39話 祓い、送る
加邊が唱える祝詞が、低く、しかし、途切れる事なく流れてくる。
それは、自分達がこれからハリルロウに対して何を行おうとしているのか、そして、何故そうしなければならないのかを淡々と説く言葉だった。必要以上の卑下や
輪廻転生の末に、再び穏やかな形で邂逅する事を祈る加邊の声からは、ハリルロウ達を違う世界へ送り出す役目をどうか自分達に務めさせてほしい、という真摯な思いだけが伝わってきた。
利玖は、その祝詞を、裏庭に面した藪の中で聞いていた。
右隣に史岐が、そして、さらにその隣に柊牙がしゃがみ込んでいる。
ハリルロウの姿は、利玖達の位置からは半分ほど木に隠れていたが、ほとんど蛹への変態が終わっている事は見て取れた。祝詞を唱えている加邊の横に別海が立ち、その十メートルほど背後に匠と柑乃、そして真波が並んでいる。
本当は、こうして近くで見ているのは危険な行為なのだろうが、屋敷全体がハリルロウの風下に入ってしまう為、万が一、ハリルロウの毒が放出されてしまった時の事を考えて、利玖達は風上の藪に潜んでいるように匠から指示が出ていた。
黙って祝詞を聞いていた柊牙が、ふと、何か呟いたような気がして、利玖はそちらに顔を向けた。
隣にいる史岐にもよく聞こえなかったのか、何と言ったのか、問うている声が聞こえる。
「イオマンテ」柊牙は、曲げた膝の上に頬杖をついたまま呟いた。「アイヌが神々を天上の国へ送り返す儀式の事を、ちょっと思い出してな」
加邊が祝詞を唱え終わり、後ろに下がるのと入れ替わりに、柑乃が進み出た。
感覚を研ぎ澄ませる為か、今は、面を外している。
柑乃が体を前傾させて刀の柄に手をかけるのを見て、利玖は思わず両手を握りしめた。
「やめておいたら?」その仕草に気づいた史岐がそっと言う。「今は蛹だけど、斬ったら、中からイモムシが出てくるかもしれないよ」
「いえ……」利玖は首を振った。
「よく考えたら、おかしいと、思ったんです」
本当は、この裏庭で初めてハリルロウを目にした時のように、もっと気丈な言葉で答えたかったのだが、にぶい痺れのような疲労が頭の芯に残っていて、やっと出るような弱々しい声でしか話せなかった。
「同じ、ハリルロウという生きものが、水中でも陸上でも生きていく事が出来て、それでいて、各環境での生態が異なるだなんて。バギーじゃあるまいし……」
利玖は、冷たくなった手のひらをこすり合わせると、口に当て、息を吹きかけて温めた。
「兄や別海先生が嘘を言っていると思っている訳ではありません。同じ種だと断言できる根拠もあるのでしょう。
だけど、妖は、チョウやトンボのように誰もが観察出来る事象ではありません。見る事すら、ごく限られた人間にしか出来ない。詳しく生態を観察した研究者が果たして、過去に何人いたのか……」
「あれは、ハリルロウとは別の生きものかもしれないって事?」史岐が訊く。
「そういう可能性もありますし、一様に『ハリルロウ』と呼称されている生きものが、複数の異なる種を内包している可能性もあります。
生涯、水の外に出ないハリルロウと、陸に上がって毒を放出するハリルロウは、外見は似ていてもまったく別の種で、これまでの研究者は彼らを分ける差異を見つける事が出来なかったか、或いは、それは人間の目ではそもそも判別が不可能なものなのかもしれない」
利玖は言葉を切ると、自らを奮い立たせるように微笑んだ。
「だからわたしは、ここで、ハリルロウのありとあらゆる特徴を記録しておきたいのです。柑乃さんに指示を出さなければならない兄では、その役は難しいでしょうから」
「でもよ……」柊牙が躊躇いがちに口を開いた。「今の話を聞いたら、それって別に、妖じゃなくても、それこそ『現代の生物学では同じ種として扱われているトンボ』にだって当てはまる事なんじゃないか? そんな、顔を青くしてまでやり遂げなきゃいけないもんなのかね」
「水生のハリルロウと陸生のハリルロウは別の種である、と結論づける調査結果があれば、後世の研究者がより迅速に、かつ、より的確なアプローチで彼らの生態を解明する足がかりになるかもしれません」
言ってから、利玖は真顔に戻って肩をすくめた。
「もっとも、一番の理由は、自らの力でその根拠を見つけられた時の高揚感が何ものにも代え難いから……、ですが」
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