16話 とても小さな箸と椀

 遥から借りた服に着替えて、利玖は住宅街を一直線に駆け戻った。

 行きは長く、心細かった道のりも、遥が貸してくれたスニーカーのおかげで魔法にかけられたように走りやすい。それに、探し続けていた桑爪をやっと夫婦神に返す事が出来るのだと思うと、お腹の底からむくむくと力が湧いてきた。

 西門から大学に入って、夫婦神の待つ煉瓦倉庫まで向かう途中に、ちょうど温泉同好会の屋台があった。ノスタルジックな裸電球の明かりの下では、一人残った坂城清史が文庫本を開いている。

 足音を聞きつけた坂城清史が顔を上げて「やあ」と微笑んだ。

「会長──」

 その瞬間、利玖の頭に稲妻がごとく天啓がひらめいた。

「お汁粉、まだ残っていますか?」



 資材置き場としての役目も六十余年前に終え、今となっては周囲の景観にわずかばかりの彩りを提供するだけの煉瓦倉庫の周囲は、夜になると底なしの闇に塗り込められる。

 どうやってうろを見つけよう、スマートフォンのライトで照らしたりしたら怒りを買って祟られてしまうだろうか、と危惧しながら植え込みに踏み込んだが、夫婦神のいる洞は内側からほのかな光を放っていて、すぐに見つける事が出来た。

 枯れ葉を重ねて作った即席のすだれ越しに、小さな影が二つ、身じろぎをするのが見える。

 あれも自分にしか見えない光なのだろうか、と思いながら、利玖は「ただいま戻りました」と声をかけた。

 片側の枯れ葉がずれて、男神が顔を覗かせる。

『おお……、見つけて頂いたのですな』

「はい。どうぞお確かめください」

 広げたガーゼに桑爪を乗せて差し出すと、男神は嬉しそうにそれをぴたぴたと両手で撫でた。

『ありがたい。これで潮蕊うしべへ戻る事が出来る』

「こんなに長く、お待たせしてしまって……」

『なんの、なんの。これぐらい何とも御座らん。貴女にお頼みして良かった』

「恐悦至極に存じます」

 ほっと胸をなで下ろしながら、利玖は「それと、こちらですが……」とかたわらの切り株に置いてあった物を手に取った。

 夫婦神の背丈に合わせて、はさみで短く切りつめた紙コップには、分量にすればわずか大さじ一ほどの汁粉が注がれている。

「体が温まるかと思い、お持ちしました。粗品では御座いますが、よろしければ召し上がってください」

『やあ、これは』

 男神が振り返って『おうい!』と呼ぶと、洞の奥から女神が姿を現した。

 男神に促されて、汁粉を覗き込んだ女神は、『あらあら、まあ』と声をはずませた。

『わたし達、旅に出る時はいつも箸と椀を持ち歩いているんですよ』女神は、いそいそと懐から箸を二膳取り出した。『食い意地が張っているだなんて他の神々は馬鹿にするけれど、今日ばっかりは大正解』

『うむ、これは良い。豆も入っておる』

 夫婦神は面を少しずらして、口にものが入るようにしてから、つまようみたいな箸で汁粉を頬張った。

 表情がわからなくても、和やかに笑い交わしているのがわかるような、仲睦まじい眺めだった。

 汁粉を完食すると、夫婦神は箸を仕舞い、揃って洞の縁に立った。

『さて。ここまでして頂いたからには我らも礼を尽くさねば。──そなた、もそっと近う』

 利玖が膝で進み出ると、女神が糸繰り枠を取り出して、ふわりと浮き上がった。

 彼女はそのまま、利玖の頭上へ滑るように降りてくると、糸繰り枠を掲げて大きく円を描くように振る。女神が振るのに合わせて、巻き付いている糸は、次第にやわらかな金色の光を放ち始めた。

 やがて、その一端がひとりでにほどけて利玖の足元に伸びてくる。

 くるくると際限なく繰り出される金色の糸が、利玖の体を取り囲んだ。


 遠い惑星の軌道を写し取ったような光の曲線が、音も立てずに層を成し、視界にゆっくりと降り積もる。

 その中で、利玖は、天上の楽器が奏でる調べのような声を聞いた。


──とこしえに

  とこしえに

  ことほぎの縁が

  よりあい むすびあい

  いわおよりいづるしづくの

  やがて淡海あはうみとなりけるよりもなほ永く

  やすらけく

  平らけくまもりたま


『……気持ちばかりのまじないですけれど、良い縁にめぐり合うお手伝いくらいは出来るでしょう』

「ありがとうございます」

 体を包む光の繭が消えると、利玖は口元をほころばせた。

淡海あはうみというのは、淡水の海──つまり湖の事ですね。岩からしみ出す水の一滴が、寄り集まって巨大な湖を成すまでにかかる年月よりもなお長く、良い縁に恵まれるように、と……。潮蕊湖の荘厳なお姿が目に浮かぶような、美しい寿詞よごとです」

『ふふ。気に入って頂けたようで良かったわ』

 女神は照れくさそうに糸繰り枠を引き寄せながら、ふと、何か探すように左右を見回した。

『そういえば、お連れの方は?』

 史岐の事なら、日が暮れた後も桑爪を探すのを手伝ってくれたが、前々から日取りの決まっていたどうしても外せない用事があって今はそちらに向かっている、と伝えると、女神は『そうですか……』とうつむいた。

『こちらが頼み事をする立場でありながら、声を聞かせもしないなど、さぞ高慢な神だと思われた事でしょう。ですが、あの方には大変に悪意の込められた厄介な縁がまとわり付いておりまして、神具の欠けた我らがじかに言の葉を交わすのは控えた方が良いと考えたのです。神具が戻った今ならばそれを切って差し上げる事も出来ますから、侘びの代わりに……、と思ったのですが』



 夫婦神は丁重に礼を言いながら地を離れ、月に引き寄せられるように夜空へ舞い上がると、こずえの合間に見えつ隠れつしながら消えていった。


 史岐に纏わり付いている厄介な縁とは一体何なのか、結局、利玖は訊く事が出来なかった。

 夫婦神が、たとえ史岐を介していても、言葉を交わすのさえ危険だと判断した恐ろしい存在と関わり合いを持ちたくないという理由も、もちろんある。しかし、最終的に利玖を思いとどまらせたのは、汁粉の試作を作った日に茉莉花が口にした言葉だった。

(付き合うというのは、秘密にしたい事を秘密にしておける事……)

 曖昧あいまい模糊もことして広義過ぎる、理論と呼んでいいのかさえ怪しい言い分だ。

 ジェイ・ポップの歌詞のワンフレーズに論拠としての完全さを求めるのも野暮な事かもしれないが、自分と茉莉花の関係にも、兄との関係にでも同じ事が言えてしまうのでは、わざわざ男女の付き合いに限定した意味がない。

 それがわかっていながら、史岐の事を訊かない口実にしてしまったのは、他でもない利玖自身に、隠し持っている思いがあるからだった。


 夫婦神が去った天に向かって一礼すると、利玖はすっと息を吸い、踵を返した。

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