3話 母が最初に産んだ子
鳥居をくぐった所で、苔むした穴から外に出たように息をするのが楽になった。
石段を下って、野ざらしの自立式灰皿の前で煙草に火を点ける。慣れ親しんだ匂いの煙が、内側から喉を押し広げた。
目をつむったまま一本目を吸い終え、二本目を取り出す頃にはかなり気分が良くなっていた。煙とともに、史岐は安堵の息をつく。
迂闊に神格に近づいたり、積極的に
幼い頃はもっと苦しい思いをしたものだが、『五十六番』を継承し、特注の煙草を吸うようになってからは大分ましになった。
身体が成長して、環境に耐えうるだけの体力がついたという事もあるが、煙草自体に特別な効果がなくても、喉に寄生する『五十六番』が好物を与えられて、機嫌を良くしたついでに毒を和らげてくれる事があるからだ。今回は狙った通りに作用してくれた。
煙草を口に咥えながら、境内に目を戻す。
利玖が、まだ廊の近くにいるのが見えた。端の方に移動して中を覗き込んでいる。
やはり、今日の服はとびきりよく似合っている。
生家に雇われていた医師から贈られた服なのだと聞いた時、史岐は驚き、そして、少しだけ羨ましかった。それは、自分の家では絶対に起こり得ない事だったからだ。
まだ、史岐が生まれる前の事。
母が最初に産んだ子がこの世を去るのを、当時、熊野家に雇われていた医師は止める事が出来なかった。
物事の分別がつく歳になってから自分で色々と調べもしたが、史岐個人の見解としては、当時の処置に問題はなかったと思っている。だが、父と母は激しく医師を責め立て、以来、幾度かの人員交代を経ても、彼らと自分達との間には埋めがたい溝があった。
それほど昔の事ではない。
だからこそ、両親は未だにその時の絶望から抜け出せずにいるのだろう。
しかし、史岐にとっては、文献の中でしか実在を確かめられない遠い日の出来事。
太古に起こったという、生命史の転換点と同じだ。
たぶん、自分の精神がそういう風に解釈したがっているのだろう。
息を吸い、吐くのに合わせて、煙草の先の小さな赤い光が明滅するのを、史岐はぼんやりと眺めていた。
煙草を吸う時、一人でいるか、他に人がいるか、それによって全く意味の違う行為になる。一人で煙をくゆらせている時には、煙に混じって、普段は意識の底で
木陰に立つ史岐の前を、横断歩道の方からやって来た和服の老婦人が横切り、こちらを一瞥して鳥居の方へ歩いて行った。
(そろそろ戻ろう……)
灰皿の上で煙草を叩く。
あと一度か二度は
石段を上り、鳥居をくぐった所で立ち止まって、史岐は利玖を探した。
境内は、それほど入り組んではいないが、幹の太い木を
鼓動が速くなる。
境内の外も探してみた方が良いだろうか。いや、それよりもまず先に、神社の社務所を訪ねて、利玖の姿を見なかったか職員に訊いてみるべきだろうか……。迷った末に、史岐は、最後に彼女と別れた廊の所に戻ってきた。
例の立て札の前まで来ると、史岐は、びくっとして足を止めた。
さっき自分の前を通り過ぎていった和服の老婦人が、利玖の肩を抱いて立っていたのだ。
春霞のような淡い紫の着物に帯を締め、つるの両端を細い鎖で繋いだ眼鏡をかけている。目元には皺が刻まれているが、眼差しは
髪は白くなっていたが、きちんと手入れがされている事を窺わせるしなやかな光沢があり、それをすっぱりとうなじで切り揃えている。背は、史岐と変わらないくらいに高かった。
老婦人に抱きかかえられている利玖は、たった今世界に放り出されたばかりのように、焦点の定まらない目をさまよわせている。
「あの……」
史岐は、息を切らしながら老婦人に声をかけたが、何と言葉を次いで良いかわからなかった。
自分がこの場を離れていた数分の間に何が起きたのか、怪しまれずに訊き出せないかと悩んでいるうちに、老婦人の方が先に口を開いた。
「利玖さんは、ずっとここにいたさ。少し見えにくくなっていただけだよ」
そう言って、老婦人は利玖の額に手を置いた。彼女の手の下で、利玖はこわばりが解けたように、ほーっ……と息をついた。
老婦人は微笑みを浮かべて史岐を見た。
「声を聞いてわかったよ。お前さんが当代の『五十六番』だね?」
「え……」
とっさに答えに詰まった史岐に向かって、老婦人は強かそうに唇の端を持ち上げた。
「わたしは
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