13話 何もいない訳がない

 思わず立ち止まった。

 一瞬、別海が寝間着姿で通りがかったのかと思ったが、その影は幻灯のようにほの暗く霞んだ印象だけを残して完全に気配を消してしまった。

 どこか錆び付いているような、酸っぱい臭いが辺りに漂っている。

 佐倉川邸に来てからは、水場でさえ、こんな胸のわるくなるような臭いは嗅いだ事がなかった。──たぶん、人間が発するものではない。

 手のひらで顔をぬぐうようにして、さり気なく鼻を押さえながら、史岐は再び廊下を進み始めた。

(何もいない訳がない、か……)

 突き当たりの二歩ほど手前で立ち止まる。その位置からだと、影が向かった通路の先はほとんど見通せない。

 例の、つごもりさんとかいう妖だろうか。

 否、おそらく違う。利玖から聞いた蔵の位置は敷地の反対側で、彼に渡す本はそちらに集められている。

 それに、つごもりさんは屋敷の中には入ってきた事がない、と真波が話していた。家というのは、妖や魍魎もうりょうの類にとって、人間が思っている以上に強固な仕切りで、家の中に入ってこないという習性を持つ妖は、よほどの事がない限り、そのことわりをねじ曲げたりはしない。

 史岐は顎をさすりながら、右手の暗がりを透かし見た。

 影は、柊牙と史岐の部屋がある方へ向かっていた。この先は行き止まりで、外に通じる出入口もない。向こうが壁をすり抜けでもして都合良く外へ出てくれていれば良いものの、そうでなければ鉢合わせになってしまうだろう。

 思案した末に、史岐は、ふっと息をついて踵を返した。

 あの影からは、ただひたすらに、押し殺したような静けさだけが伝わってきた。ヒトを喰って生きている妖は、ああいう気配を持たない。

 それでも、野生の獣と同じで、うっかり出くわして驚かせた拍子に身を守ろうとする本能で襲いかかってくる事はある。この家で、自分が揉め事の原因を作りたくはなかった。

 幸い、柊牙は、この手の変事には慣れている。今見たものをありのまま話すだけで、詩集を取って来られなかった事情も汲んでくれるだろう。

 立ち尽くしている間に冷えた体をさすりながら、史岐は、ぽつぽつと居間に戻る道程みちのりを歩いて行った。

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