はくめい





「目が濁ってきたね」

「うん」


 少年は返事をしたが、それは機械的に口を動かしただけに過ぎなかった。

 少年の目は元からあまり見えていない。

 役目をはたしているのかそうでないのか、まるで覚束ない、ささやかな睫毛が、なんどかゆっくりと瞬きをする。

 青空を背景に、合歓木が風に揺れる。

 そんな景色を憶いだす。



 少年は、そばに誰がいるのかよく分からなかった。

 その人影は、母かもしれないし、父かもしれない。姉かもしれないし、恋人かもしれない。あるいは、通りすがりの親切なおばあさんかもしれない。

 ただ、ひどく柔らかい声だった。

 目が見えない分、その声音をもとに、映像を生成している。少年は、みずから作り上げた、ピンクとレモンとホワイトの抽象画と、ずっと一緒にいる。

 これまでに色んな声を聞いた。色んな色を見た。

 どれもが過ぎ去ってゆく中。

 その声だけが傍にいる。


「それに、とっても痩せたわ……ちょっと待っていてね」


 何かを取りに行ったのか、温かみが薄れていった。残響から色が消えていって、ホワイトとレモンだけになる。少年は、口をつぐんだ。

 

 葉っぱ。


 花びら。


 枝について、風に揺れて、やがて枯れて落ちていくだけの。


 丸みのある、残酷な手にもがれて、ちりぢりなって土に還るだけの。


 地に足をつけるわけでもない。なにかを成しえるわけでもない。

 葉っぱのような。花びらのような。それが少年という存在だった。


「ふるえているわ」


 声は、毛布を取りに行ったようだった。たしかに少年は、震えていた。ろうそくが最後に、ジッと音を立てて、燃え尽きるかのような、震え。肩に、毛布が掛けられた。あたたかい? ううん。さむい。


 さむい。

 さむいよ。


 さむいんだ。


 少年の瞼に手が添えられる。残りの振動を、温もりを、流れた涙を、まとめて掬いとるように。


「…さむいんだ」


 枝について、風に揺れて、やがて枯れて落ちていくだけの。


 丸みのある、残酷な手にもがれて、ちりぢりなって土に還るだけの。


「だれしもがそうよ」


 梅がひらく。カエルが鳴く。セミが羽化する。ふきのとうが顔を出す。

 子どもが、親をぬぎ捨ててゆく。少年は? 羽化をしそこなって、殻もろとも絡まったまま枯れていく。


 明るい。

 光を孕んだカーテンのように。

 あなたの音色は、明るかった。


「目が濁ってきたね」


 痙攣していた瞼がゆっくりと鎮まり、涙は自然と尽きた。

 母は手を離した。

 窓の外では合歓木が、風に吹かれて揺れている。


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