3話 湯元もちづき
十二月二十二日の朝、
樺鉢温泉は、県北部の
特急を利用するには、乗車券とは別に特急券を購入する必要があるのだが、これが一人暮らしの大学生にとっては少々懐が痛い。何しろ、乗車券だけでも片道千円以上がかかる。
しかし、今回は招待元の旅館〈
電車を降りた後は、最寄り駅まで送迎の車が来る
しかし、
車両が古いせいか、座席が板のように硬く、また、途中の駅で停車する度にたっぷりと風が吹き込んだので、車内はほとんど暖房が機能していなかったのだ。
結局、最寄り駅で降りる頃には、利玖は出発時に比べて差し引きややマイナス程度の体調に落ち着いていた。
潟杜はあまり雪が降らないが、この辺りは日本海側の気候に似て、冬の間は雪が降っては少し溶け、また積もるというのを繰り返している。今日も、天はにぶく銀に光って、はらはらと雪を撒いていた。
駅の後ろに連なる山々は、墨絵のように透きとおったシルエットになって、しんと佇んでいる。
無彩色の風景の中を、レトロな赤の塗装を施した二両編成の電車だけが、あざやかな印象を残して北を目指して走り去って行った。
駅舎の外に出ると、利玖の横を歩いていた廣岡充が立ち止まった。
彼はボストンバッグを肩にかけたまま、ぐうっと腕を伸ばして上半身を斜めにする。
「腰が痛くなってしまいましたね」
廣岡は無言で頷いた。寡黙さでは坂城清史に引けを取らない人物だが、とにかく、口を開くまでが長い。
前が見えているのか心配になるほど、目の近くまで、もさもさとした髪が被さっている。初めの頃、利玖は顔を合わせる度にオールド・イングリッシュ・シープドッグを連想せずにいられなかった。
背が高く、それに見合った筋肉も備えているので、よく力仕事を任されているが、そばにいても威圧感はない。小雨の中の針葉樹のように、ひっそりとした雰囲気だけがある。
もう一人、会長の坂城清史は、カメラを片手に駅舎の造りや時刻表、窓口の外観などを見て回っている。
あまり部員には知られていない事だが、鉄道に並々ならぬ敬愛を抱く男なのだ。特急からローカル線へ乗り換える際も、彼の知識に大いに助けられた。
駅舎を見終えた坂城清史が外に出てくると、利玖はリュックサックのジッパーを下ろして、二日間のスケジュールが記されたコピー用紙を取り出した。
「迎えが来る前に、仕事内容を確認しておきましょう」
知り合いが経営する旅館の紹介記事を書いてほしい、というのが平梓葉からの依頼だった。
旅館の名は〈湯元もちづき〉。国内でも指折りの名湯・樺鉢温泉の中心部にある由緒正しい温泉宿である。梓葉の一族が経営に関わっているわけではないが、昨年、先代から旅館を引き継いだ現支配人が、梓葉と個人的な付き合いがあるらしい。
『正直、その後の業績があまり
旅館のパンフレットを、清史、利玖、そして記事の執筆要員として呼ばれた充の前でめくりながら、梓葉は声を落とした。
『もちろん、旅館でも様々な取り組みはしているのよ。わずかだけど、実を結び始めている物もある。だけど、まだまだ予断を許さない状況なの。家族ぐるみでお世話になっている場所だから、わたしも何か力になりたくて……』
その話を、利玖は、じっと梓葉の表情を観察しながら聞いていた。
理屈はわかる。筋も通っている。
しかし、それを温泉同好会に依頼してきた意図が、今ひとつわからない。
梓葉は、莫大な富を有する旧家・
(それとも……)
温泉同好会でなければいけない理由が、何かあるのか。
その疑念を見抜いたかのように、梓葉は『現役大学生作家として有名になった廣岡充が滞在記を書いてくれたら、これ以上ない宣伝になる』とあけすけな思惑を打ち明けてくれた。
だが、部室で会った時に彼女が見せた、別人のように暗い表情を思い返すと、利玖はどうしても、もっと別の所に彼女の真意があるように思えてならなかった。
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