魚になった(2024/1)



 宵の口である。小さな子どもと手を繋いで、家に帰る道すがら、空を見る。マンションと家々の屋根によって狭められた空には、斜線を引くようにして、白い雲が伸びていた。それは夕日に照らされて、黄金色の光を帯びている。天翔ける龍のようだと思った。

 小鳥が一羽、空を横切る。逆光のせいで、その姿は真っ黒であった。

 やがて気づかないうちに、あたりの影が濃くなりはじめる。潮が満ちるように、夜が満ちつつある。空気が冷たくなっていく。すると傍らから、こぽこぽこぽ、とくぐもった音が聞こえた。見ると、可愛い子どもの両足は、一枚の尾びれになっていた。あっと気づいたときには、その姿はたちまち魚へと変じ、わたしの手をすり抜け、町角へと泳いでいった。

 わたしはさきほどまで確かにあった自分の手がなくなっていることに気づく。おそるおそる、足元を確認する。やはり自分にも尾びれがあった。地面への執着を捨てると、ふわりと体が持ち上がって浮遊した。公園は蒼い水の中。水嵩が増しているのだろうか、見慣れた町は、瞬く間にうす暗い闇に満たされた。揺らめく街灯のお陰で、なんとか道はわかるけれど。

 水に沈んだ町には、水流が生じていた。豆腐屋さんから本屋さんに向かっては泳ぎやすいけれど、ファミリーマートから駅に向かっては泳ぎにくい。わたしはくるりと向きを変え、デパートへ向かって泳いだ。ヒレの動きを止めると、体が水に流され、水面みなもに向かってどこまでも浮き続けるのがわかった。眼下の町並みがみるみる遠のいていくと、こつん、と冷たい何かが頭に当たる。水面には、薄氷が張っていた。

 潜りながら下を眺めると、水に沈んだ町が、煌々と輝いている。まるで光の島のように。人はみんな、魚になってしまったのだろうか。わたしの周りにも、ぽつぽつと仲間が現れ始める。なおも眺めていると、デパートの入り口から、大量の魚が、張り詰めた表情のまま湧き出てきた。みな一様にきょろきょろと辺りを見回している。きっと、魚になったことが信じられないのだ。いや、魚はもとからこんな表情だった。かれらはいつだって驚愕したままで泳いでいるではないか。


『あほづらさげて沸き出てらあ』


 コポコポコポと音が聞こえた気がして振り向くと、隣にはおかめ納豆みたいな表情の魚がいた。


『そういうきみもなかなか』


 とわたしは言ってみたけれど、口からは泡が立ち昇るだけだった。言葉は、消えてしまったようだった。


 海と化した町の中、光の島から種々の街灯が消えていく。わたしは、家族のことを、言葉を用いた日々のことを忘れつつある。

 そのとき、天災のような重たい水圧を感じて、わたしは体勢を保つために身体中のヒレをはためかせた。大きな、大きな影がやってくる。クジラであった。

 わずかな光だけが残った町の上を、巨大なクジラが闇をたずさえてゆっくりと通り過ぎたとき、そこにはもう町などなかった。

 昏い海の中である。魚たちは散り散りになって、広大な闇へと溶けていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る