4話 魔除けの香油、武将の名前

 別海那臣の提案で境内を出た三人は、住宅街の中を歩いて、古民家を改装した喫茶店に入った。

 膝ぐらいまでの高さしかない看板が、ぽんと軒先に置かれているだけで、別海が教えてくれなかったら喫茶店である事もわからないだろう。それくらい、民家としてのたたずまいを残し過ぎた外観だった。

 引き戸に暖簾のれんがかかって店内は薄暗い。

 別海がおとないを告げると、ホールの奥から厨房服の男が出てきて、親しげに会釈をした。

「二階は空いているかい?」

「ええ、使えますよ」

 男は鍵束を持ってきて、ホールの隅にあるアコーディオン・カーテンを開けた。人がひとり通れるくらいの幅しかなく、閉まっている状態ではただの物置きにしか見えなかったが、中には、異界に続いているような木板の階段が上に向かって伸びていた。

「飲み物はどうするね?」

 別海が振り返って訊ねる。

 史岐は、メニューからホットのカフェ・ラテを選び、利玖にも見せようとしたが、彼女は遊園地帰りの子どものように立ったままうつらうつらとしていたので、別海に向き直って「それをもう一つ」と伝えた。



 階段を上り、手すりのついた細い廊下を進むと、横に長い和室が現れた。

 香りのよい青畳が敷かれ、道路に面した窓と平行に長机が並んでいる。二階には、この和室ひと部屋しかないようだ。窓は広々と大きく、照明を点けていなくても外光が柔らかに藺草いぐさの目を浮かび上がらせていた。

「他にお客もいないようだし、ちょっと大目に見てもらおうかね」

 そう言うと、別海は利玖を見て手招きをした。

 史岐の後ろにいた利玖がふらふらと進み出て、別海の前に背中を向けて座り込む。これから何をされるのか、言われなくてもわかっているようだった。

 別海が鞄から取り出した小さな布の包みを開くと、花とつたの彫刻を施した柘植つげの櫛が現れた。

「利玖お嬢さんは綺麗な髪をしているからねえ」利玖の髪をほどき、手で簡単に流れを整えながら別海は言う。「髪には霊力が宿る。それなりの道具を使って手入れをしてやれば、ちょっとした悪い物からは守ってくれるよ」

「この匂いはずっと変わりませんね……」

 利玖は眉間に皺を寄せて呟いた。確かに、別海が櫛を取り出した時から、草刈りをしたばかりの地面に溜まっている草熱くさいきれのようなつんとする匂いが漂っている。

「それだけ効き目があるのさ」

 別海は利玖の髪をまとめて背中へ流すと、毛先から丁寧にとかし始めた。

「この櫛は差し上げますから、潟杜に戻っても、念を入れて向こうひと月は毎日梳いてくださいよ。ご学友の迷惑になると思うのなら、家に帰った後、風呂上がりにでもいいから一日一回は櫛を入れる事」

 利玖は、こくんと頷き、その動作がキックスタートになったように船を漕ぎ始めた。境内を出た時点ですでに口数が少なくなっていたから、ずっと眠いのを我慢していたのだろう。

 少しすると、エプロンを身につけた中年の女性が三人の飲み物を持って階段を上がってきた。彼女は、空調はちょうど良いか、座椅子などは必要ないか、他に注文はないか等を訊ね、別海がいずれも問題ない旨を伝えると、また階段を下りていった。

 史岐はカフェ・ラテに口をつけた。

 香り高い豆は、ほろ苦く、クリームのこっくりとした甘さが疲れた体にちょうど良い。

 どこか懐かしい、昔ながらの家の空気の中を、下の道路を歩く人々の足音や話し声が時折、夢のように流れてきて、気を抜くと史岐まで眠ってしまいそうになった。

「梳いておやり」

 ふいに呼ばれて、はっと目を戻すと、別海が自分に櫛を差し出していた。

「いえ、僕は……」

「いいから、いいから」

 別海は、置物でもひっくり返すかのように、座っている利玖の体を座布団ごと回して史岐に寄りかからせた。利玖は、ぱち、と瞬きをしたものの、史岐の方を見もせずに、またうとうととし始めた。

 もはや逃げるかたなしと覚悟を決め、史岐はカフェ・ラテのカップを置いて櫛を受け取った。

 別海が先に整えた髪は、上質な絹糸のようにブラウスの肩にたゆたっていて、指に吸いつくような手ざわりがあった。

 おっかなびっくりの手つきで櫛を動かしているうちに、体にまとわりついていたもやが晴れて清涼な空気が満ちてくるように、意識がすっきりと冴えてくるのに気がついた。

「お前さんも幾分か楽になっただろう?」別海が微笑む。「顔色が良くなったよ。その櫛には、魔除けの香油を染みこませてあるからね」

「魔除け……?」

 史岐が訊き返すと、別海は答えを口にする前に、ちらっと利玖に視線を向けた。どうやら利玖には聞かせたくない話のようだ。

 史岐が座布団を二つに折って、それを枕代わりに頭の下に差し入れて体を横たえてやると、利玖は静かに寝息を立て始めた。

「初めに、礼を言わせておくれ」

 緊張して膝の上で拳を作っている史岐に向かって、別海は頭を下げた。

「お前さんは、ひょっとしたら、わたしが手助けをしたおかげで利玖お嬢さんが『戻ってこられた』のだと思っているかもしれない。でも、お嬢さんを助けたのは、お前さんだよ。お前さんが『五十六番』の力を借り受けているその声で名を呼んだから、お嬢さんは、ご自分の居場所を思い出す事が出来たんだ」

「貴方が何か特別な事をされたわけではない、と……?」

「ああ。いざとなれば試す気でいた策はいくつかあったがね」別海は湯呑みの茶をすする。「しかし、お前さんならわかる事だと思うが、土地神や妖の中には『見られた』という事実、ただそれだけで力をつける厄介な手合いもいる。──見る、見られるというのは、一種の縁結びだからね。利玖お嬢さんを引き戻す為にあれやこれやと試していたら、否が応でも繋がりを持たされる所だった」

「でも、それは別海さんにとってのお話で、利玖さんが『何か』に目をつけられたという問題はもうすでに起きてしまっていますよね」

「言うじゃないか……」別海は目を細めた。「そう。だから、今はせめてこれ以上ことがこじれないように、お嬢さん自身には、立ちくらみを起こした時にちょっと悪夢を見ただけだと思わせておきたいんだよ。お前さんも、どうかその事を心に留め置いてほしい。もし潟杜に戻った後、お嬢さんが今日の事について何か考え込んでいたら、夢うつつにどこの誰ともわからない存在にささやかれた事を真に受けるんじゃないと、ぴしゃりと叱ってやっとくれ」

 まるで、利玖に接触した存在の正体について察しがついているような口ぶりが気になったが、そんな事まで追求するのは出過ぎた行いだと思い、史岐は黙って頷いた。

 黙ったまま、今頭に浮かんでいる事を訊くべきか、しばらく悩んだ。

「何か言いたい事がありそうだね」

 別海が促す。

 自分が潟杜を出てからこの方、長々と懐で温め続けた疑問を別海が知るよしもないだろうが、ここで「そんな事はない」と答えた所で、双方わだかまりを残した別れになる事は必至だった。

 史岐は観念して、姿勢を正した。

「大変な失礼である事を承知で申しますが、その……、利玖さんからは単に、引退されたお医者様だとしか聞かされていなかったもので。こんなに綺麗な格好をして会いに行く相手が一人暮らしの男性か、と思うと……」

「えっ?」

 別海は、ぽかんと口を開けていたが、やがて破顔すると、着物の帯を押さえて苦しそうに笑い始めた。

「あのね……、老いぼれをそんなに驚かせるものじゃないよ」

 利玖を起こさないように声を殺して笑っているのが、また大層辛そうに見えて、史岐はますます体を縮こまらせたくなる。

「ああ、可笑おかしい……。いや、でも、わたしも逆の立場だったら正気じゃいられないな。たとえ手前が嫁を迎えられる歳じゃなくたって、どこぞから縁談話を引っ張って来ている事もある」

 思わず身構えた史岐を見て、別海はにやりと笑い「冗談だよ」と付け加える。

「ま、そういう同業がいるのは事実だがね。わたしはてんで興味がない。自分の血筋を残そうとも思わないし、幸せな思いなら、佐倉川のお屋敷にいる間に十分過ぎるほど味わわせて頂いた。その上、隠居した今でも、こうして元気なお姿を見せに来て頂けるのだからね」

 別海は机に片肘をついて、斜めに史岐を見上げた。

「そうかい……、利玖お嬢さんも、いつの間にか良いお相手を見つける年頃になられたんだね」

「良いかどうかは、僕にはわかりません。少なくとも匠さんからは真逆にとられていると思います」

「匠お坊ちゃんが手放しで褒める奴の方がおっかないさね」

 身も蓋もない別海の言い方に、史岐はつい口を押さえて苦笑してしまった。

 かたわらの利玖はよく眠っている。別海と史岐が話している内容は、まったく耳に届いていないようだ。

 別海は、胸元から懐紙を一枚抜いて机に置くと、万年筆でさらさらと何か書きつけた。

「毎年、佐倉川のお屋敷ではおおみその夕方から正月にかけて、新年を祝う宴が開かれる。外からのお客も招くよ。ありがたい事に、このわたしにもまだ声がかかる」

 流麗な筆跡で数字を書き記した懐紙を、別海は笑みとともに史岐に差し出した。

「気が変わらなかったら、ここに電話をかけて来なさい。わたしの紹介で入れてもらえるように話をつけておこう。利玖お嬢さんの正式な客人として招かれるのは、まだ荷が重いだろうからね」

 史岐は、礼を言って懐紙を受け取ると、壁に掛かっている時計を見上げた。

「すみません。ずいぶん長居をしてしまいました」

「こちらこそ、引き止めて悪かったね。帰りもお前さんが迎えに来るのかい?」

「はい。その予定です」

「じゃあ、明日か。よろしく頼むよ」

 一礼して、史岐が部屋を出て行こうとすると、別海が「あ、待った、待った」と慌てた声を出した。

「お前さん、名前は何と書くのだっけ。確か、源平合戦の頃に同じ読みの武将がいた事は覚えているんだが、この歳になるとどうもちょっとした文字が思い出しづらくてね」

「史岐です。歴史に、分岐と書いて、史岐」史岐はゆっくりと答える。「僕は、同じ名前の武将は知りません」

 別海が、はじかれたように顔を上げた。

 食い入るような眼差しで史岐を見つめた彼女は、やがて、力なく「ああ……」と呟き、机に寄りかかった。

「どうりで……、こんなに若かったか、と……。すまないね。無礼を詫びなければいけないのはわたしの方だった」

「いえ」史岐は穏やかな表情で首を振った。「武将の方が残っていたら、僕も貴方のような方から、服とまではいかなくても、お年玉くらいはもらっていたかもしれませんね」

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