第三六節 陽太の目標と道標

 六月二六日。練習の休憩中、野球部の練習風景を眺める陽太。彼の目に映ったのはシートノックを受ける雅彦達の姿。



 「いいぞ!次!」


 雅彦の動きを見て、改めて彼の凄さを実感した陽太。野球経験はないが、だからこそ見えてくるものがあった。


 本当に強豪校から誘いの話が来なかったのだろうか。疑問に思った陽太。



 「次!」



 練習風景を眺めていると、背後から和正が声を掛ける。


 

 「凄い選手だよな。雅彦君」


 陽太は頷く。


 「打撃も守備も走塁も群を抜いてた。野球経験のない俺でも分かるくらい」


 和正はそう応えた陽太へ視線を向けた後、再び野球場を眺める。それからすぐ、金属バットで硬式球を打つ音が二人の耳に届く。そして雅彦が捕球し、一塁手へ送球。硬式球がグラブの中へ収まる音を聞き、陽太が呟く。


 

 「雅彦より凄い選手か…」



 雅彦の話を思い出す陽太。


 柵越えを連発する選手、内野の深い当たりの打球をアウトにする守備力を持つ選手、捕手が送球を諦める程の脚力を持つ選手。


 陽太が思う凄い選手だ。


 しかし、雅彦の思う凄い選手は違う。プレーしているからこそ見えてくるもの。そして、分かるものが雅彦にはある。


 その答えはシートノックを受けている三年生のプレーにあった。


 しかし、その答えは陽太と和正には分からない。


 当たり前だ。


 プレーしなければ分からないことなのだから。



 

 しばらくして、休憩時間が終了。陽太達は練習を再開。一対一などの練習をこなし、汗を流す陽太。疲れた表情一つ見せず、がむしゃらにボールを追う。



 陽太の姿は練習の合間にサッカー場を眺める雅彦にどう映っただろうか。



 

 練習終了後、陽太は体育館外にある洗い場で練習着を絞る。一回では絞り切れないほどの汗が練習着から滝のようにコンクリートを打ち付ける。


 三回目で何とか絞り切った陽太。


 そして、水で汗を洗い流すように蛇口をひねる。

 

 同時に、金属バットで硬式球を打つ音が陽太の耳に届く。野球部はまだ練習中。いや、自主練習をしている。


 翌月から始まる夏の全国大会県予選に向けて。



 「自主練か…」


 蛇口を捻り、水を止める陽太は練習場方向を見つめる。


 まだ練習し足りないような表情で。


 

 上手くなりたい。和正達に追いつきたい。そういった思いが陽太の心を動かす。


 すると。


 

 「まだ練習し足りないか」


 背後から聞こえる声に振り向く陽太。視線の先には大石。


 

 「いいぞ。八時までなら。今野達に、鈴川に負けるな。そして、全国のサッカーエリートに」


 笑顔で声を掛けた大石は東山取運動場を後に。大石の姿を目で追う陽太。


 すると、力也が陽太に声を掛ける。



 「帰らないのか?」


 力也の問いに陽太は練習場方向を見つめる。



 「もうちょっと練習していくよ」


 陽太の言葉に力也も練習場を見つめる。


 「俺も付き合うよ。まだ練習し足りなかったから」


 笑みを浮かべる陽太と力也。



 二人は練習場へ戻り約一時間、一対一で汗を流す。サッカー練習場と野球場の照明が二人を照らす。そして、二人の声とボールを転がす音が野球場にも届く。


 二人の姿は雅彦だけでなく、野球部員全員に大きな刺激を与えた。

 


 

 八時四一分。帰宅した陽太は寝室にバッグを置き、リビングのドアを開ける。


 「おかえり!」


 ドアを閉めると同時に、ソファでテレビを観ていた陽菜が笑顔で陽太へ駆け寄る。「ただいま」と陽菜の頭に手を置いた陽太はダイニングの椅子へ腰掛ける。


 


 「遅くまで練習してたの?」


 希が肉じゃがの器をテーブルへ置く。


 「うん。練習し足りなくてさ。友達が付き合ってくれたんだ。感謝だよ。本当に」


 疲れた表情一つ見せずに話す陽太。その表情はどこか満足感に満ち溢れていた。



 陽太は手を合わせ、箸とご飯茶碗を持つ。


 

 希はキッチンへ戻り、朝食の仕込みを始める。陽菜はテレビを観る合間にサッカーボールを手入れを始める。


 

 陽太がご飯茶碗を置くと同時に、陽菜が陽太に尋ねる。



 「ねえ、お兄ちゃんの学校ってどんな選手がいるの?」


 陽太は箸を置き、腕を組みながら天井を見つめる。



 「皆上手い。俺と同じく県大会に出場出来なかった奴がほとんどだけど、それを感じさせないくらい上手い奴ばっかりだよ。俺はまだまだ追いつけないな」


 そう答え、豚汁の器を持つ陽太。陽菜は陽太の後姿を見つめる。



 山取東高校の男子サッカー部一年生は先発の座を掴んだものの、強豪校の壁を越えることができず、県大会に出場することが出来なかったという生徒がほとんどだ。



 しかし一緒に練習して、陽太は彼らの凄さを身をもって感じた。


 それは陽太に対しても同じだった。



 「強豪校じゃなくても上手い選手はいくらでもいる。スターになりそうな選手だっている。俺の周りはそういう奴ばっかりなんだ」


 陽菜は陽太の話に聞き入る。



 「全国に行けるくらいね。皆が俺の目標で道標だよ」



 陽菜がいつまでサッカーを続けるか陽太には分からない。しかし、陽太の言葉が陽菜の進路に大きな影響を与えることは間違いない。

 

 一緒に生活し、一緒にサッカーをした凄い選手が陽菜の目標であり、道標なのだから。

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