第二十二話 月も驚く晴明の策
――何の冗談だ?
伊勢国・
それは彼にとって、いや一族全てにとっても馬鹿らしいと思えるほどの『声』で、せっかくの気分も吹っ飛んだ。
――あの者は、我をなんだと思っているのだ……?
あまりの馬鹿らしさに憤怒よりも呆れ、彼は銀糸の髪を掻き上げた。
――力を借りたい。
どこからともなく聞こえてきたのは、そんな声だった。
同胞からの頼みならともかく、何の所縁もないモノから頼まれて、聞いてやるほど彼は暇ではない。しかも頼んで来たのは――一人の人間。
人間の声が届いたということは、それだけの能力を相手が有しているといえよう。
この宮には多くの人間が祈りを捧げにやって来るが、彼の耳に届いた声には切実なものが込められている気もしたのだ。
この身と引き換えに力を乞う――、身命を惜しまぬというその気迫に、湧き上がった憤怒は溶けて、思わず嗤った。
当然『声』は、彼の姉の耳にも届いただろう。案の定、置かれている几帳の奥が目映く輝いた。姉弟といっても今や顔を合わせる事はなく、宮から出ることのない『姉』の登場に、彼の口から思わず笑みが零れた。
「お久しゅうございます、姉君。お逢いするのは何千年ぶりにございましょうや?」
「あの願い――、どうするつもりです?
「あまりにも
人の世界では彼ら三姉弟を、
姉はアマテラス、弟は須佐之男、そして月夜見はアマテラスの弟であり、須佐之男の兄。
今や昼を統べるモノと夜を統べるモノに別れた姉と弟は、今も顔を合わせることはなく、月夜見が姉の存在を感じられるのは気配と、几帳の背後で日輪の輝きだけである。
「その願い――、聞いてあげては?」
「珍しいですね。あなたが口を出してくるとは」
「あの男は、本気です。でなければ、十二天将まるごと使役しようなど思わないでしょう」
月夜見に力を乞うて来た男は、十二天将を使役しているという。
男の名は、安倍晴明――異界の血を半分引いているという陰陽師。
「そのうち、天の諸神も使役すると言いかねませんよ? 姉君」
「あの男がどれたけの器か、見届けるいい機会です」
「案外、意地悪でいらっしゃる」
実体としては顔を合わせる事のない姉弟だが、数十年に一度、いや百年に一二度、お互いが一つになるときがある。
日蝕と月蝕である。
もちろん人の世界では、日輪と月輪が重なるなど知らないだろう。
今度の月蝕において、こっそり覗いてやろうという姉の心に、月夜見は「ふふふ」と笑った。
◆
「くそ……っ」
火の粉が舞う中で、冬真は歯軋りをした。
それは、あっという間であった。
内裏の庭で咲く彼岸花を、
既に炎が、簀子を舐めるように迫ってくる。
「冬真、正殿まで火が回ったぞ……!」
同僚の切羽詰まった声に、冬真は拳を強く握る。
「
大内裏を警護する衛府は、左・右衛門府、左・右兵衛府、そして冬真が属する左・右近衛府の六衛府である。吉上はそれら六衛府の下級官吏だが、火を消すのは彼らの仕事であった。では貴族たちは何をしているのかと言うと、内裏に駆けつけては来るが指示のみだ。
彼らの関心事は消火そのものにはなく、消火は、身分の下の者が行うべき義務であると思っている。彼らにとって重要なのは、「駆けつけた」という事実だ。
実際の消火活動をしなくても、当事者に対して奉仕の意志を示す必要があるからで、内裏の火災の時には帝に対する奉仕、大臣家の火災の時には大臣に対する奉仕の意志が問われる。ゆえに貴族たちは、駆けつけた順番を非常に気にする。急を要する消火であるからこそ、早く駆けつけたことが評価される。自分の誠意を見せるためには、早く到着しなければならない。火災とは、貴族たちにとっては、自分の主従関係の表れる場であり、奉仕の意志を示す場なのであった。
ゆえに、廷臣たちは当てには出来ない。
「火の勢いが強すぎるのだ」
「主上は?」
「既に三種の神器と供に、
正親町殿は正式名を
何回か炎に包まれている内裏ゆえに、帝の仮在所として大内裏の外に内裏を作ったのである。ほっと胸を撫で下ろす冬真だが、近づいてきた衣擦れに息を呑んだ。
「――冬真さま……」
「長橋局と薫衣の君……、お邸にお戻りには離れなかったのですか?」
そこにいたのは荷葉と、薙刀を小脇に抱え、単衣と緋袴姿になった長橋局こと、高階澪であった。
「怖いのです……、また誰かが傷つく……。私の夢が現実になってしまう……」
顔を覆う荷葉に、冬真は歩み寄った。
「晴明なら大丈夫ですよ」
「冬真さま……?」
「あの男は、ありえない事をやってのける男なんですよ。人がこうだと思っている事と、真逆の事をしてしまう。彼を理解するには私もまだまだですが」
「左近衛中将さま、ここは私にお任せ下さいませ」
「長橋局どの……」
「女だからと、力仕事が出来ないと思ったら大間違いですわ」
火事となると、毎回のように現れるのが盗っ人だ。どうやら澪は薙刀で賊を撃退するつもりらしい。そんな勇ましく胸を張る彼女に勇気をもらい、冬真も鎮火のために池に走った。
★★★
炎は陰陽寮にも迫った。
いつもは冷静沈着な陰陽頭でさえ、青い顔をしていた。塗籠に収められている門外不出な呪物以外は持ち出し、陰陽修習生も混じって火消しに駆け回っている。
「師匠」
振り向いた賀茂忠行も、眉間に皺を刻んでいた。
「晴明――、やられたぞ」
「そうですか……」
忠行がなにをやられたと言ったのか察しがついて、晴明は慌てることもなく嘆息した。
恐らく小波令範が忍び込み、殺生石本体の奪還に成功したのだろう。
「晴明、そなたは落ち着いておるが……」
「殺生石は目覚めさせません……!」
もちろん、王都も火の海にさせるつもりはない。
小波令範が忍び込む事は、最初からわかっていた事だった。
「――小波令範に、殺生石を奪わせるじゃと……!?」
王都に、
晴明は忠行に、殺生石を砕くと告げた。このまま封印していても、小波令範は奪うとあの手この手で策を弄してくる。殺生石が存在する限り、この戦いは終わらない。
無謀と言えば無謀だが、殺生石は陰陽寮に置いておくだけでも危険な存在となりつつあった。結界を解いた瞬間、殺生石が目覚める寸前まで高まった妖気が溢れ出し、その
もはや、人の手にも触れることの出来なくなった殺生石をどう砕くのか――、晴明が導き出した答えは、王都に持ち込んだ張本人・小波令範に奪わせる事だった。
もはや人でなくなった彼ならば、それは容易だろう。
火事の混乱する中、彼は堂々とここに乗り込んでくる。
かくして――、晴明の読みは見事的中した。
「晴明、奴が殺生石を目覚めされると一大事じゃ」
忠行の言葉に、晴明は表情を引き締めた。
小波令範が今どこにいるのか、晴明は既に式盤にて捉えていた。
あとは、月神が力を貸してくるか否だが。
大内裏の火は十二天将たちによって抑えられ、あとは王都の火をどれだけ消せるかだ。
「師匠、あとはお願いします」
「晴明」
踵を返した
「――死んではならんぞ……」
晴明は深く頷いて、直衣の袂を翻した。
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