして適当な理由をでっち上げて連絡して、近況について語り合えばよかったんです。何ならあの時点で、旦那さんと別れるようにアドバイスだって出来たかもしれません」
確かにそうかもしれない。Nは、S・Tと霞ヶ関で会った頃、旦那と上手くいっていなかった、と語っていた。そこで勢いよく離婚するという道を選択できていれば、後々あの事件は起こらなかった。
だが、それは考えても仕方がなく、誰一人として得をしない話だ。
「やめましょう。それを言い始めると、結局は、私があんな奴を紹介しなければ良かった、というところに戻ってきます。いや、何なら、もう、それで良いんです。S・Tさんが罪悪感を覚える必要はないと思います。Nは実際、S・Tさんの話を聞いて、犯罪者になるわけにはいかない、と思いとどまる方向に傾いてましたしね。無駄ではなかったでしょう。後はたぶん、運が悪かったとか、間が悪かったとか、そんな感じで事件が起こってしまった」
「……実は、それについても、私は追加情報を得ていたんです」
「追加情報?」
私が尋ねると、S・Tは、少し話が脱線しますが、大丈夫ですか、と尋ね返してきた。もはや何が本筋なのかわからなくなっていたので、勿論構わない旨即答した。
S・Tは、勿体ぶるような間を開けて、言葉を選びながら話し始めた。
「私は、NさんがSNSに『近々犯罪を犯してしまう人間特有の書き込み』をし始めていることに気づいていました」
「……そんな書き込みがあるんですか?」
「正直わかりません。カフェ紹介サイトと似たような話です。SNSにアカウントを持っていた重大犯罪者の『犯罪直前の書き込み』と『そうでない時期の書き込み』、そして『一般人の書き込み』の3つについて、AIに学習させました。AIは、それぞれの特徴を覚えて、未知の書き込みを分類することが出来るようになりますよね。当然、正答率は学習させたデータに依存しますし、どうやっても見分けられない書き込みもあります。でも、何かしら意味のあるデータが得られそうじゃないですか?」
「つまり、Nの事件直前の書き込みは、AIによると重大犯罪者の『犯罪直前の書き込み』に分類されていた、と」
「端的に言えば、その通りです。もっと言えば、Nさんがカフェ巡りをやめた頃からの書き込みも、『一般人の書き込み』でなく、既に『重大犯罪者による犯罪直前でない時期の書き込み』に近かったことがわかっています」
めまいがしてきた。S・Tは、そんな私を気にせずに長広舌をふるった。
「勘違いしないでほしいんですが、こんなのは恣意的に何とでもなる話ではあるんです。極端な話、学習データの中にNさんの書き込みを含めてしまえば、Nさんの書き込みは間違いなく重大犯罪者のものと判定される分類器が出来上がるでしょう。だから、これ自体は大した話ではありません。一番大切なのは、その分類器を使って何を為せるか、なんです。そして致命的なことに、現時点では、何もできないんです。どういう意味かわかりますか? 『犯罪直前の書き込み』に分類される書き込みを発見したところで、そのアカウントの持ち主に犯罪を止める手立てがないんです。言葉で説得することも出来ないし、後になって、『ね、言った通り、この人、逮捕されたでしょ』って言うくらいにしか使えないんです」
え、犯罪者予備軍が誰かわかっても、結局犯罪を止められないなら意味なくないですか?
私の中の『嘘を知らない女』が口をついて出てきそうになる。何の比喩でもなく、まさにそういう話をしていることが辛かった。
「今、『犯罪直前の書き込み』に分類される書き込みを二日以上連続で行っているアカウントは、Tから始まる大手SNSだけで36にのぼります。他にも、別の分類器で『自殺直前の書き込み』に分類できる書き込みを100以上見つけています。でも、私にはその誰一人として助けられません」
「……じゃあ、何のためにそんなことをしているのか、訊いてもいいですか?」
「ダメです」
S・Tは、真顔だった。
「今迫さんも本業だからわかると思いますけど、研究の理由なんて、全部後付けですよ。世の中の役に立ちたい、というわかりやすい目標すら、資金確保のための方便だったりしますよね。知的好奇心を満たすこと以外に目的がなく、倫理的に問題がある研究は、存在が許されないんですかね。私の研究が、それですけど」
「いや、わかりますよ、わかります。私も博士課程の頃ずっと、マッドサイエンティストみたいな誰の役にも立たない研究してたんで。でも、私はそれを続けることの虚無に負けて、国家公務員を目指すことにして、今に至ります。誰かの役に立ちたい、というわかりやすい目標。良いじゃないですか。むしろ、それがなくて、耐えられます?」
S・Tは、少し黙った後、意を決したようにして話を続けた。
「……PSYCHO-PASS というアニメをご存じですか?」
「え? 10年くらい前にノイタミナ枠でやってたやつですよね」
「そうです。私、あの作品の設定が、すごい好きなんです。色相が悪化して犯罪係数が一定値を超えると、罪を犯していなくても『潜在犯』として裁かれるんですけど」
「……え、まさか、それをやろうとしてるってことですか?」
「半分冗談半分本気、くらいの感じです。私、常守朱(PSYCHO-PASS の主人公の女性)にあこがれて、警察庁に入りました」
「マジですか。超ヤバいですね。言われてみれば髪型似てますね」
さすがに私が適当にしゃべり過ぎたせいか、S・Tが吹き出すように笑った。気を取り直すように、続ける。
「警察は何か事件が起こってからじゃないと動いてくれない、みたいな批判があるじゃないですか。意外とそうでもない取り組みもいっぱいあるんですけど、あまり評価されてないんで。究極的なアプローチって、犯罪者が罪を犯していない段階で何とかすることだって思うんですよね。そうやって本当に犯罪がなくなった世界は、ディストピアみたいに言われるでしょうけど、結構良くないですか?」
「言いたいことはわかりますけどね。ただ、あの事件を起こす前にNが『潜在犯』として捕まったら、私は警察に文句言いに行くと思いますよ。絶対に何かの間違いだろうって」
「……確かに。それは本当にそうですね」
「つまり、ほとんどの人は『潜在犯』に納得しないってことですよ」
「誤謬のないシビュラシステム(PSYCHO-PASS に登場するギミック。人間のあらゆる心理状態や性格傾向を計測し、数値化する機能を持つ)の登場を待つしかないですか 」
「未来のS・Tさんみたいな人が創るんだと思いますよ、あれ」
「どういう意味ですか」
この後しばらく、二人でPSYCHO-PASSの話で盛り上がってしまい、そのまま脱線して二度と本筋に戻ってこないかと思った。私は実のところ、それでも良いのではないかと感じていたのだが、『カフェ巡り』を巡る話はまだ終わっていなかった。
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