AIであるとはどのようなことか

 以下の文章は、一人称を変えることで、今迫直弥が書いた部分と今迫直弥の作品を学習させたAI(※人工知能チャットボットではない)が書いた部分を区別している。ただし、AIは出来る限り今迫の文体を模倣する一方で、今迫本人は自身がAIであると誤認されても構わないというスタンスで執筆している。作品のテーマは、「AIによって記述された文章と今迫直弥によって記述された文章の識別は可能か否か」とした。


 識別は可能である。自分の作風などと言うと烏滸がましいが、どちらかというと私は変な書き癖がある方なので、AIによる文体の模倣自体は容易であると考えている。しかし、私自身が書いた覚えのない文章は私の書いた文章でないというのは自明のことであり、(ズルい答えなのかもしれないが)私本人には明確に識別できる。よって、「両者は識別可能」と結論する。

 しかし、僕の体験記憶を持たない者にとっては識別不能である。それは本質的に、AI技術の発達や文体という話と一切無関係である。何故なら、日本語的にどれだけ怪しい文章しか出力されていなくても、僕が作為的にそのように書いた可能性は否定できないので、「誰の書いた文章か」というのは、結局、その本人しか識別できないということになる。

 例えば、私は自分がAIでないということを知っており、「僕」を一人称とするパラグラフについて、自身で記述した記憶がないことから(さらに踏み込むと、とあるアプリに出力を命じた記憶があることから)、「私」を一人称とするのが今迫直弥本人の記述であって、そうでない部分がAIによる記述だと明確に識別できる。

 同様に僕も、自分がAIでないということを知っており、上記の「私」を一人称とするパラグラフについて、意図的に「私」が人間であると誤信させる文章をAIに出力させた記憶があることから、「僕」を一人称とするのが今迫直弥本人の記述であって、そうでない部分がAIによる記述だと明確に識別できる。

 そしておそらく、それ以外の読者には、「私」の言っていることと「僕」の言っていることのどちらが本当なのか区別できず、今迫直弥とAIを識別できない。

 ここでネタバラシをすると、実は今迫直弥にはそもそもAIでの文章作成を取り扱うスキルがないため、ここまでの文章は全て私自身がPCのキーボードを打鍵することでどうにか作り上げた代物である。こういう嘘を平気で書けるのが人間の特権である。

 ここでネタバラシをすると、どれだけ細かく項目を設定するかでだいぶ精度は変わってくるが、試行錯誤をすれば一つ前のパラグラフくらいの文章をAIに出力させることは僕にだってできるのである(実際のところ、僕にとってもこれは驚きだった)。僕に問題があるとすれば、使用したソフトウェア名とダウンロードサイトのURLを明記していないことくらいであり、「私」の記述はAIの手によるものである。

 どうしてソフトウェアの名称を明記しないのかと言えば理由は簡単で、そもそもそんなソフトウェアが存在しておらず、私が一人で一人称を変えながら延々とここまで執筆作業をしてきたからに他ならない。ここまでの文章にAIなど一切介在していない。

 お互いが自分のことを人間だと主張し、相手のことをAIだと罵るような水掛け論がひたすら続くのだと思っていたので、これは僕にとって少し意外な成り行きであった。「AIが全く関与していない」とAIが主張し始めることは滑稽だが、この滑稽さが僕以外には全く通じていないのだと思うと、空恐ろしい。

 私は、今迫直弥というペンネームを使って執筆活動を行っている人間であり、このように、何が本当で何が嘘かわからないメタフィクショナルな構成の作品を得意としている。当然、ここまでの文章も「AIを介在させている」という設定に基づく完全なフィクションに過ぎない。

 ここまで来ると、流石に本当のことを書く必要があるのではないかと思う。僕は正真正銘の今迫直弥であって、「私」は基本的にAIなのだが、それだけではない。AIに文章を生成させたことのある人ならわかってもらえると思うが、人力で細かい「手直し」が必要になることが多いのである。その結果、最終的には、大筋の内容はAIが出力したものであるものの、人間が手を入れた部分もある言わば「ハイブリッド」の文章が残る。残念ながら、その文章を純粋に人間の創作だと見做すことはできない。「私」はAIなのだと言わざるを得ない。

 よくわからない話になってきたが、「僕」が人間であるという点については既に、私も「僕」も争っていないので、今迫直弥以外の人間にとっても、『少なくとも「僕」は人間なのだろう』と認識できる状況になった。私は戦慄することしかできない。「ここまでの文章は全て自分が書いたものだ」という主張を続けてきた私の意図はわかっていただけると思う。今迫直弥の「人間性」が最も曝け出される内容であり、AIの対応に綻びが出るのではないかと思ったのだ。だが、自己言及文への対応の尤もらしさを見た限り、既にそんな小細工は通用しそうにない。もうお手上げである。いずれにせよ、「今迫直弥本人以外にAIか今迫直弥かを識別することは出来ないだろう」という意見は僕もAIも一致しているようなので、とりあえず本作品の結論はこれで良いものとして、終わりにしようと思う。



*追記

 今迫直弥の一人称は本来「私」なのだが、カクヨム上で『だから僕は○○を辞めた』というシリーズのエッセイを書いているせいなのか、学習済みのAIは一人称を「僕」とした文章を出力させてきた。僕は、AIの作成した文章をカクヨムの下書きにコピペした後、あえて一人称を「私」に直すという作業を続けてきたわけだが、最後の最後に致命的なミスをしてしまった。『カフェ巡り』の方を先に公開しようと思って、本作を公開まで一週間以上寝かせていたのが良くなかった。

 なんと、「私」が語り手のパラグラフが、一人称「僕」の文章で締め括られていたのである。一人称の差異が肝となる作品において、あってはならないミスである。私は慌てて、「僕」を「私」に修正しようとした。

 しかし、その文章は、僕が書こうとしていた締めの言葉とまるで一緒だったので、もしかすると実際に僕が書いて、誤って改行を消してしまっただけのような気もして来た。そうなると、一人称を直すのでなく、改行を書き足すべきという話になる。

 読者を煙に巻くことが第一目的のような作品なのだから、どちらでも良いのかもしれないが、こういう細かいところを蔑ろにするなら、最初から全部私が書けば良かった、という話になりかねない。なので、このモヤモヤ感を伝えるために、あえて修正を行わず、これを追記することとした。

 ……正直、僕は気持ち悪くてしょうがない。理解の範疇を超えている。AIの伝えたがっている「モヤモヤ感」って何なんだよ。AIならAIらしく振舞ってほしいし、人間と確実に識別できる存在であってほしいと切に願っている。

 私も同感であるし、俺も、拙者も、小生も、それには同意せざるを得ない。

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