降魔術師の長い夜

日下部慎

01 - プロローグ

 寒い夜だった。

 冷えた月明かりが、木々の頭に覆い被さっている。まるで雪のように。

 風はない。深夜の森は眠るように、しんと静まり返っている。

 市の南部を大きく陣取るこの森は、入った者を決して外には出さない“帰らずの森”として、地元民には広く語り継がれている。勿論そんなものは迷信に過ぎないが、毎年多くの遭難者が出ているのは事実だ。

 そんな曰くもあって、滅多な事がない限りこの森に足を踏み入れる者はいない。こんな夜間であれば尚更だ。この森はいつもそうして、乾いた静寂を受け入れて佇んでいる。

 ……ただ、この日は違った。

 木々に遮られてまばらな月明かりの下、三つの人影があった。枯れ木を踏み折って走る足音、荒い息遣い、時おり響く硬い金属音。清涼な水面に波紋を投じるように、三つの影は閑静な森の夜闇を掻き乱す。

 ―――それは戦闘だった。

 銀光が闇を裂く。次いで、鉄の打ち合う音が、森の深淵に鳴り渡る。剣の一撃を黒鉄の棒で受け止めた少年は、圧力に押されてニ、三歩後退する。その足が木の幹に引っかかり、少年はバランスを保てず尻餅をついた。その無防備な体へ“敵”の第ニ撃が奔る。

 再び鳴る剣戟音。追撃の剣は、少年の横から差し出された槍の穂先に防がれていた。槍はすぐに高速で引き戻され、それに倍する速度で“敵”に向かって撃ち出される。

 一合、二合、三合。繰り出される打突を、“敵”は剣で弾きながら後退する。剣の届く間合いから離されると、潔く打ち合いを諦め、木々の合間を縫って暗闇に消えた。

 ……深追いはしない。一対一では勝ち目が薄いことは、過去の経験より理解している。

 構えを解いて身を翻す。背後では、まだ少年が地面に尻餅をついたままだった。

 足でもくじいて立ち上がれないのかと思えば、少年はふーっと吐息を吐いて夜空を見上げている。……どうも、単に休んでいただけらしい。

 一見して、ごく普通の少年だった。歳は16、7くらい。若干の目つきの悪さと痩せぎすの体躯を除けば、特に取り上げるべきこともない。服装も皮ジャンパーにジーンズと、これまたありきたりだ。

 しかしその、肩に何か重いものを乗せているかのような気だるげな雰囲気は、この時期の少年特有の憂鬱性というよりむしろ、中年サラリーマンか老人か、もしくは倦怠期の旦那というものを連想させる。

「……ちょっと」

 すぐ近くであがった声に、少年は視線を夜空から地上へ戻す。

 目の前では、ひとりの少女が見下ろしていた。

 少年と同じくらいの年齢。目、鼻筋のすっきりした顔立ちに、完璧なくらい均整のとれた体型。腰まで届くしなやかな黒髪は、頭の後ろで一房にまとめられている。まるで『美少女』という言葉を顕現しているような容姿を持つだが、その言葉の持つイメージにそぐわない部分が一つある。

 それは目だ。はっきりと対象を見据える視線は、『美少女』という愛でられる存在には程遠いほど、強い。意思の強さが如実に現れており、可愛さよりもまず凛々しさが先に立つ。

 しかも今は不機嫌な眼で睨みつけているから尚更だ。……もっとも少年の記憶が確かなら、この少女が朗らかに微笑んでいる所など見たことがなかったが。

 少年がぼへーっと見上げていると、少女の目はますます不機嫌さを増す。

「……ちょっと。聞いてるの? 誠一郎。今日こそはアイツに勝つんだから、あんたももっと気合入れなさいよ」

 ドン、と少女は手にした槍を地面に突き立てる。少女の背丈ほどもある長大な凶器は、およそそのの外見に似合つかわしくない。しかしその卓越した槍捌きは、先ほど“敵”を撃退した時に見た通りだ。

 だが、彼女の本分が槍ではないことを、少年……誠一郎は知っている。

 ざぁっ、と風が吹いた。

 少年の前で青い布が揺れる。目の前の少女が纏ったそれは……青い、空色のマント。

 青マント。『時代錯誤』という言葉さえ超越したそれを、『学校の制服』という普段着の上に羽織っている。色彩的にも、デザイン的にも、明らかに周囲から一線を引いたように浮き上がっている代物だが、以前にそれを言ったら顔面に蹴りが飛んできたので、二度は言わない。

 そのことを思い出して顔をしかめる彼を、少女は訝しげに見下ろす。

「なに? さっきから何も言わないで。何か言いなさいよ」

 促されて仕方なく、といったように、誠一郎は口を開く。

「あー………遼子」

「なによ?」

 名を呼ばれた少女は聞き返す。

 それに誠一郎は、言った。

「パンツ見えてる」

 その瞬間、少女の靴裏が誠一郎の顔面にめり込んだ。

「ぬぶへ! ……おっ、おまえっ、冗談だってのに……」

「うるさい、さっさと立つ! 今度はコレで行くわよ?」

 言って、槍を地面から引き抜く遼子に、誠一郎は慌てて起き上がる。

「んっとに、気が短いなお前は……。そんな性格じゃあお前、なんだ、嫁の貰い手もねーぞ」

「アンタにだけは言われたくないわよ。言っとくけどね、これでも学園じゃあ心優しい優等生で通ってますから」

「ほお~」

 それは知らなかった。今度コイツの学校に行って茶化してやろう、と誠一郎は心に決めた。

 いつも通りのどつき漫才風の会話だが、今は長々と続けている暇はない。周囲を覆う暗闇から、かすかに近付いて来るものの気配が伝わって来る。

「ほら、来るわよ。構えて」

「へいへい。で、どーするよ? 何か策でもあんのか?」

「10秒、足止めできる?」

「……根性見せろってか。ったく、しょーがねえ……」

 ――来る。左後方から、闇を滑るように近付く“敵”が。それに反応して、誠一郎は鉄棒を横薙ぎに払う。

 ギッ、と鉄をこすり合わせる音。受け止めた“敵”は自ら後方に下がって衝撃を受け流す。

 距離が離れたのは僥倖だった。すかさず誠一郎は、この日のために用意したとっておきを出す。

「芽吹け――【仮鶴】!」

 そう唱えて振るった袖口から飛び出したのは、三羽の白い鶴。

 いや……それは、鶴の形に折られた折り紙だった。三つの折り鶴は主人の命に従い“敵”へと向かう。

 ごく最近になって覚えた〈仮の使い魔〉。思い立って式神使いの真似事をしてみたが、これが思いのほか相性が良かったらしく、こうして紙に仮初めの命を宿して従わせるに至った。今夜が初のお披露目であるが―――。

 煌きは一呼吸に三つ。三羽の鶴は一瞬にして六枚の紙クズに変わった。

「ば――く、くそっ、役に立たねえ――!」

 あっさりと切り札を失って、白兵戦へと移行。再び鉄を打ちつける音が鳴り響く。

 ニ、三、四………先ほどは一撃で倒れたのを、今度は気合を入れてその場に踏み止まる。しかしそれも限界、五合目にして鉄棒が手中から弾かれる。“敵”は無手になった彼を無力と判じ、その奥で長い呪文を詠唱している少女の所へ向かおうとする。

 が、今回の誠一郎は往生際が悪い。油断した相手に、腰の後ろに隠した警棒を抜き振るう。

「食らえ――!」

「っ!」

 半ば不意をついたそれも“敵”は身をよじって避ける。しかし体勢は崩れた。その体に、ここぞとばかりに警棒を振り下ろす――!

 キン、と。ある種心地良いともいえる音をたて、警棒は二分の一に切り詰められた。

「げ」

 声を発せたのはそれまで。迅雷の速度で踏み入った“敵”の掌打が、無防備な懐を突き刺した。背骨まで伝わって体の奥で弾ける衝撃は、まさに腹部を槍で貫かれたような感覚だった。

 ニ、三メートルほど宙を飛ばされた後、勢い余って地面を数度転がる。打たれ弱い誠一郎では、立ち上がって応戦するどころか、しばらくは呼吸するのもままならないだろう。もとより、これだけの距離を離されては追いつけない。

 しかしそれが、今回に限って幸いした。ここで遼子の“切り札”が完成する――!

「――連結!〈爆裂〉〈突風〉〈散弾〉―――点火っ!!」

 唱え、三個の小石を投じる。その表面に刻まれた文字が光を放ち、次の瞬間、光と振動と轟音を奏で、森を揺るがす破壊の力が荒れ狂う。

 遼子の切り札〈連結ルーン〉。元々ルーン魔術というのは呪いの域を出ないささやかなものだが、遼子の使うそれは長年に渡る改変の結果、より直接的な性質を得るに至ったものだ。彼女の家ではこれを『志我崎流ルーン魔術』呼び伝えているが、もはや本来のルーン魔術とは別物と言って差し支えない。

 そして三つのルーンを連結させて連鎖開放するのが、彼女の切り札。突風を伴った魔力弾は着弾と共に爆裂し、それが無数の参弾となって降り注ぐ。目標を周囲もろとも薙ぎ払う、乱暴極まりない攻撃だ。

 木々は軒並みへし折られ、穿たれた地面は土砂を噴き上げる。吹き荒れる風塵に目を細めながら、遼子はその光景を見守る。

 やりすぎたか、と思った。もしかしたら死なせてしまったかもしれない。こと勝負事となると手を抜けないのが、彼女の長所であり悪癖でもある。

 やがて風が治まりかけたころ、もうもうと煙る砂煙の奥に見えたものに、彼女は愕然と目を見張る。

 その目に映るのは砂埃に遮られ、鈍く輝く銀の線分。“敵”は先ほどまでと変わらぬ場所で、変わらぬように佇んでいた。ただ手に携えた剣だけが、淡い光を放ち、その存在を誇示している。

「うそ……」

 茫然と呟く遼子。今のは全力で放った攻撃だ。逃げ場もなければ、防げるほどの魔術を紡ぐ時間もなかったはず。ならば一体どうやって凌いだというのか。

 “敵”が無造作に剣を振る。すると剣に纏った光は立ち消え、すぐまた“敵”は剣を構え、駆け出して来る。

「く、―――〈散弾〉っ!」

 もう一度連結を繋げている時間はない。ただ足止めのためにルーン石一個を消費する。

 弾幕を張るように乱れ飛ぶ魔弾。“敵”は逃げず、守らず、足を止めずに剣を縦に掲げた。

 そして、呟く。

「降魔――〈ラーンスロット〉」

 稲妻が落ちる。いや、降りたのは雷ではない。それは剣を触媒にして呼び出された、或る英雄の魂。

 剣に光が宿る。

 その後に遼子が見たのは、にわかに信じがたい光景だった。

 “敵”は白銀に輝く剣を掲げて猛然と弾丸の嵐に突っ込み―――そのことごとくを、手に持つ剣で叩き伏せた。

「は―――」

 言葉がない。目前に迫った“敵”が振り下ろす剣を、条件反射だけで槍で受け……それで勝負は決まっていた。

 一撃の重みに耐えきれずに、背中から地面に叩きつけられる。立ち上がろうとして、気付いた。両手に握った槍が二つに分かれていることに。

 そこでふと気付けば、喉元に剣の切っ先が突きつけられていた。

 顔を上げれば月明かりの下、白銀の光を背にしてこちらを見下ろす男の影が。

「……勝負あり、だな」

 呟いた声は鋼のように。男は剣を下げ、わずかに身を引いた。それで逆光が解け、男の容姿が顕わになる。

 ……少年、だった。歳の頃は遼子や誠一郎と変わらない。だというのに、彼を「少年」と言うのは躊躇われた。その大人びた雰囲気は人として完成した者のそれであり、半端な、未成熟な響きを寄せ付けようとしない。

 それは決して、固さを演出する四角い縁無し眼鏡のせいだけではないだろう。堀の深い端整な顔立ちに、鍛え抜かれて均整のとれた体躯も、彼を大人びて見せる一因には違いない。けれど、外見では判じ得ない何かを、その彼は持っていた。

 風が吹く。灰色の外套がたなびいた。

 先ほどは誠一郎が遼子を見上げていたが、今度は彼女が目の前の男を見上げる番だ。

 遼子は男を見る。男の鋭い双眸は、もう彼女を見てはいなかった。

 銀色の月明かりの下、銀色の輝きを手に、彼はどこか遠くを見据えている。


 ――その姿に、何故か

   白銀の甲冑に身を包む騎士の幻を見た―――



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