31話 〈須臾〉の気遣い

 四歩の距離なら外さない、と思っていた。

 実際、角を曲がった先で目に飛び込んできたつごもりさんの姿は、もっと手前にいるのではないかと思えるほど鮮明で、狙っていた頭部も概ね予想通りの高さにあった。

 衣服に覆われていない顔の前面を目がけて、史岐はひと息に腕を振り抜いて矢を放った。

 両手が本で塞がっているつごもりさんが眼のない顔でこちらを振り向き──矢が届くかと思った、その刹那、ぱしゃっと音を立てて視界から消えた。

「え」

 状況を理解出来ていない声が漏れる。

 つごもりさんが立っていた場所に、中身のなくなった着物と、持ち去られた本が一緒くたになって落ちているのを見つめていたのもつかの間、史岐は、弾かれたように床に目をやった。

(しまった、水……!)

 別海の術が仇になった。

 液体化する事で矢をかわしたつごもりさんは、そのまま床伝いに逃げるつもりなのだろう。だが、その姿は足元に広がる水の幻影に溶け込み、肉眼では見て取る事が出来ない。

 一瞬、利玖達のいる背後を気にしてたたらを踏んだ史岐は、すぐに前方に目を戻し、自分の体を堰にするように床に伏せた。

 目で捉える事が出来なくても、本を運んでいた以上、実体はある。それなら、この体をかすめて通り過ぎて行く時に感触があるはずだ。無傷では済まないかもしれないが、確実に矢を打ち込むには、その一瞬を狙うしかない。

 息をつめて矢を構え、全身の感覚に意識を集中していた、その時、伸ばした足の上をするりと何かが乗り越えた。

「──〈須臾〉!」

 史岐がそう叫ぶのと同時に、着水した〈須臾〉の腹の下で透きとおった物体がビチビチッとのたうった。〈須臾〉は全身を使って、それを抑え込もうとしているが、抵抗する力が強く、徐々に水の外へと押しやられていく。

 史岐は無我夢中で〈須臾〉の元へ駆け寄ると、捕らえられている半透明の生きものの輪郭を何とか見てとるや、片手で押さえつけて矢を突き立てた。

 手の下にある寒天状の平べったい塊が、焼け石を投げ込まれた水のようにぶくぶくと激しく泡を吐いて震えた。

 弾けた泡の中から、目にしみるような薬液のきつい匂いが立ちのぼったが、史岐は矢の先端を押し込む力を決して緩めなかった。

 やがて、泡が徐々に小さくなり、吐き出される勢いも衰え始めて、しばらく経つと、ふいに手に感じていた抵抗が消えた。あっと思う間もなく、支えを失ってしたたかに硬い床に手のひらを打ち付け、史岐は呻いた。

 その声を聞いた〈須臾〉が、気遣うように水をかいて近寄って来る。

「大丈夫……、バランスを崩しただけだから」

 手のひらをさすりながら起き上がり、壁に背中を預けると、史岐は詰めていた息を長々と吐いた。

 つごもりさんに薬が効いたのかどうか、はっきりとは分からない。だが、今は周囲で何かがうろついているような気配はないし、〈須臾〉も静かにしている。一応は退却させる事に成功した、と考えていいのだろう。

 視界の端に、乱雑に放り出されたままの本が映った。

 拾いに行こうと立ち上がったが、気が緩んだのか、頭を動かすと目の中にちらちらと星が舞った。それも無視して歩き出そうとすると、今度は地面が傾いでいくようなめまいがして、慌てて壁に手をつくと、〈須臾〉が警告のような高い声で鳴きながら足元に滑り込んできた。

「わかった、わかった……、ごめんよ」

 医師の生み出した式神というわけか──と思いながら、史岐は暗い壁際に座り込み、めまいが治まるまで項垂うなだれていた。

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